⑷一番星
携帯を取り出して、一年程放置していた自作の地図アプリを起動する。繁華街を中心にした三次元の地図だった。
昔、この街にいた頃に制作したのだ。地上も地下も網羅する地図は、ウィローというドブネズミの協力で完成した。
「懐かしいな」
携帯を覗き込んで、翔太が言った。
地図を作る時、翔太にも幾らか協力を頼んだ。当時は有効に機能していたけれど、街は一年の間に開発が進み、殆ど使えなくなってしまっていた。時の流れは無情である。
「どうする?」
翔太が言った時、すぐ横のポリバケツにボウガンの矢が突き刺さった。プラスチックの蓋が割れて、中からぎゅうぎゅうに詰め込まれたゴミが散乱する。
どうするも何も無い。
湊は頭を抱えた。手が無い訳ではないが、出来れば避けたい。だが、この世界は否応無く選択を迫る。
熱を出している侑を引っ張り出すくらいなら。
湊が電話を掛けた時、路地の反対側から着信音がした。
薄闇の中に青い瞳が、鬼火のように揺れている。
「そろそろ俺達の出番だと思ってたよ」
ムラト・ラフィティ。
中東の大富豪の息子で、今はテロリストの嫌疑を掛けられて日本に亡命中である。彼に力を借りると、自分まで疑われる。
翔太は目を瞬いた。
「誰だ?」
「俺の取引先」
「へえ。湊がお世話になってます」
翔太は会釈した。
その対応は正解なの?
湊には分からないが、日本にはそういう文化があるのかも知れない。覚えておこう。
ムラトは意味深に微笑んでいた。
「力を貸してやるよ」
敵じゃないんだよな、と翔太が声を潜めて訊ねた。
敵じゃない。お得意様と呼んでも過言ではないが、出来ればプライベートな関わりは持ちたくない相手である。
ポリバケツの向こうで、男の呻き声がした。
湊と翔太がモグラみたいに顔を覗かせると、ボウガンを持った男が通りに投げ飛ばされるのが見えた。暗がりの向こうから、褐色の美人が歩いて来る。
翔太が訊ねた。
「あれは?」
「取引相手の秘書」
「怖い秘書だな」
秘書――アーティラは、投げ出された男に躙り寄ると馬乗りになった。何処から取り出したのか銀色の曲がった長刀を構えて、妖艶に微笑んでいた。
「どうしてあの子を狙っているの?」
アーティラは、まるで誘うような甘い響きで問い掛ける。
ボウガンの男は何かを喚いて暴れているが、関節を押さえられているので動けない。アーティラの口元は弧を描き、弱者の抵抗を嘲笑っているみたいだった。
「あのガキがペリドットを殺したんだ!!!!」
湊はびっくりした。
男の怒声にではない。その口から、ペリドットの名前が出て来たことに驚いたのだ。
ペリドットとは公安の切り札で、誰でも知っているような通り名ではない。そもそも、ペリドット――侑は死んでいない。
アーティラはカーテンのように落ちる黒髪を肩に掛け、子供を相手にするみたいに優しく訊いた。
「つまり、復讐?」
「そうだ! あんなガキのせいでペリドットは、腑抜けた男になっちまったんだ!!」
「へぇ、そう」
アーティラは慈悲深く微笑み、そのまま男の喉笛を引き裂いた。真っ赤な血液が間欠泉みたいに噴き出した。アーティラは頬に返り血を付けたまま、真っ直ぐに歩いて来る。どちらが敵なのか分からない有様だった。
「……だ、そうだけど?」
アーティラはつまらなそうに言った。
湊は深く、深く溜息を吐いてその場に蹲み込んでしまった。睡眠不足、疲労、空腹。何も言い訳をするつもりは無いが、これだけは言いたい。
「俺は関係無い」
湊が断言すると、アーティラが冷ややかな目を向けた。
微塵も信用されていない。弁解が必要なのか、そうではないのかすら分からなかった。
つまり、あいつ等はペリドットに憧れる若い殺し屋達。
侑が殺し屋を引退して、穏やかにホワイトカラーの仕事をしていることに納得がいかない。その矛先がどうして自分に向いたのか理解不能だが、理解したくも無かった。
「お前等、仲が良いもんな!」
ムラトが朗らかに言った。
そういう話なのか?
