⑻掌の約束

 夢がある。

 大切な人が生きていて、笑っている。

 その生活を脅かすものが何も無く、家族と共に食卓を囲み、温かなベッドで明日を夢見て眠る。何でもない日常が続いて行くことを信じて、その期待通りの朝が来る。


 平和や平穏と呼ばれるものが、砂上の楼閣であることを知っている。朝起きたら何もかもを失っているかも知れないことも、手を伸ばしても掴んでもらえないかも知れないことも、知っている。




「湊」




 シャボン玉が弾けるみたいに、湊の意識は覚醒した。

 ブラインドカーテンの隙間から朝日が差し込んで、横断歩道のような縞模様を作っている。白く霞む視界の奥で、エメラルドの瞳が輝いている。


 焼けるような痛みが喉にあった。着衣水泳でもしたみたいに体が重い。湊は溺れる者が藁を掴むように、手を伸ばした。


 手を伸ばしても、掴んでもらえないかも知れない。

 突き放されるかも知れない。それでも、何度でも手を伸ばす。失いたくなかった。ただ、それだけだった。


 湊の伸ばした手は、大きな掌に包まれた。




「寝てろ。医者を呼んでおいたから」

「……侑」




 声は掠れていた。喉がひゅうひゅうと鳴って、関節がぎしぎしと軋む。体は火照っているのに、寒くて堪らない。


 侑は、少しだけ笑ったようだった。




「お前の風邪が治るまで、仕事は休む」

「……良いの?」




 侑は笑っていた。

 休んでいることで、エンジェル・リードの業績は悪化するかも知れない。社会的立場を失って、立て直すことが難しくなるかも知れない。




「ボスがいなきゃ、仕事になんねぇよ」




 そうか、そうなのか。

 侑が決めたのなら、それで良かった。

 山道でも獣道でも、茨の道だったとしても、侑がいるなら大丈夫。君が笑っていてくれるなら、何度でも再起出来る。


 銃器を握るその指先が、まるで星を辿るみたいに前髪を払った。デコピンでもされるかと思った。




「……俺は」




 ぽつりと、侑が言った。

 乾燥した冷たい掌が、湊の手を握っていた。




「俺は、他人をどうやって大切にしたら良いのか分からねぇ」




 それはまるで、弱音のようだった。

 錆び付いた思考回路では、ろくな答えを返せない。だけど、侑は返答を求めていないみたいだった。




「ガキの頃、俺は新を置いて行った。遠去けることしか、出来なかった」




 侑と新の過去を、知っている。

 崩壊した家庭で、彼等は激しい暴力の中で生きていた。侑は歳の離れた弟を守る為に必死だった。


 暴力を振るって来た父親が強盗に殺され、彼等は施設に送られた。侑は、幼少期に受けた人体実験について探る為、弟を守る為に、新を施設に置いて裏社会へ飛び込んだ。侑は11歳、新は6歳の頃のことだった。


 侑が国家公認の殺し屋となり、ペリドットと呼ばれるようになると、新は兄の後を追って裏社会までやって来た。追い縋る新を、侑は突き放すことしか出来なかった。




「背中を向けた先で、新がどんな顔をしていたのか知らねぇ。俺は振り返らなかったし、立ち止まらなかった。そうすることでしか、守れないと思ってた」




 その頃のことを、湊は知っている。

 追い縋る新を無視して、侑は夜の闇に消えた。そのこと自体に怒りも嫌悪も感じなかった。同じ立場だったら同じことをしたかも知れない。だから、当時の湊も、彼等の間を取り持たなかった。彼等の問題は、彼等だけのものだと思ったから。




「お前は弟が追い掛けて来た時に、どうしたんだ?」




 記憶の抽斗ひきだしを引っ張り開ける。

 あれは、確か深い新緑の春だった。両親が死んだ爆弾テロの後、航を助ける為に日本へ密航させた。その時に、航に訊いたのだ。




「航に選ばせた。過去も名前も捨てて平穏に生きるか、俺と一緒に地獄に落ちるか」

「最低な選択肢だな」




 侑が笑った。

 そうだよ。俺は最低な選択をさせた。俺がもっと強ければ、別の道も提示してやれた。でも、それしか無かったんだ。




「航は、俺の地獄をマシにしてくれるって言った」

「揃って地獄行きかよ」

「地獄にも花が咲くことを知ってるから」




 知ってるんだ。

 どんなに暗くても、星は輝いている。

 例えば手を繋いだなら、いつかは離す日が来る。それでも、俺達は懲りもせずに手を伸ばす。この手がいつか何かを掴むかも知れない。何かを守れるかも知れない。そう信じているから。




