⑸レイズ
「お前って普段、何を考えながら生きてるの?」
人気の無い路地裏を歩きながら、ムラトが訊ねた。
質問が抽象的で意味が分からない。馬鹿にされているような印象を受けるのは、自分が卑屈なのだろうか。
湊は眉を寄せ、端的に答えた。
「別に何も」
難解な日本語も、お茶を濁す時には便利だ。
ムラトは踊り出しそうな軽い足取りだった。先導していた翔太の横顔が振り返る。
「馬鹿にされてるぞ」
「やっぱり?」
「いやいや! そういう訳じゃない!」
ムラトが慌てて否定する。泡食ったムラトを翔太が笑っていた。
腫れた頬が痛々しい。口の端が切れていて、笑った時に痛んだようで翔太が唸った。
「日本語って難しいな」
ムラトが腕を組んで首を捻る。アラブの大富豪の長男とは思えないくらい気さくで、テロの片棒を担いでいるようには見えないくらい純粋だった。
「お前は狂人だが、悪人ではないと思う。だけど、お前は自分の未来を丸ごと捨てて、まるで生き急いでいるように見えるんだ」
ムラトの不穏な指摘は聞き流し、湊は携帯電話を片手にメッセージを作成した。宛先は、熱で寝込んでいるだろう侑だった。
冷蔵庫にゼリーが冷えてることと一緒に、現状を簡単に記しておいたが、伝わるだろうか。
ついでに地図アプリを起動して経路を確認する。港の方は開発が進んでいないと聞いているが、海岸沿いの工業地帯では閉鎖した工場も多かった。どうやら、この国は工場跡地に空港を作りたいらしい。経済を回して行きたいと言うことは分かるが、急進的なのでリスクは大きいだろう。
工場で働いていた従業員は路頭に迷い、身を落として犯罪に手を染める。絵に描いたような転落人生が其処此処から窺える。この国は本当に平和で、守る価値があるのだろうか。
「もう少し、マシな生き方も出来たんじゃないか」
ああ、これは。
これは、侑とは相性の良くない人間だな。
湊は思った。
気持ちは不思議と凪いでいた。彼なりの労りで、称賛なのだと分かったからだ。憤りすら覚えない。ムラトの声は真摯に誠実に、相手の為を思って言っている、つもりなのだ。
しかし、余計なお世話だった。
此方が弱り目を見せてお布施を求めたら、札束をぽんと投げてくれるような世間知らずの大富豪。ノブレスオブリージュ。そんな擦り切れそうな正論と綺麗事で救われる程、世の中はシンプルに出来ていない。
湊は言った。
「真の悲劇は、魂の内側で死ぬことなんだよ」
ムラトは理解し難いみたいに眉を顰めた。
「どんなことも命あってこそだろ」
「革命家が命の大切さを謳うのかい?」
薄く降り積もった雪を踏み付けながら、湊は冷ややかに問い返した。ムラトが沈黙し、目を伏せる。言い返せないだろうことも分かっていた。
彼はクーデターの為に武器を仕入れていた。
復讐者に武器を渡せばどうなるか、分からなかった筈が無い。ムラトは或る程度の犠牲を見越していたし、割り切ってもいた。カルネアデスの舟板、トロッコ問題。世の中には善悪では括れない、答えの無い問題が溢れている。
「お前の決意を軽んじたつもりじゃなかったんだ」
ムラトが細い声で言った。
流石は商人。引き際は心得ているらしい。これが計算ならば、彼は詐欺師にもなれそうだ。
「他人の人生にケチ付ける前に、自分の足元をよく見ると良い。地面に埋まっているのが財宝とは限らないよ」
「……ご忠告痛み入るよ」
ムラトが笑った。
翔太ばかりが悲しそうに顔を歪めている。彼にそんな顔をさせたい訳じゃなかった。翔太は雪を踏みながら、歩調を早めた。
4.殺し屋たちの奇想曲
⑸レイズ
正義と言うものを、湊は信じていない。
