⑵暗闇の底

 千葉県の北西に位置する海浜工業地帯には、薬品の据えた臭いが充満している。工場の高い煙突から噴き出す灰色の煙は空に吸い込まれ、人体に有毒な化学物質と共に雪となって降り注ぐ。


 近年はこの国も環境汚染に対して重い腰を上げ、工場を潰したり、建て替えたりしている。人件費削減の為にAIが導入されると、不要となった労働者が其処此処に溢れて、海岸沿いにホームレスの街を作った。


 社会は、差別や貧困を撲滅しようと息巻いているが、そういったものは失くなったのではなく、見え難くなっただけだ。立花は海岸沿いに愛車を停めて、煙草を一本吸った。ホームレス達が古いストーブに群がって、身を寄せ合っている。


 彼等の姿は、自分の有り得た未来である。

 師匠に拾われなければ、立花は混凝土漬けで東京湾に沈められたか、生ける屍となって今も彷徨っていただろう。


 立花は吸殻を車用灰皿に押し込んで、運転席に滑り込んだ。外気に当たっていたのは僅かな時間だったのに、指先が冷えていた。


 海岸線から十五分程走ると、硝子の箱のような建物が見える。周囲は白い壁に囲まれ、まるで精神病院のような印象を受けた。入口は南北に一つずつあり、どちらも守衛室とオートロックによる柵が設置されていた。関係者には専用のカードが配られ、チェックを受けなければ入れない。


 加えて、周辺には高い建物が無い。

 立花は主に遠距離からの狙撃を行うが、この立地状況ではヘリコプターでも飛ばさない限り難しい。


 ターゲットの事前情報を頭の中で反芻する。


 エトワスノイエスの薬物開発部門に所属する若い科学者。

 名前は吾妻光莉あずま ひかり、29歳、女性。この国最高峰の大学の薬学科を主席で卒業し、渡欧。卒業論文は薬物依存に対する薬物によるアプローチで、渡欧後もその分野で研究を続けて来た。


 日本に戻って来たのは二年前で、彼女の経歴を評価したエトワスノイエスから声が掛かり、以後は研究室に篭り切りだと言う。


 このエトワスノイエスには黒い噂もあった。

 薬物研究の為に、身元不明の遺体を使った人体実験を行なっていると言うのである。そして、立花が独自に調査した所、それは事実だった。何らかの事情で弔うことの出来ない死体が運び込まれ、金が流れている。


 それが非道な人体実験なのか、科学への挑戦なのか、それとも臓器売買というビジネスなのか、立花には分からない。


 裏社会には、掃除屋と呼ばれる業種の人間達がいる。先日の殺し屋ギルドの殲滅戦で出た幾つもの死体が、弔われることもなく焼かれたり、埋められたり、バラバラにして売り払われたりした。エトワスノイエスはその一端を担っているのかも知れない。


 とは言え、立花自身はそれを咎める程の倫理観や道徳観念を持ち合わせていなかった。必要な情報ではない。問題は、ターゲットが昼夜問わず殆どの時間を研究室で過ごし、狙撃する隙が無いと言うことだった。


 潜入する必要がある。だが、自分達にはその為の手札が無い。長丁場になりそうだ。立花が溜息を吐いた時、聞き覚えのあるエンジンの音が轟いた。


 海岸沿いの開けた道を、一台のアメリカンバイクが駆け抜ける。乾いた排気音が小気味良く響き渡り、ホームレスが段ボールハウスから顔を覗かせた。


 バイクは立花に気付くことなく、真っ直ぐに製薬会社の門扉に向かった。フルフェイスのヘルメットにダウンコートを纏った男が、堂々とチェックを潜り抜けて行く。監視カメラが首を擡げて追尾するが、そいつは振り返りもせずに駐車場へと消えて行った。


 あれは、エンジェル・リードの天神侑。

 製薬会社に何の用があるのか知らないが、依頼の難易度がぐっと高くなったことだけは分かった。


 年明けに此方は、エンジェル・リードの若い芸術家を一人殺している。湊はそれを因縁と引き摺る相手ではないが、天神侑は如何なのか分からない。――と言うか、何でこんな所に来たんだ?


