⑶助っ人

 店内は薄暗く、飲食店とは思えない陰気な雰囲気を漂わせている。香辛料の独特な臭いがむっと立ち込めて、湊はレジの前で店員の到来を待った。




「よお、ミナ!」




 出迎えてくれたのは、ソムチャイと言う青年だった。

 闇に沈むような黒色の肌に、みっしりと頭を覆うカーリーヘアー。黒豹のように体全体がしなやかで、驚く程に手足が長い。


 ソムチャイはタイからの留学生で、幼稚園教諭を目指しているらしい。家族の為にアルバイトを掛け持ちして仕送りをする苦学生だ。自分の境遇を憐れんだり、泣き言を溢したりせず、いつも陽気で朗らかで、何処でも生きて行けそうな逞しさを感じさせる。


 ソムチャイに案内されて、店内奥のより薄暗いボックス席に座った。テーブルの上が油っぽく、アーティラが嫌そうに顔を顰めている。ムラトは子供のように両手をテーブルに投げ出して、手品ショーを楽しみにする子供みたいに、これから何が始まるんだと期待に目を輝かせている。


 ムラトには悪いが、此処は特段美味くも無いが、値段が安いだけの寂れた飲食店だった。湊はソムチャイにグリーンカレーを注文して、料理が来るまで手持ち無沙汰に携帯を取り出した。


 航から、近況報告と病人食の献立がメッセージで届いていた。持つべきものは、気の利いた優しい弟だ。お礼の返信をしていると、頬杖を突いたムラトと目が合った。




「お腹空いてた?」

「いや。俺はアーティラが作ったものしか食べないんだ」




 そういえば、彼は後継者争いで命を狙われる要人だった。外食なんてしないだろう。

 何も食べない彼等の前で、一人だけ食事するのは気が引けるが、腹は正直だった。その内、ソムチャイが陽気な歌と軽いステップを踏みながらグリーンカレーを運んで来た。


 具沢山のグリーンカレーは、香辛料の香りも相まって空腹に染みた。湊は側に置かれたプラスチックのスプーンを手に取った。


 いただきます、と手を合わせた瞬間だった。




「止めろ!!」




 ムラトとアーティラの声がぴったりと重なって、店内に響き渡った。声に驚いたソムチャイが厨房で鍋を取り落とし、酷い騒音を鳴らした。


 湊は手を合わせた姿勢のまま、硬直していた。

 ムラトがスプーンを引っ掴み、臭いを嗅ぐ。固い声でアーティラを呼び付けると、彼女は頷いて、一気にキッチンカウンターの向こうに飛び込んでしまった。




「おい! 何すんだ!」




 ソムチャイの悲鳴みたいな抗議は、聞き入れられない。

 アーティラがソムチャイを片手で引き倒す。湊が慌てて駆け寄ると、アーティラは包丁を突き付けている所だった。




「Hey, you! Wait!」

「この男が刺客かも知れない」

「Wait a moment!」




 カウンターを乗り越えて間に割り込むと、ソムチャイが背中で情けない声を出した。彼女に捨てられた男みたいだ。

 湊はソムチャイを背中に隠したまま、包丁を下ろさないアーティラを見詰めた。




「ソムチャイはおっちょこちょいだけど、俺の友達だ。悪い奴じゃない」

「ミナ〜!」




 ソムチャイが縋るように呼んでいる。

 何が起きたんだ。何をそんなに殺気立っているんだ。

 その時、カウンターの向こうからムラトの声がした。




「毒だぞ」




 ムラトは冷静だった。湊が手にしていたプラスチックのスプーンを見せて、人形のような無表情で見詰めている。


 毒?

