⑹幻肢痛

「イギリスの哲学者のフィリッパ・ルース・フットが提唱した思考実験に、トロッコ問題って言うのがあって」




 倉庫の中は冷凍庫みたいに冷え切っていた。

 足を踏み出すと薄く積もった埃が宙を舞い、天窓から差し込む淡い光に照らされてきらきらと光る。

 死んだように静まり返る倉庫内には、段ボール箱や何かの機械が放置されていて、まるで墓場のようだった。


 湊は肩に積もった雪を払い、額に手を当てた。手が冷え切っているので、熱が高いのか如何かよく分からない。後を付いて来たムラトが「へえ」と曖昧な相槌を打った。




「線路を走っているトロッコが制御不能になって、猛スピードで突っ込もうとしている。その先には五人の作業員がいて、このままでは全員確実に死ぬとする」




 寒気を避けて倉庫の奥へ移動する。

 先導する翔太は足音を殺し、神経を張り巡らせて警戒しているようだった。静かな倉庫内で、湊は声を潜めた。




「貴方は分岐器の側に立っている。線路を切り替えれば五人の作業員は助かる。でも、切り替えた先の線路には一人の作業員がいるんだ」

「何の話をしてるんだ?」




 振り向いた翔太が、呆れたように言った。

 話題に意味なんて無かった。ただの雑談だ。意識が飛びそうだったから、気を紛れさせたかった。ムラトは興味も無さそうだったが、湊は微笑んで続けた。




「五人の作業員を助ける為に分岐器のレバーを動かして、一人の無関係な作業員を死なせたとして、それは許されるか」

「許されないだろ」




 翔太はカバーの掛けられた機械に背を預け、周囲に視線を送った。今の所、敵の気配は無い。俺達が警戒するべきは銃弾やナイフより、倉庫ごと火炙りにされることだ。俺ならそうする。


 尤も、敵は自分を殺してペリドットへ見せしめにしたいのであって、死体が無くなるのは困るのだろう。自分が殺されたら侑には生首でも届けられるのだろうか。




「功利主義に基づくならば、五人を助けるべきだ」

「……いや、駄目だろ。五人を助ける為に無関係の一人を死なせたら、人殺しと同じだ」




 翔太は、どうしてそんなに優しいんだろう。銃を握り、人を殺し、それでも彼の魂はタブラ・ラサのように美しく澄んでいる。

 彼の言葉を聞いていると、まるで春の日差しの下にいるみたいに清々しく温かな心地になる。


 湊は咳払いをして、言った。




「翔太みたいな考え方を義務論と言う。世の中の大多数の人間は、義務論に従って沈黙する」




 物言わぬ多数派――サイレント・マジョリティ。

 この手の思考実験には、明確な答えが無い。統計データはあっても、正解は無い。善悪に境界線が無いように、モラルや倫理観なんてものは曖昧なのだ。




「この思考実験に答えは無い。だけど、多くの人は自己正当化の為の論理を組み立てようとする。一般的には社会的正義とか、倫理的観点だね」

「まあ、そうだろうな」




 翔太が曖昧に頷いた。

 湊は鉛のような体を機械に預け、一息吐いた。




「でも、此処に条件を加えると答えを誘導することが出来る」

「どんな?」

「例えば、その作業員が家族であったり、他人でも妊婦だったりしたとする。そういう前置きをすると、選択の幅はとても狭められる」




 翔太の頬が隆起するのが横目に見えた。奥歯を噛み締めたのだろう。湊は熱い息を吐き出して、埃っぽい天井を眺めた。


 頭がぼうっとして、酷い倦怠感に座り込んでしまいたくなる。けれど、立ち止まる時は死ぬ時だと知っている。気を抜いたら寝てしまいそうだ。深呼吸をしながら、湊は続けた。




「特定の思考や行動へ誘導する手段は、幾つかある。プロパガンダって奴だね。世の中の殆どの戦争は情報戦に移り変わっている。勝ち抜くには最新の情報を獲得する術と、真実を見抜く知識が必要だ」

「何が言いたいのか、本当に分かんねぇんだけど」




 翔太が言ったその瞬間、金属音と共に銃弾が火花を散らした。何処からか現れた蛇野郎が、ガキの火遊びみたいに拳銃を振り回して笑っている。殺し屋の台頭にしたって数が多過ぎるし、武器の種類が余りに多彩だ。


 この国に出回っている銃器は、蛍と呼ばれるパスファインダーが仕掛けた罠だ。つまりこの襲撃には自分を始末し、侑を誘き出したい思惑がある。


 銃弾の嵐は、稲光のような閃光を伴った。サブマシンガンだ。湊は膝を抱えて蹲った。反撃のチャンスを伺って翔太が顔を覗かせるが、その眼前で銃弾が爆ぜた。


 その時、爆発音が轟いて、熱波が辺り一帯を吹き飛ばして行った。湊は意識が朦朧として、状況を把握することが難しかった。翔太とムラトが何かを叫んでいるのに、まるで水槽の中にいるみたいに聞き取れない。


