4.殺し屋たちの奇想曲
⑴過去の影
Do what you can, with what you have, where you are.
(貴方に出来ることをしなさい。今あるもので、今いる場所で)
Theodore Roosevelt
生きていく為に必要不可欠なものは、そう多くない。
例えば、現状を俯瞰する広い視野とか、凡ゆる方面に通じるコネクションとか、膨大な資産とか、自衛の為の銃器とか。正直言って、そんなものは殆ど必要無いのだ。
専門的知識よりも、美味しいコーヒーの煎れ方を。
人殺しの術よりも、生きて逃げ延びる方法を。
大勢の知り合いよりも、本当に信頼出来る友達を。
絶望の底で立ち上がる為には、口ずさめる歌の一つでもあれば良い。
コトコトと、手鍋から湯の沸き立つ音が聞こえる。放射状に並べた卵が、まるで孵化の時を迎えたみたいに震えていた。
人の大腿部みたいな大根を切り分け、厚く皮を剥く。鍋に水を入れ、米の研ぎ汁を加えて大根を放り込む。コンロの青い火を見遣り、里芋や人参の皮を剥いている内に茹で卵が出来た。
出汁は、昆布と鰹節。
一つずつの工程で手を抜かず、丁寧に。
土鍋に出汁と下拵えを済ませた食材を並べ、火に掛ける。煮立った頃に味見し、
味を整えてから蓋をした。
湊は濡れた両手をタオルで拭い、コンロの火を弱めた。
冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
キッチンからリビングを通過して、寝室の扉をノックする。返事が無かったので扉を開ける。部屋の中は湿気と生温い熱に包まれていた。
壁際に置かれたシングルベッドに、蛹みたいな布団の塊がある。足音や気配を消そうとすると警戒されてしまうので、湊は声を掛けながら近付いた。
「侑、起きてる?」
ベッドの上で、
湊は手を伸ばし掛けて、止めた。
触れられるのは、好きじゃ無さそうだ。
「侑」
声を掛けると、睫毛が微かに震えた。
猫科の猛獣に似ている。ゆっくりと目蓋が持ち上がり、その奥で宝石のようなエメラルドの瞳が光った。
「よお、湊」
声は掠れていた。
侑が身を起こすと、乾いた咳が漏れた。湊はサイドテーブルに置いていた体温計を差し出した。
「ご飯作ったよ。食べられそう?」
「ああ……。すげえ寝たな。今何時だ?」
「二時半。お昼のね」
体温計が鳴った。
38.9度。熱が高い。
侑が熱を出したのは、今朝のことだった。いつもはもぬけの殻になっているベッドがこんもりと膨らんでいるので何事かと思ったら、顔を赤くした侑が
湊が近付くと侑は目を覚まして、起きようとしたので止めた。侑はエメラルドの瞳を熱に潤ませて、まるで告解する罪人みたいに謝罪した。何の謝罪なのかはよく分からない。
侑は、超人的な鋼の肉体と野生動物みたいな身体能力を持っている。そんな彼も熱を出すことがあるらしい。取り敢えず、今日は一日寝かせておいて、熱が下がらなければ闇医者でも呼ぼうと思う。
「風邪かなあ。真冬に海水浴したのが良くなかったね」
「お前はピンピンしてんのにな」
悪ィ、と侑が眦を下げた。
発熱したと分かってから、何故か侑は謝ってばかりだ。
湊はミネラルウォーターを手渡した。
「ゆっくり休めよ、侑。誰だって好きで病気になる訳じゃないんだ。それにね、侑の為に出来ることがあるのは、俺も嬉しい」
本心だった。
侑には普段から助けられてばかりだ。体が弱ると気持ちも弱る。心と体は密接に繋がっていて、人体の全てが科学的に解明されている訳じゃない。
「ありがとな」
謝罪されるよりは、感謝された方が良い。
湊は微笑んだ。
「食べられそうなら、お昼ご飯にしよう。おでんを煮たんだ。お粥もある」
「楽しみだな」
布団の中で、侑が言った。
ああ、嘘だな。湊は悟った。
湊は、他人の嘘を知覚出来る。それが例え善意であっても、真実でなければ分かる。どうしようかな、と湊が迷っている内に侑が起き上がった。
「美味そうな匂いだな」
