⑺トロッコ問題
心臓の音がする。
血が流れ、脈を打ち、心地良い体温が伝わって来る。
生きている。それが幾つもの奇跡の上に成り立ち、どれだけ得難く尊いものであるのか、湊はもう知っている。
大粒の雪が降って、辺りはすっかり銀世界だった。鈍色の雲間から月光が降り注ぎ、港は青く光って見える。埠頭に積もった雪をざくざくと踏みながら、侑が真っ直ぐに歩いて行く。湊はその背中で、幼い子供みたいに体を預けていた。
「トロッコの話をしていてな」
翔太の声がした。
彼の声は、静寂に包まれる雪夜にそっと響いて聞こえた。
殺し屋には見えない純朴な顔付きで、人殺しとは思えない優しい声をしている。湊は翔太の人柄が好きだし、尊敬もしている。大洪水の中にノアの箱船がやって来たら、翔太を乗せてくれと嘆願するかも知れない。
侑が訊いた。
「トロッコ? 電車みたいな奴か?」
「そう。制御不能のトロッコが猛スピードで突っ込んで来るんだって。線路の先には五人の作業員がいて、分岐器を切り替えれば助けることが出来る。でも、切り替えた先には一人の作業員がいて、どちらかしか助けることが出来ない」
「ふうん」
侑の声は、まるで天上から聞こえるみたいだった。
湊は目を閉じて、夢現に彼等の話を聞いていた。
「五人を助ける為に一人を死なせるのは、許されるのかって」
「誰に?」
「誰に?」
侑の質問を、翔太が復唱する。侑は一度足を止めると、湊を背負い直して、また歩き出した。
「出題者は裁判官か? 遺族か?」
「そういう話じゃなかったと思うけどな」
翔太が困ったみたいに言った。
侑は平然と答えた。
「許されるか如何かは分からないが、俺なら無視する。どっちを助けても責められるだろうし、貧乏籤だ」
侑の声は不思議と澄んでいた。
半覚醒状態で聴くと、新の声に似ている。そうやって新の面影を探しては、絶望する。何処まで行っても過去から逃れることは出来ないし、楽になれる日も来ない。
「こいつは、どっちを助けるって?」
侑の声がした。俺が寝ていると思っているのだろう。
まだ寝ていない。起きている。そう言いたいのに、目蓋が重くて開けられない。
ムラトの明るい声がした。
「答えは無いって言ってたぜ」
「そりゃそうだけどな。……答えは無い、か」
侑は一人で納得したみたいに言った。
「成長したと思うぜ」
翔太は笑ったようだった。
「昔なら、自分が線路に飛び込んで全員助けるとか言ってただろうさ」
「最悪だな」
「そうだろ? 答えられないのも、迷うのも、湊の成長の証なんだよ」
お前はこいつの何なんだ。
侑が軽口みたいに言った。
俺と翔太は、どういう関係なんだろう。言語化は難しい。関係性に名前を付けられないのは、何故なんだろう。
しんしんと雪が降る。真っ赤に染まった街路も雪に消え、死体だらけの倉庫も開発の闇に葬られるんだろう。記憶が色褪せるように、過去も現在も消えて行く。
侑の背中は大きくて、温かい。命の音がする。
穏やかな心臓の音を聞いていると、まるで止まり木を見付けた渡鳥みたいに安心する。薄明のような睡魔がやって来て、目を開けていることが出来ない。
夢現に聞こえる翔太と侑の声は、子守唄みたいだった。
「なあ、ペリドット。いや、今はただの天神侑か」
「ああ」
「アンタは、あんまり他人を信用しないで生きて来ただろう?」
「そういう仕事だったからな」
「フリーでやって行くなら、それでも良いだろうさ。だけど、今のアンタはそうじゃない」
翔太の声は、鋼鉄で出来た槍みたいに鋭かった。
侑は皮肉っぽく喉を鳴らし、片手間に降り積もった肩の雪を払った。少し後ろで足音が止まって、翔太の声がした。侑が半身で振り返る。
「俺達がやってんのは、世界中から掻き集めた汚れ仕事だ。顔も知らない何処かの誰かが引かなかった分岐器のレバーを、代わりに引き続ける仕事だ」
「俺はそんな大義名分の為に銃を握った訳じゃねぇよ」
「だとしても、俺達の仕事は人様に誇れるようなお綺麗なもんじゃねぇ。そういう方法しかなかったから、そういう役目だったから、レバーを引き続けてる」
翔太の考え方は、湊には眩しかった。
覚悟と信念、誇りと責任。翔太は根が真面目で素直なので、湊が切り捨てて来た沢山のものと真摯に向き合っている。
