⑵貧乏籤

 事務所の前に、異国情緒溢れる若い男女が立っていた。


 南極探検隊みたいに着膨れしていて、顔の殆どが見えない。空は鈍色の雲に覆われて今にも雪が降り出しそうだったが、まるでこれから冬眠でもするみたいだった。




「湊!」




 子供みたいに燥いだ声で、ムラトが言った。

 サングラスの下から柔らかな青色が見える。湊は事務所の鍵を握ったまま、手を上げて応えた。


 ムラトの隣には、アーティラがいた。

 大手ブランドのモデルみたいに手足が長くて、本当に同じ人間なのか疑問に思うくらいだった。アーティラは軽く目礼しただけで、マネキンのように口をつぐんでいた。




「待たせちゃったかな?」

「いや、今来た所だよ」




 ムラトが明るく言った。勿論、湊にはそれが嘘だと言うことも分かっていた。一応、謝罪しつつ事務所の扉を開けた。ラベンダーの甘い匂いが溢れ出して、湊は深呼吸をした。


 ムラトから連絡が来たのは、一時間くらい前だった。

 先日の一件で母国に戻れない彼等の為に、湊がエンジェル・リードの名義で当面の住居を手配したのだ。その手続きと今後の相談と言う名目で、ムラトの気紛れに付き合っている。




「顔色が良くないぞ? 大丈夫か?」

「そうなんだよ。俺も寒いのは苦手で」




 湊は言いながら、暖房のスイッチを入れた。

 乾いた風が天井から流れ出る。母国の冬はもっと寒くて長かったが、あれこれと説明するのは面倒だった。




「今日は侑はいないのか?」

「そう。年末年始はうちも繁忙期なんだ」

「そうか。商売繁盛で何よりだな!」




 湊は苦笑した。

 ムラトは少し無神経な所があるが、悪人ではない。同い年の友達が殆どいなかった湊にとって、ムラトとアーティラは不思議な存在だった。




「コーヒーを煎れるけど、飲む?」

「ああ、貰おうかな」




 湊は電気ケトルを稼働させて、棚から客用のマグカップを取り出した。航がいなくなってから、マグカップもコーヒーの染みが出て来た。そろそろ漂白しないといけない。




「日本はどう?」

「ああ、米と野菜が美味いよな」

「分かる」




 湊が指を鳴らして肯定すると、ムラトが笑った。




「魚も美味いよ。今度、魚屋さんを紹介してあげる」

「そりゃ助かるぜ! なあ、アーティラ」

「ええ」




 アーティラが微笑んだ。

 ムラトとアーティラの気持ちは、よく分かる。言語と文化の壁は高い。嘗て、自分も困らされた。


 マグカップの上に硝子のドリッパーを置いて、ペーパーフィルターを広げる。適量のコーヒー粉の上から丁寧に湯を注いで行く。カフェインは中毒性があるので、一日の摂取量は決まっている。だったら、最高に上手い一杯が良い。




「意外と几帳面なのね」




 アーティラが言った。

 丁度、三回目の湯を注ぎ終えた所だった。コーヒーの芳ばしい香りが給湯室に広がって、換気扇へ吸い込まれて行く。

 湊は三人分のマグカップを持って応接室へ運んだ。




「俺ってそんなにガサツに見える?」

「ガサツっていうか、まあ、大雑把には見えるな!」




 ムラトの声はよく通る。湊は曖昧に相槌を打って、二人へマグカップを渡した。綿みたいな湯気が立ち昇る。アーティラが香りを楽しんでいる横で、湊とムラトは同時に口を付けて、熱さに噎せた。