 そんな筈無い。ソムチャイがそんなことをする理由も、メリットも無いじゃないか。




「ソムチャイは俺の友達だよな? 俺に毒なんて仕込まないだろ?」

「当たり前だろ!!」




 ソムチャイが怒鳴るみたいに即答した。

 嘘は吐いていない。そして、アーティラもムラトも、嘘を吐いていない。これはどういうことか。


 その時、裏口の扉が半分だけ開いていることに気付いた。湿気を帯びた冷たい風が吹き込んで来る。

 考えられる可能性は、一つしかない。




「ソムチャイ、他の店員はいないの?」

「あ、ああ、いるよ! 最近入ったアルバイトで……」




 ソムチャイが名を呼ぶが、返事は無い。

 それも分かっていた。毒を仕込まれたのは、ムラトではない。料理でもなくスプーンに塗ったと言うことは、狙いは恐らく、自分だ。




「借りは返せたかな?」




 ムラトが言った。

 湊は舌を打った。こんな迂闊うかつなミスで貸し一つ帳消しになるなんて冗談じゃない。湊は裏口から飛び出した。


 外は薄らと雪が積もっていた。

 男性物の革靴の足跡が駅前に向かって続いている。雑踏に紛れられたら見付けられない。街角アンケートみたいに一人ずつ訊いて回る訳にもいかなかった。


 どうする。このまま野放しには出来ない。

 どうして俺を狙った。何の為に。


 携帯が鳴ったのは、その時だった。












 4.殺し屋たちの奇想曲

 ⑶助っ人













 大粒の雪が羽毛のように音も無く降り積もる。

 湊はポケットから携帯を取り出した。電話帳に本名を登録する程に愚かではないので、表示されたのは見知った番号だけだった。




『よう、湊。無事か?』




 聞き覚えのある低い声が、穏やかに問い掛ける。

 電話の相手は、神谷翔太かみや しょうた。湊の友達で、ハヤブサの弟子である。警察官に変装して来栖凪沙を刺殺したのも翔太だった。


 しかし、決して敵対している訳ではない。

 翔太も普段は人当たりの良い忠犬みたいな好青年で、湊は幾度と無く危機を救って貰った。




「何のこと? 何が起きてるの?」

『スネークっていう殺し屋が、お前を狙ってるぞ』

「なんで」

『知らねぇ。でも、手を貸してやる』




 殺し屋、スネーク。

 なんてダサいネーミングだ。湊は悪態吐き、合流地点を確認した。ムラトとアーティラは頼りたくないし、侑は動かせない。翔太が助けてくれるなら、願ったり叶ったりだ。




『電話は切らずに、人の多い道を歩け』

「分かってる」




 スパイ大作戦みたいだ。湊は白い息を吐き出して、素知らぬ風を装って街を歩いた。着膨れした中年男性、季節感の無い露出した女性。行き交う外国人観光客。湊には、誰がその殺し屋なのか分からない。


 どうして自分が狙われたんだ。

 エンジェル・リードから自分に繋がる線は無い。殺して利益を得る奴は思い当たらない。ならば、俺個人に恨みを持つ人間か?


 いや、分からないことは考えても仕方ない。

 湊が顔を上げたその瞬間だった。貫くような視線に心臓が凍り、湊は脊髄反射でその場に蹲み込んだ。銀色の刃が頭上を舐めるように滑って行く。湊は尻餅を着き、殺意に染まった男を愕然と見上げていた。




「探したぞ、クソガキ」




 渋谷界隈にいそうな色白の若い男だった。染髪された毒々しい金髪が雑踏の中で鈍く光る。眼球が零れ落ちそうな程に大きな双眸が、獲物を前にした獣のように嬉々として歪んだ。辺りから悲鳴が上がり、湊は転げそうな勢いで駆け出した。




「追いかけっこかァ?」




 愉悦と嗜虐に塗れた粘着質な声だった。大凡、真面な人間とは思えない。頭の中に地図を思い浮かべながら、人気の無い場所を目指して走り出す。


 駅前の大通りを避けて路地裏に入り込むと、湿った冷気が吹き付けた。壊れかけのポリバケツから生ゴミが溢れ、ドブネズミが群がっている。




「待てよォ!」




 破裂音が響き渡り、混凝土の壁が火花と共に抉り取られる。

 心臓が竦み上がる。湊は悲鳴を呑み込んで走った。


 どうする。どうなってる。

 こんな場所にいたら駄目だ。せめて翔太と合流しないと。

 でも、他人を巻き込めない!


 頭の中がぐちゃぐちゃで、思考が纏まらない。

 どうしてこんなに余裕が無いんだ。


 角を曲がった時、工事中のオレンジ色のフェンスが見えた。立入禁止の文字に視界が揺れる。背後から若い男の燥いだ声が、足音が追い掛けて来る。逃げ場が無い。


 どうする。どうする。どうするどうする!




「湊」




 その声は、頭上から聞こえた。風を切る鋭い音がして、鈍色の空から何かが降って来る。着地と同時に、浅黒い肌をした青年が振り向いた。




「無事で良かったぜ」




 蕩けるような笑顔だった。緊張が氷のように溶けて行くのが分かる。




「翔太!」




 意思の強そうな眉に、大型哺乳類のような優しい眼差しをしていた。浅黒い肌、均整の取れた身体付き。神谷翔太は、僅かに表情を和らげ、口の端を釣り上げた。




「話は後だな」




 そう言って、翔太は暗殺者に身構えた。汚れた路地裏から金髪の男が飛び出して、翔太を捉えると同時に発砲した。乾いた音が二つ木霊した。翔太は風を受け流すみたいにして躱すと、右腕を振り被った。