「いつか清算しなきゃならねぇ日が来る。世の中には、自分一人の命じゃ落とし前を付けられないことがある。人間なんて一人きりで生きられる程、強くないんだ。お前の作った壁なんて、そいつは簡単にぶっ壊して行くぞ」
侑は答えなかった。
不始末なんて考えたことも無かったし、その尻拭いをしているなんて意識も無い。でも、人間なんて一人で生きることは出来ないし、自分が万能に熟せる訳でもないと分かっている。
その時、ムラトが明るく言った。
「そう言えば、侑は熱を出してたんだよな? もう大丈夫なのか?」
嫌な空気を察して、話題を変えたのだと分かる。
侑が言った。
「お蔭様でな。こいつが看病してくれたし」
「湊の料理、適当だろ」
「そうか? 俺には、随分と丁寧に見えるけどな」
侑がつらつらとメニューを言う度に、翔太が驚いたみたいに声を上げる。翔太と一緒にいた頃は、料理を丁寧に作る習慣が無かった。必要も無いと思ってたんだ。でも、喜んでくれる人がいるから、丁寧に作るようになったんだ。
俺は、沢山の命の上に生きている。
だけど、それは屍だけじゃないんだ。今も生きて守り、支えてくれている人がいる。翔太や侑、新が助けてくれたように、俺も彼等の力になりたい。
侑が何と答えたのかは、聞こえなかった。湊の意識は既に夢の中へ舟を漕ぎ出していた。
白く霞む世界で、懐かしい歌声が聞こえた。
Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah, Hallelujah...
4.殺し屋たちの奇想曲
⑺トロッコ問題
柔らかい感触が背中に当たって、湊は目を覚ました。
見慣れた住居の景色が見えて、ダイニングテーブルの椅子に乗せられたことに気付く。窓の向こうは夜だった。侑のエメラルドの瞳が覗き込んで、優しく問い掛ける。
「風呂入れるか?」
湊は頷いた。
こんな状態でベッドに入ったら、母国の弟に叱られる。湊が立ち上がると、侑が口元に微かな笑みを浮かべていた。
「飯は? ゼリーが冷えてるぜ?」
「後で食べるよ」
足枷でも付けているみたいだった。
湊は重い体を引き摺って、なるべく慎重に風呂場を目指した。洗面台の鏡に、酷い顔をした自分が映っている。こんな顔をしていたら、翔太も心配する訳だ。シンクに手を突いて深く息を吐き出し、湊はさっさとシャワーを浴びた。
風呂場を出ると倦怠感が強くなって、意識も途切れそうだった。リビングで雑誌を読んでいた侑が顔を上げて、体温計を差し出して来た。
二人で倒れたら、看病する人間がいなかった。
入れ違いで良かった。体温計の安いっぽいアラームが鳴って、確認して見たら先日の侑と同じくらいだった。
「俺の風邪か?」
「どうかな」
こんな時は早く寝よう。大抵の病気は寝れば治る。
寝室の扉に手を掛けた時、不意に侑が言った。
「行きたい場所、決まったか?」
じわりと、嫌な汗が滲むのが分かる。
目を逸らしたいような、逃げ出したいような正体不明の感情が湧き上がる。
海でも山でも、適当な場所を告げれば良い。取り繕うのは得意だ。――でも、此処で逃げたら、もう二度とこの場所に戻って来られないような形容し難い不安感が胸の奥に蟠っている。
湊は寝室の扉に背を預け、拳を握った。
「新のお墓に行きたい」
その瞬間、侑の顔からは感情がごっそりと削げ落ちた。
まるで、断崖絶壁に突き落とされたみたいな、この世の終わりみたいな顔だった。
俺達はずっとこの話題を避けていて、時間が何かを癒してくれると思いたかった。けれど、時間は万能薬ではないし、時間だって病気になることを知っている。
「逃げ回っていた時、新の声を聞いた気がした」
繊細な話題であることは分かっている。湊にも侑にも傷がある。それは癒えることは無いし、笑い飛ばせる日も来ない。だから、俺達は蓋をする。過去に囚われて現実を見失うことが無いように。
だけど、一年の中に一度くらい、心が弱って誰かに寄り掛かる日があっても良いだろう。俺が侑に出来ることは、とても少ない。そして、新に出来ることはもっと少ない。
「平和な世界で笑ってろって、言ってた」
「全然聞いてないじゃねぇか」
侑が喉の奥で笑った。
