⑶窮鼠

 翌日の朝、湊から電話が来た。

 立花は既に起きていたが、翔太は事務所で寝ていた。昨日の翔太の探りについて追及されるかと思ったが、電話口では一言「将棋をしよう」と言うだけだった。


 エンジェル・リードの天神侑に連れられて、翔太がエトワスノイエスへ見学に行ったのが昼前。入れ違いのように湊が事務所の扉を叩いた。


 立花の事務所に将棋盤は無い。

 自分達がいつも行っていたのは、将棋盤も駒も必要の無い目隠し将棋だった。湊は手ぶらでやって来て、勧めてもいないのに勝手にソファに座った。


 ダウンコートを脱いで畳むと、鼻の頭を赤くして微笑んだ。




「お願いします」




 そう言って、湊は頭を下げた。

 立花は眉を寄せた。




「本当にやんのか?」

「そう言っただろ?」

「俺はお前と違って暇じゃねぇ」

「負けるのが怖いの?」




 安い挑発だ。

 立花はせせら笑った。




「見学とは、どういう風の吹き回しだ?」

「……? 翔太が見たかったんだろ?」




 湊が不審そうに目を細めた。

 その時になって、立花は或る可能性に行き着いた。


 こいつ、もしかして何も気付いていないのか?


 翔太は腹芸が苦手で、湊は他人の嘘が見抜ける。隠し事をして情報を引き出そうとしている自分達は圧倒的に不利だと思っていたが、そうではなかったのだろうか。


 湊は身を乗り出した。濃褐色の瞳に怜悧な光が宿る。




「……俺を騙したの?」

「お前が騙されることあるのか?」




 立花が訊き返すと、湊は口元を結んだ。

 珍しい反応だった。まるで、傷付き、自分を責めているようだ。その反応で、可能性が確信に変わった。


 こいつ、本当に何も気付いてなかったんだ。

 翔太が探りを入れたことも、その意図も。

 湊は感情を押し殺したような低い声を出した。




「蓮治、何を狙ってる?」

「何のことだ?」

「無駄な話は止めよう。何処からの依頼で、誰を狙ってる。誰を――……まさか、研究者?」

「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れねぇな?」




 湊は舌を打って、コートを引っ掴んだ。

 流石にこのタイミングで逃す程、御人好しではない。立花は机を飛び越えて、駆け出そうとする湊の背中を蹴り飛ばした。吹っ飛んだ湊が床に衝突し、潰れた蛙みたいな声を出す。立花はその背中に伸し掛かり、関節を押さえた。


 床に縫い付けられながら、湊が叫んだ。




「彼処には手を出すな!!」




 そりゃそうだろう。エンジェル・リードにとって、あの製薬会社は都合の良い隠蓑で、金蔓だ。一般人が死ぬと警察の捜査が入る。


 立花は笑った。




「丁度良かったじゃねぇか」




 馬鹿な子供の火遊びも、滑り台のような転落人生も、長い悪夢もこれで終わりだ。天神侑は闇に消え、湊はまた表社会に戻れば良い。裏社会を騒がせるエンジェル・リードもおさらばだ。




「前にも言っただろ? サレンダー出来ねぇのは損失だよ」




 縛り付けて諦めるような男ではないので、立花は押さえ付けながら腕を取った。相変わらず、細い腕だ。後ろに回しながら肩口を捻ってやると、関節の外れる鈍い音がした。


 短い悲鳴が歯の隙間から零れ落ちる。両肩を外してから、足首をネクタイで縛った。まるで芋虫だ。立花は蹲る湊を蹴り飛ばし、壁に凭れ掛かった。


 湊一人を制圧するのは簡単だ。問題は、天神侑である。こうなった以上、向こうは黙っていないだろうし、衝突は避けられない。――だが、向かって来るならば容赦はしない。


 立花は、抵抗の術を失くした子供を見下ろした。

 天神侑は、翔太を連れてエトワスノイエスに行っている。この状況を予想していた者はいない。どうするかな……。




「サレンダーするか、湊?」

「……絶対にしない……!」

「まあ、お前はそう言うだろうな」




 立花は溜息を吐いた。

 長丁場になると思っていたが、短期決戦となりそうだ。天神侑がこの状況に気付く前にターゲットを始末する。湊が安否不明となれば、向こうも迂闊な行動は出来ない。


 二年前、湊がこの国に来たばかりの頃。

 立花が仕事をしようとすると、湊は邪魔をしに来た。目の前で人が殺されることが堪えられなかったらしい。だから、立花は湊を縛り付けて、目の前でターゲットを殺してやった。