湊は頭を掻き毟った。確かに此処の所は忙しくて、商談の場に出ることも増えた。自分は兎も角として、侑は目立つのだ。
「お前も大変だな」
翔太が気の毒そうに肩を叩いた。
彼だけが癒しだった。他の奴等は面倒ばかり起こす厄介者だ。あの馬鹿共を連れて砂漠に帰って欲しいくらいだった。
4.殺し屋たちの奇想曲
⑷一番星
スネークと呼ばれる殺し屋は、所謂、売り出し中の新人の集まりらしかった。この国の殺し屋業界は中々に層が厚いらしいので、若手はスネークという組織に所属することで仕事を斡旋して貰っているらしい。
雑魚は徒党を組むとは、翔太の言葉だ。
その通りだと思う。
此方の戦力は、ハヤブサの弟子である翔太と、ラフィティ家の従者であるアーティラ。正直に言ってムラトはお荷物だが、置いて行く訳にもいかない。
墓場のようなシャッター商店街に血の臭いが漂っている。人が死んでいるのに、誰も顔を覗かせないし、パトカーも来ない。はっきり言ってスラム街より酷い。
湊は痛む頭を押さえながら、情報を整理しようと努めた。記憶の抽斗を片っ端から引っ繰り返すが、この国は自分が生活していた頃に比べて劣悪に様変わりしてしまっていて、何にも役に立たない。
「ペリドットは熱が高いのか?」
側に立っていた翔太が、心配そうに訊ねた。
それはムラトとアーティラには伏せていた情報なのに、と苦い思いになる。翔太は絵に描いたような御人好しの善人で、腹芸が不得手なのだ。
「休んでいれば、すぐ治るってさ」
「それなら良いけどな。一応、報告はしておけよ。何かあったら困るだろ?」
「連絡したら、飛び出して来そうなんだけど」
「その方が話が早そうだ」
翔太がけらけらと笑った。
侑が来たら余計にややこしくなりそうだ。出来れば穏便に済ませたい。死人が出ているのは、自分のせいではないし。
湊が顔を上げたその瞬間だった。
「見付けたぜェ!!」
下衆な男の声が響き、四人は一斉に振り向いた。
ヤクザの三下みたいな若い男が、銀色の筒を向けて笑っている。爆竹みたいな音と共に商店街のタイルが飛び散って、湊は翔太に引っ張られて物陰に押し込まれた。
マズルフラッシュは稲光のようだった。湊は頭を抱えて、声を上げた。
「ショットガン?!」
「そう。あれはレアだぜ。スパスだ」
フランキ・スパス12は、小型の大砲の異名を待つ散弾銃である。銃の威力が大きい程、反動も大きい。使い手は細身の若い男だが、腐っても玄人と言うことだろうか。
翔太は壁に隠れるようにして、街路を伺っていた。
此処はいつからテキサスになったんだ。湊の嘆きを無視して、翔太は懐から銀色の拳銃を取り出した。
見覚えがあった。
銀色の銃身、飴色のグリップ。S&WのM29は、古めかしくも美しい姿をしていた。翔太の手に収まった銀色の拳銃の前の持ち主を、知っている。
ずきり、と頭が痛んだ。
記憶が引き摺られる。白く霞む視界で、エメラルドの瞳をした黒髪の青年が不敵に笑う。その拳銃は、新の愛銃だった。
乾いた発砲音が遠くの花火みたいに聞こえた。翔太の撃ち放った弾丸は散弾銃を直撃し、引火した火薬と共に爆発した。
それと殆ど同時に、路地の反対側からナイフを構えた男が躍り出る。アーティラは曲芸師のように曲刀を払い、息を吐く間もなくその体躯を切り裂いた。
「逃げるぞ、湊!」
翔太が叫んだ時、その後ろから岩のような大きな影が現れた。日差しを遮る大男はもじゃもじゃの髭を蓄え、まるで山から降りて来たマタギみたいだった。
「ぅおッ!!」
マタギみたいな大男は、その巨体に見合わない俊敏な動きをしていた。振り抜かれた拳を、翔太が掌で受け流す。突進するみたいに翔太は腹部を狙って正拳突きを放った。
瓦でも割れそうな一撃だったのに、大男はにやりと笑って左の拳で翔太の頬を抉った。
「翔太!!」
壁に衝突した翔太が激しく噎せ返る。血痰混じりの咳だった。
「このクソ野郎……!」
頬を腫らした翔太が、ふらつきながら立ち上がる。
湊が加勢に入る間も無かった。大男は後ろから翔太の腰にしがみ付くと、そのまま一気に背中を仰け反った。
ジャーマンスープレックス。リングなら兎も角、固い地面では頭より先に頸椎がやられてしまう。翔太は大男の頭上で体を捻った。
「山に帰れ!!」
翔太の怒鳴り声と共に、稲妻のような肘鉄が顔面に落ちる。鼻の骨が折れる嫌な音がして、男の体が倒れた。翔太は口内の血を吐き出して、口元を拭った。
流石に疲れたのか、翔太が膝に手を着いて深く息を吐き出した。湊が駆け寄ろうとすると、また銃声が轟く。一体どういう状況だ。ヤクザの抗争だってこんなに野蛮じゃないだろう。