けれど、その目は微塵も笑っていない。
その通りだった。
俺は新の望みを何も叶えてやれなかった。
「俺も、弟と同じことを思ってるよ」
侑の声が、過去に回帰した意識を連れ戻してくれる。湊は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
侑のエメラルドの瞳に柔らかな光が見える。それはまるで、もう二度と会えない両親の眼差しのようだった。
両親は死んだ。そして、湊はその死に目に会えなかった。
最後に会ったのは、もう二年も前のことだった。湊は転がるようにして母国を飛び出したので、ろくに挨拶も出来なかった。
また会えると思っていたんだ。
早く大人になって、両親を助けて、いつか旅行に連れて行ったり、一緒にお酒を呑んだり、沢山感謝を伝えて、もう大丈夫だよと胸を張りたかった。もう、叶わない。
大切なものは失くしてから気付く。
俺達はいつも無い物ねだりで、いつだって何か足りないと声を嗄らして叫んでいる。どんなに大切にしたって指の隙間から砂のように零れ落ちて、どうしてもっとと願わずにはいられない。
「お前は、何の為に生きて行くんだ?」
自分達が今、とても重大な決断を迫られていることが分かる。返答次第では、侑は自分の前から姿を消して、もう二度と会えないかも知れない。そんな確信めいた予感が、湊の中にあった。
目の前に分岐器が見えるような気がした。
五人を助ける為に、一人を死なせることは許されるか。俺は、許されないと思う。何故か。大切な人を失う痛みを知っているからだ。
じゃあ、見殺しか。
それは、分からない。いざその場面に立たされたら、俺は線路に飛び込むかも知れない。
何かを選ぶ時には、何を捨てるかを考える。
人の命は代替される代物で、売買されることすらある。湊は生き延びる為に手を汚すし、自分はその事自体を論じられる立場に無い。ただ思うのは、――誰にも死なないで欲しい。
失うのは、もう嫌だ。
「大切な人がいる」
「……弟か?」
侑が訊いた。
湊はぎゅっと目を閉じた。家族と友達の顔、新の背中が走馬灯みたいに脳裏を過ぎる。目を開けると、侑はとても、とても優しい顔をしていた。まるで、別れを告げる前みたいな顔だった。
「君もだよ、侑」
湊が言った時、侑は目を瞬いた。
顔を洗った後の猫みたいだった。
「俺はもう、誰にも死んで欲しくない」
喉が痛くて、声は掠れていた。それでも、この言葉が伝わるように、流星に願いを込めるように、何度でも。
「侑が心から幸せな未来が見たいんだ」
「……其処に、お前の居場所はあるのか?」
侑の声は、雪夜の月明かりみたいに澄んでいた。
その声を聞いていると何故だか泣きたくて、縋りたくて、謝りたいような気がする。
「無いの?」
湊が問い返すと、侑が笑った。
嘘じゃない本当の笑顔だった。
「もう寝ろ。……熱が下がったら、ちゃんと連れて行ってやるから」
「約束だよ」
湊が小指を差し出すと、侑が首を捻った。
約束をする時の指切りは日本にもある文化だった筈だが、地域差が有るのだろうか。
よく分かっていない侑の腕を取って、小指を絡める。幼い頃に歌った母国の童歌を口ずさむと、侑が怪訝そうに眉を寄せた。
英語も日本語も、歌詞が不穏なのだ。
侑は苦く笑った。
おやすみ、と侑が言った。湊は微笑んで、寝室の扉に手を掛けた。ベッドに入って、目が覚めた時に侑が何処にもいなかったら、俺はどうしたら良いんだろう。
伸ばした手を取ってもらえなかった経験がある。
だけど、約束をしたら、信じなきゃ駄目だ。
「おやすみ、侑」
湊は侑が寝ている所を殆ど見たことが無い。それは、この場所が彼にとって安心出来る居場所ではないからだ。
どうしたら、侑が安らげる場所になるのだろう。どうしたら、この手は届くのだろう。君が大切なんだと、何処にもいなくならないで欲しいんだと、どんな言葉で伝えたら良いんだ。
寝室は真っ暗で、底冷えするみたいに寒かった。閉じた扉に背を預け、湊は鼻を啜った。一枚の扉がまるで高い壁みたいで、飛び越えることの出来ない境界線のようだった。
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