顔を赤くした侑が、まるで冬眠明けの熊みたいに歩き出す。
それも嘘だと、湊には分かっていた。社交辞令だとか、気遣いだとか、そういうものを違和感として知覚するのだ。寝室を出て行く侑の背中を眺めながら、病人に気を遣わせたことが申し訳無かった。
4.殺し屋たちの奇想曲
⑴過去の影
侑には歳の離れた弟がいて、名前を
湊が新と出会ったのは、二年前だった。
両親がまだ健在だった頃、母国で色々とやらかした湊は留学と言う名目で日本の裏社会に送り込まれた。そして、ハヤブサと言う殺し屋界の英雄の元で生活していた。
生きる術を模索していた湊は、新と言う青年に出逢った。
新は、駆け出しの殺し屋だった。
新は行方を晦ました兄を追って裏社会へやって来た。しかし、彼はその生業や過去からは掛け離れた優しい青年だった。
新は、湊がこの国に来て初めて出来た友達だった。
秋の夕暮れに焼き芋を分け合って食べたこと、朝の繁華街を並んで歩いたこと。趣味の油絵を描く真剣な横顔、すっと伸びた背筋。甘い物が嫌いな癖に、喫茶店ではショートケーキを食べていたことや、エメラルドの瞳が春の新緑みたいに力強く、美しかったこと。今でも昨日のことみたいに鮮明に思い出せる。
この世は理不尽で不条理で、因果応報も勧善懲悪も自動的には行われない。新のような心根の優しい人間が手を汚し、居場所を失い、社会の報いを受けなければならない現実が兎に角、悲しかった。
せめて彼等が笑っていられる居場所を作りたいと思った。裏社会へ零れ落ちた人間が社会復帰出来る足場を、踏み台を、受け皿を。
エンジェル・リードを起業したのは、そんな理由だった。
溺れる者は藁をも掴む。だから、エンジェル・リードが溺れる者が掴み取ることの出来る、ロープの一本になれば良いと思った。
新とどういう関係だったのかは、説明することが難しい。友達だったのか、親友だったのか。それとも、もっと別の何かだったのか。自分達は関係性に名前を付けなかった。ただ大切だと思ったし、生きて、笑っていて欲しかった。
だけど、新は死んだ。死んだ人間は甦らない。
自分のやって来たことは全部無駄で、無意味だった。死者の為に出来ることは何も無い。復讐も埋葬も生きている人間のエゴで、それ以上の意味は無い。
富や権力には毛程の興味も無いし、価値も見出せていない。エンジェル・リードが軌道に乗って、社会的な立場を持って、救われる人間が一人でもいればそれで良い。
湊はエゴの為に生きている。
他人の評価なんてどうでも良い。其処に善悪も貴賤も無い。自分がそうしたいと思った。ただそれだけだった。
認めて欲しいと思う人は、もういない。
でも、守りたいと思う人はいる。
この世界が薄汚くて、設計ミスだらけの欠陥品そのものだと言うことはもう知っている。他人の侮蔑や罵倒、嘲笑は気にならない。湊は精神論や根性論が大嫌いだ。自分が自分であると言うことに、他人は関係無い。
湊の思考回路や価値観は整理されている。人間関係にも明確な境界線を引いて、価値があると思えば手を尽くすが、無駄と考えたら切り捨てる。
精神的に追い込まれることは殆ど無い。――ただし、人間を辞めた訳ではないので、睡眠不足や疲労には負けることがある。
侑が熱を出して寝込んでから、湊の仕事は多忙を極めた。
侑がいればすんなり済んだだろう細々とした調査や取引が、ややこしく面倒になった。理由は分かっている。
早く戻って来てくれないかな。
侑が寝込んで三日。湊は今日も病人食を作っては寝室に運ぶ。闇医者の診断ではインフルエンザと言うことだったので、侑は抗生物質を呑んで養生している。
今日の昼食は、赤パプリカと鶏挽肉とほうれん草の三色丼だ。副菜は蒟蒻の梅和え、味噌汁はとろろ昆布と小松菜。侑が熱を出してから、キッチンに立ってきちんと料理を作るようになった。
料理は好きでも嫌いでもないが、買い物が嫌なのだ。