 面倒なことになりそうだ。

 立花は舌を打ち、懐の煙草へ手を伸ばした。














 6.毒と薬

 ⑵暗闇の底












 二時間程経つと、天神侑の乗ったバイクが出て来た。

 何をしていたのか全く分からないが、向こうは立花に気付かず颯爽と去って行った。立花は車内から閉ざされた門扉を眺めた。


 年老いた守衛と、体格の良い警備員が二人。

 監視カメラ映像でも見られたら楽なのだが、立花は機械が好きではなかった。翔太はそこそこ使いこなせるようだが、流石に企業の監視カメラにハッキングを掛ける程の技術は無い。


 うちもデジタルに切り替えるべきだろうか。

 しかし、エンジェル・リードが関わっているとなると、迂闊に手を出すのも難しい。エンジェル・リードへ翔太に探りを入れさせてみるか。腹芸の下手な男だが、湊は翔太を好意的に評価しているので、躱せるかも知れない。


 二月の寒空の下で張り込むよりは、生産的である。

 立花は携帯電話を取り出して、翔太に電話を掛けた。




「おい、翔太。湊にエトワスノイエスのことを訊いて来い」




 立花が命令すると、スピーカーの向こうで翔太が忠犬のように返事をした。指示内容が伝わっているか疑問だが、下手に情報を入れて尻尾を掴まれるよりは良い。


 三十分程して、折り返しの電話があった。

 辺りは既に真っ暗だった。窓には薄く雪が積もり、車内は息が白く染まる程に冷えている。窓を開けると、化学薬品の悪臭と潮の臭いが入り込む。




『エトワスノイエスって、外資系企業らしいな。本社はドイツにあって、向こうで作ったデータとか機械を持って来て、日本で製造してるんだって』

「それで?」

『湊の親父って、医者だったろ? 住んでたのはニューヨークだけど、元々は欧州の精神科医だったらしい。その時に色々お世話になったのがエトワスノイエスなんだって』




 つまり、父親のコネクションか。

 立花は舌を打った。




『エンジェル・リードも投資してるらしいぜ。それから、検体を寄付してるって言ってたけど、何のことかは教えてくれなかった』




 投資に、検体の寄付。検体は恐らく――死体のことだ。

 エンジェル・リードは業務の傍らで出た死体を製薬会社に提供し、エトワスノイエスは死体を使って実験をする。夜の闇より深い暗闇が、其処には広がっている。


 湊は不審に思っただろう。

 翔太がいきなり製薬会社の情報を訊くなんて不自然だ。向こうは年中繁忙期なので、この話題が仕事の山に消えることを祈るしかない。


 立花は、薄暗い製薬会社の外観を眺めた。

 午後七時を過ぎると社員が帰宅を始める。建物からは少しずつ灯りが消され、やがて棺のように静かになった。途中、守衛が夜勤者と交代する。建物の中には懐中電灯を持った警備員が規則的に巡回しており、全くの無人になることは無さそうだった。


 ターゲットは出て来ない。

 本当にずっと引き篭もっているのだろうか?

 立花には、白い壁に囲まれた建物が要塞のように感じられた。ターゲットが出て来ない以上、侵入するか、誘き出すか。


 侵入はリスクが高い。

 では、どうやって誘き出す?