湊の頭を路地裏に押し込んで、翔太は身を伏せた。
単発の銃声が響く。
「ムカついて来たぜ」
翔太の呟きに、湊は同意した。
次から次へとキリが無い。何か手っ取り早い方法があれば良いのに、疲労と睡眠不足の頭は錆び付いた歯車みたいに動かない。
「其処で待ってろ」
そう言って、翔太は拳を握った。
物陰に隠れ、銃撃犯の姿は見えない。翔太は立ち上がった。無数の銃口が獲物を捉えて一斉に火を噴く。翔太は流れるようなステップを踏んで前傾し、流星の若く一気に加速した。
一瞬がコマ送りに映る。サバンナの肉食獣が捕食するかのように、翔太は銃撃犯の元へ辿り着くと拳を振り上げた。
パンチ一発が、鉄の塊みたいに重い音を立てる。
肉を打つ鈍い音と悲鳴、呻き声。血飛沫と叫声の中で、翔太は微かに苛立っているようだった。虫みたいに湧いて出る新人を薙ぎ倒し、最後は後ろへ回り込んだ三下を銃の弾倉でぶん殴った。
シャッター商店街は、まるでハリケーンでも通過した後みたいな惨状だった。血と硝煙の臭いが充満し、起き上がる者は一人もいない。
多数の殺し屋を殆ど一人で制圧した神谷翔太と言う青年は、実はまだ見習いなのだ。それでも徒党を組む三下に比べると、圧倒的な実力差が窺える。
頬に返り血を浴びた翔太が、振り返って笑った。
「さて、行こうぜ」
湊はその場に座り込み、頭の奥で響く鈍痛を堪えた。
拍動が耳元で聞こえ、何をした訳でもないのに息が切れている。
「場所を変えよう」
湊は言った。
この場所は駄目だ。無関係の民間人を巻き込んでしまう。スネークと名乗るクソ野郎が如何なろうが知ったことではないが、街中で銃撃戦を繰り返したら、人も建物も無事では済まない。
翔太は街を見渡して、頷いた。
俺達は表舞台に居場所を失くしたあぶれ者だ。だが、裏社会にもルールはある。こんな馬鹿な暴れ方をしたら、堅実に暮らしている他の殺し屋が可哀想だ。
「何処か良い場所を知ってる?」
「そうだな。港の倉庫群が丁度良いかもな」
翔太が言った。話が早くて本当に助かる。
港の倉庫群まで普通に歩けば一時間くらいだろうか。面倒だな、と思うと翔太が口笛を吹いた。機嫌が良さそうで何よりだ。
「さっさと向かおうぜ」
湊は頷いて歩き出した。
一本道を逸れたら別世界だ。表通りは観光客が行き交うくらい賑やかなのに、裏道では血塗れの死体が転がっている。
海の向こうでは爆弾が降り注ぎ、子供が貧困と飢餓に喘ぎ、テレビでは芸能人が薬物で廃人になり、つまらないラブソングが流行し、権力者は見えないものを搾取して笑っている。
この世は不条理と理不尽のバーゲンセールだ。最後の審判の日は来ないし、流星群は地球を逸れて行く。善悪の境界線はいつまで経っても曖昧なまま、真の邪悪は弱者のふりをして秩序の中で生きて行く。
翔太は早足に歩きながら、歌を口ずさんでいた。
Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah...
その時、鮮烈なフラッシュバックが起こった。
お前は平和な世界で笑ってろ。
柔らかなテナーの声が、まるで鐘の音のように広がって行く。耳に馴染む優しい歌声が、胸を軋むように痛ませる。
湊は首から下げたドッグタグを握った。
それは、湊が新に贈った最初で最後の誕生日プレゼントだった。
When it is dark enough, you can see the stars.
どんなに暗くても、星は輝いている。
新が死んだ時の背中を焼くような焦燥が胸の中に蘇る。深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。苦い記憶が泡のように浮かび上がり、頭の中で暴れている。湊は奥歯を噛み締め、拳を握った。
夢がある。
大切な人が生きていて、笑っている。
その生活を脅かすものが何も無く、家族と共に食卓を囲み、温かなベッドで明日を夢見て眠る。何でもない日常が続いて行くことを信じて、その期待通りの朝が来る。
この袋小路のような陰鬱な世界で、湊はたった一つ星を見付けた。例えそれが等級すら与えられないような弱い光だったとしても、地球から何億光年と離れた遥か宇宙の果てであったとしても、確かに輝いていた。
死んだ人間は、記憶の中でしか生きられない。
湊が新に出来るのは、たった一つだけ。
たった一つしかないんだよ、新。
「大丈夫か?」
振り向いた翔太が、いつかの新に重なって見えた。
背負ってやろうか、なんて嘯く翔太を笑い、湊は歩き出した。
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