この国に来たばかりの頃は日本語に不自由していたので、不親切な人間の白い目が不快だった。物珍しそうに眺める癖に、声を掛けても誰も助けてはくれない。売っている食材が何なのか、どうしたら食べられるのかも分からなかった。鮮度や相場も分からないので、いつも詐欺師のカモにされている気分だった。
寝床に昼食を運ぶと、侑が蕩けるような笑顔で言った。
「今日も美味そうだな」
「そう言ってくれると、作り甲斐があるよ」
忙殺されて荒んだ心が癒されるようだった。
世の中、侑みたいな人間で溢れていれば良いのにな。
現実逃避みたいなことを考えていたら、侑が労るような優しい目を向けて来た。
「大丈夫か?」
「何が?」
「疲れた顔してるからさ」
「そう?」
湊は自分の顔に触れてみた。
鏡でも見ないと分からない。病人に心配させるようでは、自分もまだ未熟者だ。
「明日から復帰するよ」
「医者は今週一杯養生するように言ってたよ。いつも侑には頼りきりなんだ。病気の時くらいゆっくり休んでくれ。侑が心配するようなことなんて一つも無いんだからさ」
侑の手が伸びて来て、頭を撫でた。
「本当に大丈夫か?」
侑の声は穏やかに澄んでいて、まるで水のように心の中に染み込んで行く。湊は笑った。
「余裕」
サムズアップしてやれば、侑が頬を緩めた。
仕事は何も片付いていないし、彼方此方滞ってしまっているけれど、病人を引っ張り出す程に落ちぶれていない。
「ゆっくり休んで元気になったら、また力を貸してくれよ。侑がいないと、俺が困るんだ」
「分かったよ」
いただきます、と侑が手を合わせた。
侑は学校に通ったことも、真面な家庭環境で生活したことも無いと言っていたが、仕草一つ一つはとても綺麗だ。
「美味いよ」
侑がそう言って、微笑んだ。
笑った顔が、新によく似ている。
あったかも知れない未来、叶ったかも知れない可能性。後悔と罪悪感が小さな棘となって胸の中に突き刺さる。
過去は振り返らない。そう決めている。ふとした時に蘇る苦い記憶は、遠くの花火みたいに眺めて、また沈むのを待てば良い。
湊は首に下げた銀色のドッグタグを掴んだ。華奢な鎖で繋いだシンプルなタグには、湊と新のメッセージが刻まれている。
「なあ、湊」
三食丼を半分くらい食べ終えた侑が、ぼんやりと言った。
「今度、何処か連れて行ってやるよ」
「へえ。楽しみだな」
湊は壁に寄り掛かった。
「侑がいるなら、何処でも良いよ」
「良いから行きたい場所、考えとけ」
「分かったよ」
湊は苦笑した。
嘘じゃなかった。サーフィンでも、バスケットボールコートでも、海でも山でも、何処でも良かった。現実から離れて侑が笑っていられるなら、何処だって。
ああ、でも。
行きたい所が一つだけ。
言えるかな。言っても良いかな。
いや、侑は考えておけって言った。今すぐ答えなくても良いよな。
湊はそんなことを考えながら、身を起こした。
「食器は後で取りに来るから、置いといてくれ。ちょっと出掛けて来るね」
「分かった。暗くなる前に帰って来いよ?」
「子供扱いするなよ」
湊は笑った。
同じ子供扱いなのに、自分を利用しようとする大人達と侑は違う。それは何故なんだろう。
絶望の時こそ、笑え。もう駄目だと思う時こそ、立て。
どんなに深い絶望の中にも希望の光は差し込む。
父の口癖だった。けれど、自分は回遊魚のように動き回らなくても息が出来る。希望と言う狂気に取り憑かれた父と自分は違う。
誰のことも憎んでいないし、恨んでもいない。
この世を諦める程に物分かりが良い訳でもないし、達観する程に人生を生きてもいない。やるべきことがある。ただ、それだけの話だ。
湊が寝室を出る時、侑が言った。
「いってらっしゃい」
その時、フラッシュバックが起こった。
両親の顔が、新の背中が、走馬灯みたいに蘇る。
「行ってきます」
俺は、沢山の命の上に生きている。
湊は笑顔で返して、扉を閉じた。フラッシュバックの残像は、もう見えなかった。
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