⑼地獄の釜

 日曜の夜、客が来た。

 事前のアポイントも無く、まるで迎え入れられるのが当然みたいな尊大な態度で、勝手に扉を押し開けて事務所に乗り込んだ。


 湊は事務室でメール整理に追われていた。休んでいた期間の遅れを取り返すつもりで打ち込んでいたので、その男の声が聞こえた時には溜息が漏れた。


 キーボードを打つ手を止め、湊は眉を顰めた。

 鍵は閉めている筈だった。来客の予定は無い。

 湊は席を立ち、応接室に向かった。


 侑は不在で、事務所は湊一人きりだった。


 男は、ブランドのスーツに肥えた体を包み込み、顔から吹き出す脂汗をハンカチで拭っている。真冬だと言うのに、マラソンでもして来たのだろうか。


 男は促してもいないのに、王様みたいにソファに座った。其処は侑の定位置だった。苛立ちと嫌悪感が込み上げて来て、奥歯を噛み締めて如何にか堪える。




「いらっしゃる予定はありませんでしたよね?」




 念の為に訊ねると、男はにかにかと笑った。

 酒精が漂っている。餅みたいに垂れ下がった頬、不健康そうな厚い唇から黄ばんだ歯列が見える。




「寂しがっているかと思ってね」




 はあ?

 湊は後ろ手に扉を閉じながら、男を睨んだ。

 この男はエンジェル・リードのおこぼれを狙うハイエナの一人で、目利きは良いが、酒癖が悪く、湊を少女だと思っているのか執拗に絡んで来るのだ。


 偽物を高額で売り付けられそうになったこともあるが、彼のコレクションは素晴らしかった。つまり、エンジェル・リードにとっては扱い難い上客である。


 無下にすることも出来ないが、招いてもいない客を持て成すつもりも無い。湊は扉に寄り掛かり、男を見遣った。




「暫く休業していただろう? 力になってあげようかと思ったんだが」

「有難い申し出ですが、見返りは何ですか?」




 確かに、休業のせいで業績は傾いている。しかし、エンジェル・リードは営利目的の企業ではないし、基本的には赤字である。

 それでも、こんな大嫌いな男を追い返せなかったのは、彼が芸術界の権力者の一人だったからだ。獅子身中の虫を殺すのは容易い。だが、今の自分に必要なのはそれを飼い慣らす技術だ。




「僕は君のことをとても気に入っているからね、今晩どうだい? お金は弾むよ」




 湊は舌を打った。

 時々、こういう奴等がいる。エンジェル・リードを質に取って、を強要するゴミみたいな人間が。他人の性的嗜好にとやかく言うつもりは無いが、はっきり言って気持ち悪いのだ。


 こんな奴の為に頭を下げたくないし、自分を売るつもりも無い。いつも躱して来たけれど、侑がいない時を狙って来たらしい。




「お断りします。エンジェル・リードはアンタの餌場じゃない」




 豚箱に帰れ、くらいは言ってやりたかったが、後のことを考えると強気にも出られない。男は冬眠明けの熊みたいにのっそりと立ち上がると、禿げ上がった頭を撫でた。


 男は、ゆっくりと湊に近付いて来る。扉を背にした湊には、逃げ場が無かった。この扉の向こうには機密データが沢山ある。それを覗かれるのは不味い。


 湊が迷ったその瞬間、男の手が伸びた。

 芋虫みたいな太い指に、黒い毛がぼうぼうと生えている。その手は湊の胸倉を掴むと、力任せに扉に打ち付けた。




「こっちが下手に出てりゃ良い気になりやがって」




 男の手が、湊のセーターを掴んでいた。

 武器の類は携帯していない。男は湊を床に縫い付けると、無遠慮にズボンのベルトに手を伸ばす。ざわりと肌一面が粟立って、湊は叫んだ。




「止めろ!」

「本当はこうされたかったんだろ? お高く止まった態度が、前から気に食わなかったんだ」

「ふざけんな!!」




 我武者羅に手を伸ばした時、指先が何かを掴んだ。それが鉢植えだと気付いたのは、男の顔面に向けて投げ付けた後だった。白いシクラメンと赤玉土が飛び散って、男が声を上げた。