 耳を塞ぎたくなるような物凄い音がした。

 木製バットで力任せにぶん殴ったみたいな重い音だった。男の体が木の葉のように吹き飛んで、混凝土の壁に衝突する。湊は内心で「ご愁傷様」と呟いた。


 男は立ち上がらない。汚れた混凝土の上で、まるで死体みたいに倒れ込んでいた。ボクシングならゴングが鳴っていただろうクリーンヒットだった。


 残念ながら、此処はリングでも、スポーツ会場でもない。

 翔太は投げ出された拳銃を拾い上げると、昏倒した男の頭に鉛玉をぶち込んだ。


 硝煙と血の臭いが腐臭に混ざって、鼻を摘みたくなる。翔太は銃弾を撃ち切ると、その場に投げ捨てた。




「さて、逃げようぜ」




 翔太は少年みたいな爽やかな笑顔だった。湊は萎れた風船みたいにその場に蹲み込んだまま立ち上がれなかった。

 目眩が酷かった。ゴムの上を歩いているみたいだ。




「大丈夫か?」




 翔太が困ったように眉を寄せ、目の前に屈む。その瞳は何処までも優しく、穏やかだった。


 彼は元々裏社会と縁の無い世界に生きていた一般人だった。それがいつの間にか立派な殺し屋になっているのは、喜んで良いのだろうか。


 湊は翔太の手を借りて立ち上がった。

 尻餅を着いたせいで服が冷たかった。




「スネークって何?」

「こっちの業界で噂になってる若手の殺し屋だよ。奇襲、毒殺、ナイフに拳銃。何でもありだってさ」




 ハヤブサは一体何をやってるんだ。

 立ち止まっていても仕方無いので、二人で走り出す。


 ハヤブサは殺し屋業界の英雄で、裏社会の抑止力とも呼ばれている。湊にとっては元保護者だ。ハヤブサが機能していれば、そんなギャングみたいな奴がのさばることなんて無かった筈だ。




「最近、多いんだよ。ああいう命知らずの馬鹿がさ」




 翔太は言いながら、路地裏を駆け抜ける。湊はじくじく痛む頭を押さえながら、その後を追った。

 表通りに出ると、サイレンが聞こえた。さっきの騒ぎで誰かが通報したのだろう。路地裏の死体が見付かるのも時間の問題だ。少しでも距離を取りたい。




「弱い奴は弱いなりに頭を使う。雑魚は徒党を組むんだ」

「……一人じゃないってこと?」

「そうだよ。知らねぇのか?」




 翔太は歩調を緩め、目を丸くした。




「蛇は群れで狩りをするんだぜ?」




 空腹と疲労と睡眠不足が、一気に襲い掛かって来たみたいだった。湊が足を止めたその瞬間、翔太の左足が唸りを上げて旋回した。


 くぐもった呻き声がした。振り向くと、丸刈の岩みたいな大男が立っていた。翔太の左足は顎に当たったらしく、脳震盪を起こして焦点がぶれている。


 翔太は猫みたいな軽い足取りで踏み切ると、大男の頭を引っ掴んで膝で蹴り上げた。歯がぶつかり、骨が割れる音がした。


 崩れ落ちた男の首筋に、悪趣味な蛇のタトゥーが見える。

 呆然とする湊の手を引いて、翔太は走り出した。




「ペリドットには伝えたか?」




 走りながら、翔太が訊いた。

 湊はすっかり息が上がってしまっていた。キリキリと痛む胃を押さえながら、呼吸のリズムを作るのに必死だった。


 ペリドットは、侑の殺し屋時代の通り名である。

 国家公認の殺し屋で、最も優れた者がその名を受け継ぐらしい。侑はもう引退しているのでペリドットではない。




「侑は風邪で寝込んでる」




 翔太の振り向いた横顔が、きょとんとしていた。




「あいつも風邪引くの?」




 そりゃ、人間だからね。

 返した筈の声は、喉に張り付いて言葉にならなかった。口の中がカラカラに乾いて血の味がした。




「タイミング悪ィ奴だな。立花を呼んでおくか」




 そう言いながら、翔太は携帯を取り出した。

 立花とはハヤブサの本名で、翔太の師匠に当たる。侑とは同い年で、犬猿の仲だった。


 大通りを抜け、シャッター商店街に差し掛かる。カジノが出来た影響で界隈の治安が悪くなり、発展は著しいが貧富の差が大きくなった。その内、この国にもスラム街が出来るだろう。犯罪や違法薬物が蔓延り、その度に誰かが秩序を求めて声を上げる。


 時代はサイクル。命は代謝。

 けれど、湊は決して、命を軽視しているつもりは無い。


 昔通っていた喫茶店が、パン屋になっていた。店内は薄暗く、品数も少ない。客はおろか、店員の姿さえ見えなかった。


 その時、翔太が強く腕を引いた。湊が前のめりに倒れ掛かると、翔太が受け止める。そのすぐ後ろを銀色の糸みたいなものが通り抜けて行った。


 パン屋のショーウィンドウに亀裂が走り、硝子が五月雨のように飛び散った。




「時代劇かよ」




 翔太が悪態吐く。そのまま米俵みたいに脇に抱えられながら、湊は追手の姿を探した。

 どうやら、先程の攻撃はボウガンの類らしい。なんて多彩で愉快な殺し屋共だろう。




「サーカスに転職したら良いのに」




 湊が言うと、翔太が笑った。

 ボウガンの矢が追い掛けて来る。背中に目が付いているみたいに翔太が躱して行く。湊は、出会った頃の迷子みたいな翔太を思い出し、同時に浮かんで来た大切な友達の顔を、静かに胸の奥に沈めた。

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