 あの時と同じだ。抵抗の術も無く、身動きの一つも出来ず、濃褐色の瞳に炎を灯していた。――あの時に折れていれば、こんなことにならなかったのにな。




「じゃあな、湊。其処で指を咥えて眺めてろ」




 立花はコートを羽織った。騒がれるのも面倒なので、猿轡を噛ませて置く。湊が濁った声で何かを叫んでいる。呻き声なのかも知れないし、罵声なのかも知れない。けれど、立花は振り返らなかった。扉を開けて鍵を閉める。


 外はまだ、明るかった。

 脆い日差しが薄く積もった雪に反射して、細かな光の粒子となる。立花はポケットに手を入れ、愛車の鍵を取り出した。












 6.毒と薬

 ⑶窮鼠きゅうそ












 高速道路はがらがらに空いていた。

 一つの渋滞も事故も無く、立花は予定よりも早く目的地に到着した。それは昨日下見に来たエトワスノイエス製薬会社の研究所である。


 ボケ老人みたいな守衛に、制服を着た木偶の坊が二人。

 駐車場は社員の車で埋まり、建物は閑散としながらも確かに稼働しているようだった。


 余り時間を掛けると、エンジェル・リードが騒ぎ出す。奴等は厄介者だが、分断すれば戦力は大きく落ちる。立花は車内で翔太にメールを送った。――ターゲットを誘き出せ。


 建物への潜入なんてリスクを負う必要は無い。

 立花はスムラクを引っ張り出し、手早く組み立てた。通りの向こうにはホームレスの段ボールハウスが軒を並べているが、研究所の周辺は人気が無かった。


 翔太から了解の返信があった。

 どうやら、翔太は天神侑とターゲットに接触したらしい。立花の狙撃地点まで誘き出し、暗殺する。成功したらすぐ様、翔太は離脱しなければならない。側にいる天神侑が厄介だ。


 研究所の周囲は白い壁で囲われ、まるで城壁である。けれど、どんな城も落とすことは不可能ではない。

 裏口の柵の隙間から、背の低い常緑樹が見える。真冬だと言うのに鮮やかな緑色をして、青々と葉を茂らせていた。


 パワーウィンドウを少し下げ、建物に向けて遠視スコープを覗く。硝子張りの建物は、見た目は整っているが防衛戦には向かない。翔太から了承の返事。立花は弾薬を確認してから、スムラクを構えた。


 遠距離の狙撃が得意だった。

 死の感覚が遠く、逃げ易い。死際の呪いの言葉も、噴き出す血も、まるで遠い世界のように感じられる。


 窓の向こうに人影が見えた。

 白衣を着た背の高い女だった。伸ばしっぱなしの黒髪が腰の辺りまで波を打っている。黒縁の分厚い眼鏡、化粧気の無い幸薄そうな顔付き。吾妻光莉。


 あと一歩、前に来い。

 引き金を絞ればそれで終わりだ。

 吾妻は何も知らず、得意げに研究所内を案内している。その後ろには翔太と天神侑。


 エトワスノイエスは科学の奴隷である。訳ありの死体を買い取っては実験に流用し、様々な企業から恨まれ、将来有望な研究者は無残に殺される。


 さあ、あと一歩。

 緊張感と高揚感が心地良い。引き金を引くその瞬間が待ち遠しく、そして、虚しかった。


 彼女の研究は、将来多くの人を救ったのかも知れない。だが、立花は依頼を受けた。其処に私情は関係無い。何故か。自分は正義の味方でもなければ、司法の番人でもない。ただの殺し屋だからだ。


 吾妻が足を踏み出した、その瞬間、立花は引き金を引いていた。単発の乾いた銃声が響き渡り、硝子に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。砕けたガラス片が落下し、悲鳴のような音を立てた。