 舌が痺れる。火傷したかも知れない。

 噎せるムラトの背中をアーティラが摩った。湊は舌を出して外気で冷やしつつ、マグカップに息を吹き掛けた。




「ムラトも結構、大雑把に見えるよ」

「ムラト様は切り替えが出来るわ」




 アーティラが冷ややかに言った。

 それでは、まるで俺が一貫して大雑把みたいじゃないか。

 湊は憮然と口を尖らせて、少し冷めたコーヒーを飲み下した。酸味の効いた繊細で芳醇な味だと思うが、コーヒーは自分より弟の方が煎れるのが上手い。




「裏表の無さは美徳だと思うけどな」




 湊が言うと、ムラトが豪快に笑った。

 ムラトという青年は、良く言えば懐が深く、率直に言うと鈍感である。湊はそういう人間が嫌いではないので、一緒にいると楽だった。


 ムラトは少し身を乗り出して、楽しげに言った。




「権威なんてものは服と一緒で、脱ぐことも出来ないなら足枷も同然だ。湊もそうだろう?」

「それは俺のアクセサリーだよ」

「悪趣味ね」

「よく言われる」




 アーティラの皮肉は受け流して、湊はマグカップを置いた。

 雑談に浸る程、暇じゃない。用件が無いならさっさと追い返そう。湊は手を組んだ。




「クーデターはどうなったの?」




 湊が問うと、アーティラが視線を巡らせた。盗聴器の類を警戒しているのだろうけれど、生憎、今日は準備していない。

 ムラトは小難しい顔をしていた。




「ちょっと面倒なことになってな。中東の武装組織で、赤い牙って知ってるか?」

「名前くらいはね」




 と言いつつ、湊は頭の中にある記憶を呼び起こした。


 民族解放戦線、赤い牙。中東で活動する過激派国際テロ組織である。宗教上の対立を主な理由として欧米各国にテロ行為を仕掛ける傍迷惑な連中だ。


 湊の両親が死んだ爆弾テロにも関与しているらしいが、本当の所は分からないし、別に知りたくもない。




「俺は身分階級を失くしたくて、その為にデモ活動をしようと思ってたんだ」

「デモ?」

「そう。うちの国は絶対君主制だからな、デモが起きれば武力制圧が起きる。だが、こっちが相応の武力を持っていると示すことが出来れば、一方的な制圧は起こせない」




 平和の為の武装蜂起。なんだか、変な話だ。

 しかし、世界各国が核兵器を手放さないように、武力を持った相手に丸腰で挑むのは無謀である。侑も武器を所持しているし、武器を悪だと断じるのは難しい。


 話し合いのテーブルに着く為に武器が必要なんて、皮肉だ。そういう儘ならない矛盾をパスファインダーに利用されたのだろう。




「俺が計画していたデモ活動の為の資金が、赤い牙に流れてるんだ」




 冷たいものが背を走った。

 ラフィティ家の資金がテロ組織に流れてる?

 じゃあ、パスファインダーは赤い牙と繋がってる?




「それ、確かなの?」




 逸る鼓動を押し殺して問い掛けると、アーティラが苦い顔で頷いた。彼等が母国に帰れない理由がよく分かった。今の彼等は、テロリストの片棒を担いだも同然なのである。


 湊は溜息を吐いた。疲労感が背中にどっと伸し掛かって、大匙も小匙も投げ出したい心地だった。話の規模が大き過ぎて、自分の手には負えない。


 俺にどうしろって言うんだ。

 此方は戦争屋ではないし、放火魔でもないので彼方此方に火を点けて回る趣味は無い。身に掛かる火の粉を振り払っているだけなのに、勝手に着火する馬鹿がいる。


 ムラトは背筋を伸ばした。ローマングラスのような青い瞳が射抜くように真正面から見詰めて来る。




「エンジェル・リードに依頼がある。蛍と呼ばれる武器商人を捕まえて欲しい」

「俺達はインターポールじゃないぞ。ただの投資家だ」

「だが、お前等にも利益はあるだろう?」

「不利益の方が大きいだろ。お断りだ」




 片手で放逐しつつ、湊は顳顬の辺りに疼痛を覚えた。

 この国は今、中国マフィアの青龍会の餌にされようとしている。それを留める為に、湊はパスファインダーの身柄を取り押さえると言う取引をしているのだ。


 ムラトに依頼されなくても、蛍と呼ばれる武器商人を捕まえるつもりだった。しかし、追えば追う程に遠去かり、逃げ水のようにその全貌がぼやけて行くのは何故なのか。


 いずれにせよ、ムラトの依頼でパスファインダーを追うという図式は良くない。詐欺被害者の彼等は可哀想だと思うが、一緒になって泥を被る理由は無かった。


 眼精疲労みたいに頭が痛む。

 早く侑に戻って来て欲しい。厄介事ばかり持ち込むこの貧乏神を追い払ってくれ。




「俺達の目的は同じだろ? 手を組んで損は無いと思うけどな」

「君等と手を組むと、敵が増える」

「味方が増えると思えよ。悲観的になるのは良くないぜ。それは差し出される灯火を自分で吹き消すのと同じだぞ」

「火事にならないなら良いんだけどね」




 ムラトが楽しそうに笑っている。

 湊はコーヒーを飲み下した。確かに、悲観的に考えるばかりでは状況は好転しない。怖気付いて負けるなんて雑魚のすることだ。




「君の依頼は受けられない。利点が何も無いからね。でも、俺は君達の未来に投資しているから、相談なら乗ってあげる」

「充分さ」




 すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干して、ムラトは嬉しそうに言った。何というか、憎めない奴だ。