それは社会への諦念とか、司法への憎悪ではない。善悪とは立場や見方で変わる曖昧な概念で、世の中には自分を善人と信じるサイレント・マジョリティが溢れている。
湊は白い息を吐き出し、悴む両手を温めた。指先が冷えて感覚が無くなり、体が意思とは無関係に震えて来る。空腹や頭痛よりも、悪寒と関節痛が酷かった。
「お前、本当に顔色悪いぞ。白いと言うより、蒼くなって来てる」
翔太が気の毒そうに言った。
今、高熱で寝込んでいる侑はインフルエンザだった。代表的な感染症である。予防接種を受けていない自分達は重症化のリスクを背負っている。
「寒いんだ。早く帰って寝たい」
「如何にかしてやりてぇ気持ちはあるんだが」
翔太が言った時、乾いた銃声が響いた。
褪せた混凝土が削れ、火薬と硝煙の臭いが充満する。目的地に到着する前に蜂の巣なんて絶対御免だ。湊は込み上げる胃液を呑み込み、素早く壁際に寄った。
頭痛と耳鳴りの不協和音が視界を歪ませる。寒くて堪らない。翔太の背中に隠れ、マズルフラッシュを遠くの花火みたいに眺めていた。
銃弾と言うのは、思うよりも当たらないものだ。
ハヤブサの事務所を出てから湊はそんなことに驚いた。銃器の脅威は文字通り、痛い程に知っている。だが、実際に対峙してみると弾丸の命中度と言うのは低い。
考えてみれば当たり前のことだった。
応戦して来るターゲットを相手に、自身も動き回りながら発砲する。銃撃の向きから敵の位置が大体分かる。
背後で金属音がした。横目で確認すると、アーティラがナイフを持った男に応戦している所だった。積もった雪がぐちゃぐちゃに蹂躙され、鮮血が真っ赤に染め上げる。
この世は巨大なゲーム盤。
怖気付いた奴から負けて行く。
コールじゃ勝てない。
「Move it!」
湊が叫ぶと、アーティラが身を引いた。
銀色のナイフが空を切る。湊は足を踏み出し、ナイフを携えた男の前に躍り出た。逆手に握られたナイフが頸動脈を狙って切り上げられる。湊は勢い良く踏み込んで、男の股下を滑り抜けた。
薄暗い路地の角から小型の自動拳銃を持った男が飛び出して来る。湊は起き上がる勢いで手首を蹴り上げた。
背後で男の呻き声がした。アーティラが仕留めたらしい。湊は宙に浮いた拳銃を掴むと、武器を失くした男に向けて引き金を絞った。
風船の割れるような音がした。
血と脳漿が飛び散る。銀色の拳銃は、小型であっても湊の手には大きかった。右手でコッキングしてから引き金を引く。銃を使ったのが久しぶりなので、反動で指先が痺れる。
蟻の巣穴に水を流し込んだみたいに敵が湧いて出る。マガジンを使い切る前に装填不良で使い物にならなくなり、湊は早々に拳銃を投げ捨てた。
アキュ・テックHC-380はクソ。
侑が以前、そんなことを言っていた。確かに、酷い銃である。
湊が背を丸めると、アーティラの曲刀が頭上を切り裂いて行った。血と臓物が弾けて路地裏が血に染まる。
武器は嫌いだ。ナイフも銃も爆弾も大嫌いだ。だけど、俺達はそういうものを使わなければ生き延びることが出来ない。湊は足元に落ちたサバイバルナイフを握った。
ハウリングに似た耳鳴りがした。辺りから音と色が消え失せて、モノクロの世界が訪れる。アーティラの曲刀の軌道は線のように映った。
刃の切っ先が、銃を持った男の手首を切り落とす。噴き出す鮮血がコマ送りに見えた。手首を失くした腕を引っ掴み、ナイフで頸を貫く。関節を押さえたまま首筋へ刃先を滑らせ、男を蹴り飛ばした。
「軍人みたいな戦い方ね。何処で訓練を受けたの?」
アーティラが嘲るみたいに言った。
湊は頬に受けた返り血を拭い、肩を竦めた。
「プロが身近にいるんだ」
侑なら一撃で殺してる。
インフルエンザの潜伏期間は一日から三日。もしかして、自分の症状はインフルエンザだった?