「何が最善だったのかなんて、分からない。だけど、後悔しながら生きるには、人生は長過ぎるよ」

「ガキの癖に」




 侑が笑ったので、湊も釣られて笑った。

 目を覚ましたら、何もかも失ってしまっているかも知れない。そんな空恐ろしい幻影が、目の前の現実に塗り替えられる。湊にとって、それは奇跡みたいなものだった。


 痰の絡む感覚がして、湊は肘で口元を覆った。

 インフルエンザじゃないと良いな。

 侑が言ったので、湊も肯定した。




「俺は頑丈なんだ。簡単に死んだりしない。でも、時々なら守られてあげるよ」

「なんだそりゃ」




 侑が不思議そうに言ったので、湊は笑った。


 新が死んでから、侑と交わした約束を今も覚えている。

 契約じゃない。打算でも、忖度でも、上下関係でもないんだ。




「約束しただろ? 対等な立場で、友達になろうって」




 君が思い悩むその時には必ず側にいて、俺が手を引いて歩く。何度でも、君を夜明けに連れて行くよ。


 侑がどんな顔で、何と答えたのかは分からなかった。寄せては返す波のように高熱と睡魔が襲って来て、湊の意識は雪のような真っ白な世界に染まった。


 眠りに落ちる寸前、湊は侑の笑い顔を見た気がした。

 それは、過去に置いて来てしまった大切な人の笑顔によく似ていた。















 4.殺し屋たちの奇想曲

 ⑻掌の約束












 インフルエンザは陰性だった。

 単なる疲労が原因らしい。馬鹿みたいだ。


 闇医者の世話になったので、想定外の大きな出費になってしまった。エンジェル・リードは基本的に赤字の金食い虫なのだ。休んでいる暇は無い。湊はベッドにパソコンを引っ張り込んで、株価の変動を具に観察していた。


 解熱剤くらいは常備しているので、高熱が出そうな時はそれを呑んだ。後は栄養のある食事が必要だった。侑は料理をしない人だった。重い体を引き摺ってキッチンに立とうとすると、侑が嫌そうに応援を呼んだ。




「熱出してたんだって? 大丈夫か?」




 当面の住居としているマンションの一室に、まるでパレードみたいな賑やかさでムラトがやって来た。アーティラは白いビニール袋を下げていて、中から長葱が覗いている。


 侑が呼んだ応援は、どうやらこの二人だったらしい。

 アーティラは兎も角、ムラトが何の戦力になれるのかさっぱり分からないが、心配してくれている相手を無下にすることは出来ない。


 キッチンから香ばしい独特な匂いがした。

 彼等の国の病人食がどんなものなのか想像も付かないが、匂いは完全にカレーである。匂いを嗅いだ瞬間に、侑は忍者みたいに姿を消していた。湊はリビングテーブルにパソコンを置いて、為替レートを眺めていた。


 横から覗き込んで来たムラトが、子供みたいに画面を指差す。




「この会社の株は買え」

「なんで」




 ムラトが指したのは、国内の螺子工場だった。

 売れる見通しは立っていない。けれど、ムラトが自信満々に言うので、寂しくなった資金を投資してやった。赤字になったら、ラフィティ家に損害賠償を求めることにする。


 そうしている内にアーティラが食事を用意してくれた。

 白い皿に乗せられていたのは、予想通り、カレーだった。




「病人にもカレーを出すの?」

「出すぜ!」




 カレーは四人前あった。アーティラと侑は折が悪いようだったが、彼女も生真面目な性格である。湊は侑の分のカレー皿を引き寄せた。




「侑の分は俺が食べる」

「おかわりならあるわよ?」

「違うよ。侑はカレーが嫌いなんだ」




 実は、侑も苦手な食べ物がある。

 食中毒になったことのある牡蠣と、何故か知らないがカレーが駄目なのだ。湊はそれ程、食べ物に頓着が無いので敢えて食卓に出したことは無い。




「食べ物の好き嫌いが多い人は、人間の好き嫌いも細かいわよ」

「俺だって苦手な食べ物はあるよ」




 アーティラ手作りのカレーは、文句無しに美味かった。口に入れると香辛料の香りが漂って、辛味も酸味も程良く、本場の料理と言う印象を受けた。レシピも見ずに短時間で作り上げたアーティラは、やはり料理が上手いのだろう。


 ムラトと二人で美味い美味いと繰り返していたら、アーティラは照れ隠しみたいにベランダへ出てしまった。可愛い子だな、と湊は笑った。




「この国には公認の殺し屋がいたんだな」




 そう言って、ムラトは大口でカレーを頬張った。

 湊は口の中にあったカレーを嚥下し、頷いた。




「俺も詳しいことは知らないけど、所謂、工作員とかスパイみたいな立ち位置だったみたいだよ」

「でも、ファンが出来るくらいには名が売れた暗殺者だったんだろ?」

「ムラトも見ただろ? 売れない理由が無い」




 湊が言った時、株価が大きく動いた。ムラトの指示した螺子工場の株価がぐんぐん上がって、まるで何かの冗談みたいな金額に跳ね上がった。


 食事を中断して事情を探ってみたら、どうやら先日沈んだ遊覧船は事故として片付けられ、その中で螺子やボルトの製品不良が見付かったらしい。大手の造船会社が昔ながらの信頼の置ける螺子工場へ大口の発注を掛け、業績が嘘みたいに跳ね上がったのだ。