 翔太が担いで逃げようとする。その進路を阻むように軍人みたいな筋肉質な男が立ち塞がった。湊はぐったりと手足を投げ出していた。指一本動かせなかった。


 翔太が応戦するその後ろから、また新たな刺客が現れる。

 賽の河原にいるみたいだった。積んでも積んでも崩される石の山。寝ても覚めても終わらない地獄。




「湊!!」




 ムラトの叫び声がした。黒いナイフが張り上げられていた。


 悲鳴が、怒号が、銃声が、爆発音が。

 ぐちゃぐちゃに混ざり合って、まるで嘔吐物みたいだ。頭が痛い。必要も無いのに、脳が勝手に過去の記憶を引っ張り出す。


 ちゃりん、と。

 首から下げたドッグタグが零れ落ちる。


 When it is dark enough, you can see the stars.

 どんなに暗くても、星は輝いている。


 そして、その裏面には新からのメッセージが残されていた。

 湊がそれに気付いたのは、新の体が冷たくなった後だった。


 You light up my life.

 あなたは私の人生に光を齎してくれた。


 それを、どんな気持ちで残したの。

 もう訊くことも出来ない。顔を見ることも、話すことも、手を握ることも、何も出来ない。


 あの日の哀しみが、苦しみが、昨日のことのように蘇る。


 夢を見るんだ、新。

 君が生きていて、美しいものを探して世界中を旅して回るんだ。天気は晴れでも雨でも良い。君と一緒なら何処だって良かった。


 街の雑踏に君の面影を見付けては、まるで鈍器でぶん殴られたみたいに目が覚める。この世の何処を探したって君はいないと分かっているのに、まるで性質の悪い夢を見てるみたいなんだ。


 命の責任は、命でしか償えない。

 いつか、侑が言っていた。新を殺したのは或る犯罪組織の殺し屋で、最期は侑の手で始末された。


 この世には命でしか償えない凄惨な事件が起こる。

 湊の両親は爆弾テロで死んで、弟の航はその時の後遺症に今も苦しんでいる。爆弾を作って仕掛けたクソ野郎は、湊の手で死刑台送りになった。だけど、その背後で糸を引いていた本当の邪悪は正義のふりをして、今も何処かでのうのうと生きている。


 復讐は不毛。

 湊にそう語ったのは、ハヤブサと呼ばれる殺し屋だった。そんなことは知っている。だけど、大切な人を奪われた人間が前に進む為に凶器を手に取ったとして、それを誰に責められると言うのだろう。


 どれだけ残酷な事件を起こしても、どれだけ人を殺しても、自分が死ぬのは一度きりだ。それは所業に釣り合った対価なのか。湊には、今も分からない。過去の為に未来を捨てるつもりは無いのに、胸の奥に沈めた筈の絶望と後悔が幻肢痛みたいに蘇るのだ。