 エンジェル・リードが使えるだろうか。


 車をずっと停めておく訳にもいかないので、立花はエンジンを掛けた。午後十時。建物内部は明かりが落とされ、非常灯の緑の光が点灯している。


 愛車である黒のBMWが滑らかに発進する。

 立花はサイドミラーで門扉を確認し、ホームに向けてアクセルを踏んだ。


 事務所に戻った時には、既に午前零時を回っていた。汚れた繁華街は今日もお祭り騒ぎである。情報屋の元に行こうか迷ったが、体が冷え切っていたので止めた。


 応接用のソファで、翔太が寝そべっていた。

 立花の帰宅に気付くと、だらしなく寝転んだまま「おかえり」と手を振った。苛立ちが込み上げて来て、立花はソファを蹴ってやった。




「何すんだよ!」

「うるせぇ! こっちが寒い中張り込んでるのに、テメェはだらだら何してんだ!」

「はいはい、すいませんね!」




 翔太が起き上がって、手を上げた。

 こいつ等はどうしてクソ生意気なのだろう。立花は給湯室の冷蔵庫を開けて、中から挽肉と卵を引っ張り出した。

 翔太が入口から顔を覗かせる。




「こんな時間から料理すんの?」

「うるせぇな。テメェに関係無ェだろ」




 常温放置していた玉葱を微塵切りにする。

 銀色のボウルを取り出して、挽肉と卵、玉葱とパン粉を混ぜて捏ねる。肉の潰れる音が耳に残る。指先が冷えて感覚が無かった。片手間にフライパンを温め、スライスした大蒜を放り込んだ。




「ハンバーグ?」




 翔太が訊ねた。

 立花は無視して、挽肉を俵型に成形する。

 熱したフライパンに並べると、肉の焼ける香ばしい匂いが給湯室を包み込んだ。ハンバーグは蒸し焼きにしつつ、冷蔵庫から大根のブロックを引き出す。卸し金が無いと思ったら、食器乾燥機に置いたままだった。立花は使った覚えが無い。


 大根を擦り下ろしていると、翔太が言った。




「エトワスノイエスに行って来たんだろ? 侑に会わなかったか?」

「どうだったかな」

「湊が言ってたぜ。お使いを頼んでるって」




 元国家公認の殺し屋も、今では子供のお使いか。

 立花は擦り下ろした大根を小鉢に移して、包丁と俎板を洗った。肉の具合を確認しつつ、冷凍していた白米を解凍する。

 冷凍庫を覗くと、見覚えのないタッパーが入っていた。


 取り出して見ると、中には茹でたブロッコリーが冷凍されていた。立花は料理を冷凍する習慣が無いし、翔太はそもそも料理をしない。そう考えると、卸し金もブロッコリーも、先日、湊が置いて行ったのだろう。


 何がしたいのか、全く分からない。

 立花はタッパーを冷凍庫に戻し、白米を電子レンジに放り込んだ。




「見学したけりゃ来ても良いってさ。銃は持って来るなって言われたから、まあ、何かしら勘付かれたんだろうけど」




 翔太は壁に寄り掛かり、苦く笑った。

 勘付いているのに見学に誘うと言うことは、防衛に自信があるのだろう。しかし、想定の範疇である。腹芸の苦手な翔太と、他人の嘘が見抜ける湊では土俵が違う。ならば、これはきっと立花に売られた喧嘩だ。




「どうする?」




 翔太は笑っていた。

 立花はフライパンの蓋を開け、ハンバーグを引っ繰り返した。棚から平皿とポン酢を取り出す。電子レンジが鳴った。




「お前が行け」




 白米から湯気が上り、換気扇に吸い込まれて行く。

 ハンバーグが焼けたので皿に移し、大根おろしとポン酢を静かに掛ける。翔太は身を起こした。




「俺だけで良いの? これは、アンタに売られた喧嘩だぜ」

「そんなもん買う程、暇じゃねぇ」




 見学に誘う意図は分からないが、わざわざ罠に掛かる理由も無い。危ない橋は渡らない。勇敢な者は早く死に、臆病者は長生きする。逃げるが勝ちは、戦場で生き残る為の鉄則である。


 翔太は何かを言いたげにしていたが、それ以上は食い下がらなかった。




「分かった。じゃあ、俺一人で行って来る」

「土壇場で情が湧くとか、素人みたいなことすんなよ?」

「もうそんなガキじゃねぇよ」




 翔太が笑った。

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