 湊が株を買った時に比べると、三倍近い金額になっている。数分遅れていたら、この収入は得られなかっただろう。




「内部事情を知っていたの?」

「まさか! だって日本の会社だろ?」




 ムラトが笑った。嘘を吐いている様子は無い。彼は本当に勘だけで投資先を見付け、大金を確保したらしい。ムラトは神の寵愛を受けた天運の持ち主である。人間とは不公平に出来ている。


 自分が一日中パソコンと睨めっこしているより、定期的にムラトに籤引させた方が儲かりそうだ。

 湊がそんなことを考えていると、ムラトが思い出したみたいに言った。




「そういえば、あの翔太って奴は何者なの?」

「翔太は俺の友達だよ」

「何してる奴なんだ?」

「見習いの殺し屋だよ」

「将来有望だな!」




 湊は自分の皿を空にして、侑に装われたカレーに手を伸ばした。香辛料のせいか汗が止まらない。病人に出すとは思えないスパイシーなカレーだった。




「湊は殺し屋の知り合いが多いんだな」

「多くないよ」




 湊の知り合いと呼べる現役の殺し屋は、翔太とハヤブサくらいのものだ。侑は既に引退している。

 ムラトは太陽のように明るく笑っていて、直視すると目が焼けそうだった。




「俺はあんまり友達がいなかったから、お前が羨ましいぜ」




 湊はスプーンを持つ手を止めた。奥歯に肉が引っ掛かったのだ。舌を使って取ろうと苦心しながら、頷いた。


 ムラトの環境は特殊だ。身分制度に一夫多妻制。大富豪の後継者であるムラトの周りに集まるのは、おこぼれ目当てのハイエナくらいだろう。


 その気持ちは、湊にも少し分かる。エンジェル・リードを立ち上げてから、資金を狙った詐欺師が何処からか湧いて来るのだ。表面上は友好的に接しつつ、飼い慣らす。そういう上部だけの人間関係が沢山ある。


 でも、本当に心を許せる友達もいる。

 母国の友達や、翔太。一緒に遊ぶ相手と言う意味なら、双子の弟の航だっている。仕事のことは侑に相談出来るし――、と考えて、自分が如何に恵まれているかを痛感した。




「俺とムラトは、友達だろ」




 奥歯に挟まった肉が取れたので、湊はカレーにスプーンを差し込んだ。彼の国には、友達になるのに儀式的なものがあるだろうか。




「これは取引じゃないから、契約書も要らない。俺は友達が困っていたら助けるし、相談にも乗る。特に見返りが無くてもね」

「それは有難い存在だな」

「そうだよ。友達は有難くて、心強いんだ」




 湊とてそれ程、友達が多い訳じゃない。他人の嘘が見抜ける湊にとって、友達と言う曖昧なカテゴリーは面倒で煩わしかった。裏切られる覚悟をしながら関係性を作るのは、億劫だ。だけど、そんなことを考えていたら、きっと本当の友達なんて出来ないと思った。


 裏切られても、信じて良かったと思える友達が欲しかった。

 きっと、ムラトにだって分かる筈だ。


 アーティラが侮蔑するような、憐むような目を向けて来る。




「貴方、もしかして被虐趣味でもあるの?」

「無いよ。なんでだよ」

「進んで貧乏籤を引くから」




 自分の性癖はフラットだと思う。

 いや、どうかな。湊は答えてから、首を捻った。特定の何かに対して執着したことが無かった。男友達と下衆な猥談に興じることはあっても、周囲も憚らずに興奮したことは無い。




「俺はね、逆境には燃えて来るんだ。言い訳ばかりの人生なんて死んでも御免だ」

「いかれてるだけだったのね」

「時代に流されるだけで満足する他人の方が、よっぽどいかれてると思うけどね。そうだろ、ムラト?」




 ムラトは晴々と笑って、頷いた。

 主人が肯定する以上、従者であるアーティラも反論出来ないだろう。他人をサンドバッグにして悦ぶ趣味は無いので、湊はそれ以上は何も言わなかった。


 携帯電話が鳴る。侑からだった。

 あと三十分くらい経ったら帰るから、カレーを片付けておけ。

 尊大な物言いが、心を許してくれている証だと分かる。湊は了承の返事をして、カレーのおかわりを要求した。

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