 両親の顔が、新の背中が、まるで水面に映る花火みたいに。


 ――ぱっと、真っ赤な花が咲いた。

 霧の中みたいな視界が、確かな像を結ぶ。薄暗い倉庫の中、血と硝煙の臭い。あの日の絶望と後悔を嘲笑うように、金色の閃光が視界の端で瞬いた。




「よお、湊」




 耳慣れたテナーの声が、優しく穏やかに耳へ届いた。

 烏のような黒いジャケットが翻る。軍人みたいな大男は、腕と頸椎から血を噴き出していた。いつの間に切り付けたのか、湊には目で追うことが出来なかった。




「侑」




 咳混じりに名を呼べば、侑が目の前に跪いた。

 エメラルドの瞳が覗き込んで、冷たい掌が額に触れた。




「お前、熱があったんだな。気付かなかったぜ」

「俺も、気付かなかった」

「それなら仕方無ェな」




 侑が笑って、立ち上がる。まるで、本当の家に帰って来たみたいな安心感だった。

 丁度、煤塗れの翔太が戻って来て、侑を見て驚いたみたいに言った。




「いつ来たんだ?」

「今だよ。これだけ派手にやってりゃ馬鹿でも気付くぜ」




 侑が猫みたいに背伸びをして、腕を下ろすと同時に手にしたナイフをぶん投げた。機械の影から出方を伺っていた男の眉間に、ナイフがダーツのように突き刺さる。




「相変わらず、フィクションみたいな男だな」




 翔太が呆れたみたいに言った。

 侑は白々しく笑って、振り向いた。




「お前等は其処にいろ。後は全部、俺が片付けてやるから」

「あのお客さんは、お前に用があったらしいぜ?」




 翔太が溜息を吐いて、その場に蹲み込んだ。ドブネズミ並の運動量だが、よく軽口なんて叩いていられるものだ。

 侑は真丸にした目を瞬いた。




「どういうことだ?」

「あいつ等はペリドットの厄介なファンで、湊のせいでお前が引退したと信じている」

「へぇ……」




 エメラルドの瞳に狂気的な光が宿る。怒気と殺気が湯気のように全身から立ち昇るのが見えるようだった。湊は身震いした。


 真冬だと言うのに翔太は全身汗でびっしょりだった。流石に疲れたらしく、後始末は侑に任せて湊の隣に腰を下ろした。

 アーティラが忍者みたいに現れて、自分達と侑を不思議そうに眺める。二人が何か言おうとした時、侑の声が殺伐とした倉庫内に響き渡った。




「――さあ、お集まりの皆様。楽しいパーティーの始まりだぜ」














 4.殺し屋たちの奇想曲

 ⑹幻肢痛













 それは、自然災害に似ていた。

 人が長い年月を掛けて積み上げて来た歴史も建築物も、大自然には敵わない。津波が街を呑み込むように、象が蟻を踏み潰すように、凡ゆる武力が圧倒的な力で蹂躙されて行く。


 熱と疲労で霞む視界では、何が起こっているのか把握することが難しかった。ただ一つ分かるのは、此処で起きているのはパーティーではなく、暴力による制圧だと言うことだった。




「あいつは何なの? 本当に人間?」




 アーティラが言った。

 どうやら彼女は、集まって来る刺客を倉庫の外で始末していたらしい。今は従者としてムラトの側に控えているが、湊にしてみれば彼女も侑も似たようなものだった。




「生物学上はね」




 湊は言いながら、翔太に凭れ掛かった。

 侑が到着してから緊張の糸が解けてしまって、眠くて堪らなかった。




「相変わらず、化物みたいだな。敵が可哀想に見えて来るぜ」




 湊は曖昧に返事をした。

 侑の戦闘能力と言うものは人間離れしていて、鬼や羅刹に喩えられる。湊が生き残ることに重点を置いているのに対して、侑は人殺しに特化した男だった。味方で良かったと心の底から思う。あんな化物を相手に敵対していた頃の自分は、命知らずで馬鹿だったのだ。


 数分としない内に倉庫内からは物音が消えて、酷い血と硝煙の臭いの中に侑が立っていた。その足元には男が突っ伏して、まるで古雑巾みたいにボロボロだった。




「湊。お喋りするか?」




 侑は男の頭を踏み付けながら、笑っていた。

 倉庫内の敵勢力はほぼ制圧し終わっていて、その足元にいるのは最後の一人らしかった。湊は転寝をしていたことに気付き、うんざりしながら答えた。




「今日はもう店仕舞いだ」

「わはは」




 侑が朗らかに笑った。

 その手には軍隊で使われるような黒い拳銃が握られていた。




「だそうだ。次は営業時間内に出直して来いよ?」

「アンタはいつからそんな腑抜けになっちまったんだ!!」




 前歯の折れた男が悲鳴みたいな罵声を浴びせた。その首筋には見覚えのある悪趣味な蛇のタトゥーが見える。




「アンタはあんなガキに使われて良い存在じゃない!!」

「何を言ってるのか全く分からねぇ」

「ペリドットは、ハヤブサをぶっ殺せる最強の殺し屋だった筈だ!!」




 湊は眉間を揉んだ。

 状況が読めて来た。スネークはハヤブサに恨みを持つ三流の殺し屋集団だった。ハヤブサと敵対するペリドットに一方的な羨望を抱いていて、引退して期待を裏切られたと感じたらしい。


 侑がホワイトカラーの仕事をしていることを知って、その矛先がビジネスパートナーである自分に向いた。筋書きは、そんな所だろうか。


 まるで、昨今のアイドルとストーカーである。

 人間なんて何処まで行っても、最後はエゴしか残らない。




「今更、ホワイトカラーなんて許さねぇ!!」




 職業差別じゃないか。

 こいつ等は人殺しの上に責任転嫁するレイシストだ。こういう馬鹿がいるから殺し屋は誤解されるし、社会復帰が困難なんだ。


 殺人を正当化するつもりは無いが、無差別の殺人鬼に比べたら殺し屋と言うビジネスは健全だ。嫌いだから許容されるべきではないと言う考えこそが、是正されるべきだ。




「うるせぇな」




 侑は溜息を吐いた。

 その声は氷のように冷たかった。




「猿みてぇに喚きやがって。次は営業時間を守って、日本語も学んで来ると良い」




 銃声が尾を引いて響いた。

 血液の臭いがむっと立ち込める。侑はジャケットの下のホルダーに銃を戻して、襟元を正した。




「さあ、帰るぞ」




 振り向いた侑は、いつもの柔らかな微笑みを浮かべていた。とても病み上がりには見えない。抗生物質が効いたのだろうか。こんなことなら、始めから侑を呼んでおけば良かった。

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