 その時になって守衛と警備員が異常に気付き、狙撃された窓を見上げて震え出す。警察が到着する頃には、もう自分はいない。ターゲットは死んだ。――その筈だった。


 戦慄が背中を駆け抜けた。

 立花はスムラクを下げ、建物の向こうを見遣った。割れた硝子の中、エメラルドの瞳をした男が立っている。




「出やがったな」




 知らず、口元は弧を描いた。

 天神侑の足元には、腰を抜かしたターゲットがいる。翔太はいない。離脱出来たらしい。立花はもう一度発砲した。銃弾は空気を切り裂き、天神侑を撃ち殺す筈だった。だが、その瞬間、銀色の閃光が稲妻のように走った。


 天神侑の手には、鈍色に輝くナイフが握られている。

 スナイパーライフルの銃弾をナイフで弾くなんて曲芸が出来るのは、立花が知る限り、天神侑ただ一人である。

 正真正銘の化物だ。――だが、化物というのは退治される宿命である。


 続け様に撃ち放ったが、天神侑はその場を動かず、まるで何かを庇うかのように立ち塞がっていた。エメラルドの瞳には獰猛な炎が燃えている。立花は喉の奥で笑った。


 牙の抜けた狂犬と思っていたが、健在だったらしい。

 銃弾は殆ど弾かれたが、ターゲットを狙った一発が天神侑の肩口を貫いた。真っ赤な血液が花のように散る。


 天神侑が身を翻し、ターゲットを連れて建物の奥へと駆けて行く。ダメ押しで撃っても良かったが、銃弾を無駄にするのも馬鹿らしいので止めた。


 仕切り直すか?

 いや、此処で退いたら不利になる。

 畳み掛けよう。


 守衛室はパニックだった。警察への通報と社員の避難。ごった返す人の群れの中を、立花は泳ぐようにして進んで行く。どうあっても、天神侑との衝突は避けられない。

 別に殺し合いは好きではない。だが、手強い敵を前にすると燃えて来る。あいつの膝を突く姿が見たいと思う。


 天神侑とは何度か殺し合ったことがある。その度、横槍が入ったり、事情があったりして決着は付かなかった。近接戦は天神侑に分があるが、お荷物を持っているなら此方が有利だ。


 守るものがあるのは素晴らしいことだ。それは弱点が増えるのと同義である。実際に失うよりも、失うかも知れないという恐怖が人を縛り付ける。


 建物内は警報が鳴り響き、酷い混乱状態だった。誰も立花を気に掛けないし、振り向かない。まるで透明人間になったみたいだった。


 携帯電話が震えた。見知らぬ番号だった。

 このタイミングで電話を掛けて来るのは、一人しかいない。

 着信に応えると、スピーカーの向こうから堅気では出せないドスの利いた声がした。




『……よォ、どういうつもりだ?』




 まるで、激怒を押し殺したかのような声だった。

 立花は受付の横にある間取り図を横目に確認し、ターゲットの大凡の逃走経路を把握した。そして、天神侑ならばどの道を選ぶかも予想出来る。




『うちのボスは朝早く、テメェと将棋するんだって出掛けて行った……』




 天神侑の声は凄みを増して、まるで地獄の底から響くようだった。大切なものがあることも、誇りを持っていることも素晴らしいことだ。選択肢を読み易い。


 天神侑は、氷のような声で問い掛けた。




『湊をどうした?』




 この言葉が天神侑の逆鱗に触れると知りながら、立花は笑って言った。




「早くしねぇと、死んじまうかもな」




 通話が叩き切られる。憤怒に歪む天神侑の顔が目に浮かぶ。

 怒りに支配された人間は楽だ。


 その時、階段の上から足音がした。




「じゃあ、まずはテメェから死ね」




 憎悪に満ちた声が降って来る。立花は笑った。

 大きな窓から日差しが差し込み、一人の影を克明に浮かび上がらせる。天神侑は、悪鬼のような形相をして其処に立っていた。


 それは丁度、天神侑が弟を亡くした時に、よく似ていた。

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