 湊はブラインドカーテンの向こうに視線を向けた。

 鉛色の雲から埃みたいな粉雪が降っている。冷える訳だと、湊はエアコンの温度を上げた。















 4.殺し屋たちの奇想曲

 ⑵貧乏籤びんぼうくじ













 視界がぐるぐる回る感覚がすると思ったら、朝から何も食べていなかった。空っぽの冷蔵庫に八つ当たりしたい気持ちだったが、腹の虫が急かすので湊は事務所の鍵を手に取った。




「お腹が空いたから、ご飯を食べに行くね」




 だから、帰れ。

 湊は暗にそう言ったつもりだったが、ムラトには伝わらなかったらしい。




「奢るぜ!」




 まるで階段を踏み外したみたいな脱力感に襲われて、もう何もかもがどうでも良くなってしまった。笑顔を貼り付けて礼を言うと、ムラトが誇らしげに先陣を切るので、まるで飼い犬の散歩に行くような気になってしまう。




「貴方は貧乏籤を引き易いのね。心底、同情するわ」




 アーティラが気の毒そうに言った。

 湊は事務所のセキュリティセンサーと鍵を施して、肩を竦めた。


 事務所から近い飲食店を考えて、駅前の路地にあるタイ料理屋が思い付いた。ソムチャイと言う陽気な友人がアルバイトしているのだ。


 粉雪の舞う街中を歩いていると、ムラトが物珍しげに空を見上げていた。彼の母国は高温乾燥の砂漠地帯だ。夜間は冷えるらしいが、基本的には暑い国である。湊も行ったことが無いので分からない。




「貴方はどうしてこんなことをしているの?」




 アーティラが不思議そうに言った。

 ムラトはコートに積もる粉雪を嬉しそうに観察している。




「こんなことって?」

「貴方がやってることって所謂、汚れ仕事よね」




 汚れ仕事。

 そんな風には思っていなかったし、自分が犠牲になっているとも感じていない。目の前に降って来る災難や火の粉を振り払っていたら、いつの間にかこんな所にいた。


 そのこと自体には、決して後悔はしていない。

 侑もよく自分に日の当たる道を歩かせようとするが、そんなものは望んでもいないし、願ってもいない。大義名分も崇高な理念も無い。




「君と同じだと思うけど」

「同じ?」

「それが偶々俺の役目だったってだけで、それ以上の意味は無い。配られたカードに文句を言うのは三流だよ」

「冷静なのね」

「怒りや憎しみをエネルギーにする程、追い込まれてないだけさ」




 前方に緑色の看板を掲げた飲食店が見える。半分シャッターが降りていて、商売をする気があるようには見えない。相変わらず寂れて、閑古鳥が鳴いているようだ。


 カードが使えなかったことを思い出して、ポケットから財布を探す。ムラトが奢ってくれるらしいが、現金を持ち歩いているようには見えないのだ。


 アーティラが、ぽつりと言った。街の雑踏に掻き消されてしまいそうな程、微かな声だった。




「私も貴方みたいに割り切れたら、もっと楽だったのかな」




 それは、ラフィティ家の従者という肩書を外した19歳の少女の声だった。


 身分制度。彼女は生まれた時からその命をどう使うか決められていて、逆らうことも、反発することも許されなかった。

 同い年かと思うと、流石に同情もした。湊は自分の未来を自分で選んだし、その責任も自分で負う覚悟で生きている。けれど、彼女はそうじゃない。


 ムラトがクーデターを計画する理由も分かるし、彼女がそれを阻もうとした気持ちも分かる。

 道行く少女が着飾って、親の庇護の下で笑っている。自分に何が出来るかなんて考え自体が、彼女への侮辱だと思った。




「でも、ムラトが生きていると言うことが君の実力なんだろう」

「何も知らない癖に」




 アーティラが笑った。何処かあどけない少女の声だった。


 湊は肯定した。何も知らない。その通りだ。自分は彼女のことをよく知らないし、その命を背負ってやることも出来ない。だけど、彼女が見えない所で傷付き、血の滲むような日々の中で今日まで生きて来たと言うことは分かる。




「君の努力を尊敬する」




 命と言うものが、数え切れない程の奇跡の上に立っていることを知っている。命は灯火に似ている。温かいのに、簡単に消えてしまう。


 自分の命を守るだけで精一杯なのに、彼女は想像も出来ない重圧の中で他人の命を守っている。その努力を肯定出来ずに、何が守れるだろう?




「貧乏籤を引くのは慣れてるし、泥舟の漕ぎ方も知ってる。だから、俺がいる時は頼ってくれて良いよ」

「手は組まないって言ってたじゃない」

「女の子の頼みなら別さ」




 湊は笑った。

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