「走れ!」
翔太が怒鳴った。銃弾は無限に湧いて出る訳ではないので、湯水のように使うことは出来ない。翔太の声を合図に銃撃戦の中を駆け抜けて行く。
被弾しないだろうと、思った。
何となく、そう思った。
湊はムラトの手を引いて、雪と銃弾の降り注ぐ街を駆け抜けた。空は暗く、夜の匂いがする。銃声も悲鳴も怒号も雪に吸い込まれて消えて行く。
「ペリドットって、侑のことだよな? 何者なんだ?」
息を弾ませながら、ムラトが言った。
絨毯爆撃のような酷い嵐の中、一発も被弾せずに全員生き延びたのは誰の成果なのだろう。ムラトと言う男が何の犠牲も払わずに暢気に会話なんてしているのは、一体どんな魔法なのか。
腹立たしい気持ちがしたので、湊はムラトの方を向いて盛大に咳き込んでやった。こいつもインフルエンザの辛さを味わえば良い。でも、病原菌もムラトは避けて行くんだろう。
「ペリドットは、国家に雇われた暗殺者の呼び名だよ」
答えたのは翔太だった。
港が近付き、潮の臭いがする。辺りに人気は無いが、完全に撒いたとは思えない緊迫感が足下に蟠っている。
「フィクションみたいな伝説級の暗殺者だった。……まあ、業界では嫌われてたけどな」
国家公認の殺し屋なんて、そんなものだろう。
殺し屋と言う存在自体が社会的秩序に反して日の目を見られていないのに、ペリドットは国家に容認されて守られている。そのペリドットを祭り上げて浄化部隊なんかを作ろうとした政治的動きもあったくらいだ。
「名が売れると、偶像を崇拝する奴等が出て来る。そいつ等は期待を裏切った相手には何をしても良いと思ってるし、罰を与える権利があると信じている」
「じゃあ、湊が狙われてるのは、八つ当たりってことだな」
ムラトが言った。
ペリドット時代の侑の行いがどういうものであったにしろ、湊に過去を変える術は無い。それなのに、八つ当たりの矛先に祭り上げられるなんて笑えない冗談だ。
あんな奴等の自慰行為に付き合って死ぬなんて、絶対に嫌だ。湊は強く思った。
「現実と理想の違いを嘆いて良いのは、新卒だけだ」
湊が吐き捨てると、翔太が笑った。
ムラトばかりが神妙に黙り込んでいる。重油のような海に真っ白な雪が降って、まるで世界から色が失われたみたいだった。目的地の倉庫群が見えて来た頃になって、ムラトが口を開いた。
「俺の国では、報復しないことは善行だと教えられる。お前の国では如何だった?」
「教会では美徳と教えていたよ」
「じゃあ、お前は?」
「さあね」
報復も赦しも、生きている人間のエゴで、それ以上の意味は無い。湊に神はいないし、必要も無かった。
「やらなきゃいけないことをやるのに、どうして理由が必要なんだ? 目的とか信念とか、そんなに大事なことなのか?」
「大事なことだろ。目的無き進行は暴走で、信念無き力は暴力だ」
「俺は政治家や宗教家じゃない。世の為、人の為なんてくだらないスローガンは海に投げ捨てた」
「傲慢ね」
溜息混じりに、アーティラが言った。
傲慢? どっちが。
湊は吐き捨てた。
遠くで当たりもしない発砲を繰り返す阿呆がいる。
死体に群がる蠅みたいに鬱陶しい奴等だ。
偵察して来ると言って、アーティラは雪景色の中に消えた。本格的に吹雪いて来る前に片付けたい。湊は雪を蹴飛ばした。
「俺には、君が何を言いたいのか全く分からない。もっとストレートに訊いて欲しい」
「初めて人を殺した時のことを覚えてるか?」
顳顬の辺りがズキリと脈打った。
湊は唾を呑み下した。
「覚えてる」
「どんなだった?」
「腹が立った」
古びた倉庫の影に差し掛かる。潮風でシャッターが赤く錆びて、隙間風が虚しく鳴っている。
「俺なんかに殺される奴にも、そんな方法しか選べなかった自分にも。心底、腹が立った」
「そうか」
「ムラトは?」
湊が訊き返すと、ムラトは言った。
「十歳の時だった。二番目の弟の母親が、俺を蔵に押し込んだ。何か言ってたけど、忘れちまったな。張り上げられたナイフがやけに眩しかったのを覚えてる」
「……」
「気付いたら、俺がナイフを握ってて、二番目の弟の母親は死んでた。そのまま逃げ出して、部屋に戻ったら、アーティラがいた。何も言わず、何も訊かなかった。でも、抱き締めてくれた腕が震えてた」
ムラトは、アラブの大富豪の跡取り息子だ。熾烈な後継者争いで、毒も暗殺も日常茶飯事と言う地獄の中を生き抜いた。
俺には、愛してくれる家族がいた。
では、ムラトは如何だったのか。
何もかもを憎んで復讐したって良かったのに、彼は他人の為に身分制度を覆そうとしている。
「俺の代わりに心を痛めてくれたアーティラに、何が出来るだろう。……ずっと考えて、やっと出来ることが見付かったと思ったのにな」
どんな人間も相応の地獄を背負っていて、それを他人に推し量ることは出来ない。痛みを自覚出来るのは利得だ。だから乗り越えることが出来るし、他人の痛みに気付ける。
ムラトが力無く笑う。
湊は言った。
「まだ、終わってない」
ムラトが顔を上げた。澄んだ青い瞳が柔らかに揺れている。
湊は口角を釣り上げ、拳を向けた。
「そうだろ、ムラト・ラフィティ。俺も君もまだ終わってない。サレンダーにはまだ早いぜ」
「そうだな。……ポーカーはレイズしなきゃ勝てない」
ムラトの褐色の腕がすっと伸びて、拳がぶつかった。
寂れた倉庫の壁に隙間があった。野良猫みたいに擦り抜けた時、翔太が言った。
「お前等、そっくりだな」
それは、損失なのだろうか。
この薄汚く素晴らしい世界に中指を立てるつもりで、湊は笑ってやった。
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