 素焼きの鉢植の割れる音が、まるで悲鳴のように響き渡った。湊は床に肘を突いて、事務室の扉へ手を伸ばした。その瞬間、男の指が足首を掴んで引き倒す。




「調子に乗るな、このクソガキが!!」




 礫のような拳が勢い良く振り下ろされ、視界が一瞬白く染まった。頬骨が軋んで、口の中が血でいっぱいになる。馬乗りになった男が何かを喚きながら拳を振るった。


 焼けるような熱と痛みが迸る。口の端が切れて血が滲み、肉を打つ乾いた音が鳴り響く。男の掌が首を押さえ、気道が圧迫されて呼吸が出来ない。湊は必死に爪を立てたが、びくともしなかった。


 跳ね除けられないのは、社会的立場の為ではない。病み上がりで体力が戻っていないのだ。意識が朦朧として、思考が纏まらない。嗜虐的に笑う男の首筋に、蛇のような刺青が見えた。




「この世界にゃ、お前みたいなガキが大好きなド変態が山程いるぜ。綺麗に撮れたら、ペリドットにも送ってやるからな」




 かちゃかちゃとベルトの金具が鳴る。湊は必死に抵抗した。生暖かい男の指が腹筋を撫で、生理的嫌悪感に鳥肌が立つ。


 室内灯の白々しい光が頭の上から降り注ぐ。男の太い指が手首を押さえる。セーターが捲り上げられて、暖房の風が背中を撫でて行く。


 粘着質な嘲笑が聞こえる。

 湊は拳を握り、笑ってやった。




「You’re no match for my brains」




 男の顔が引き攣り、青筋が走る。

 その口が怒声を、罵声を吐き出す。――その瞬間、男の体が勢い良く吹っ飛んだ。


 ソファと植木鉢が引っ繰り返る物凄い音がして、男は制御不能のトロッコみたいに壁に衝突した。湊はゆっくりと起き上がり、片手に衣服を整える。男は壁に強打したようだが、意識はあるらしかった。何が起きたのか全く分かっていないみたいに目を白黒させて、だらしなく口を開けていた。


 白々しい室内灯の下、美しい金髪が輝いている。




「遅かったか?」




 背筋をすっと伸ばして、侑が言った。

 湊は空咳をして、首を振った。




「充分さ」




 エメラルドの瞳に獰猛な光が宿っている。

 湊は立ち上がると、瞠目する男を見下ろした。




「さあ、清算の時間だ。――愉しませてくれよ?」




 湊が微笑むと、男の顔が恐怖に引き攣った。













 4.殺し屋たちの奇想曲

 ⑼地獄の釜













 スネークとは所謂、殺し屋のギルドである。

 連絡経路や役割分担等が厳密に決まっている訳ではなく、それぞれが思うまま獲物を狩りに行く。


 新しい仕事の在り方と考えると、確かにその通りなのかも知れない。集団による仕事の効率は上がるだろうし、実力差は或る程度、均整出来るだろう。だが、彼等には明確ながある。




「君達は、本当に馬鹿だね」




 ゴム手袋を嵌めながら、湊は言った。

 目の前には、四肢を拘束した男が転がっていた。今にも噛み付きそうな目付きで、けれど怯えた犬のように縮こまって、此方を睨んでいる。


 舌を噛み切られるのは面倒なので、猿轡を噛ませていた。滴る唾液と荒い呼吸が見ていて不快だった。床にはブルーシートを敷き詰めているけれど、血液は落とし難いし、臭う。


 ああ、嫌だな。




「君達はずっと狩りをしているつもりだったんだよね。だから、自分が狩られる立場になったことに気付かなかった」




 子供に言い聞かせるように、湊は殊更優しく言った。


 彼等は見誤ったのだ。

 スネークと言う集団の人数に胡座を掻き、エンジェル・リードとの力量差を見抜けなかった。


 湊が寝込んでいる間に、大部分の構成員は侑が始末している。だが、窮鼠猫を噛むと言う。この男が事務所にやって来たのは苦し紛れの反撃で、湊の用意した筋書きだった。


 追い込み漁みたいなものだった。

 残党を始末する為に、ハヤブサや翔太、ラフィティ家のコネクションも使った。三下の使いそうな海外逃亡の経路も潰した。後は、逃げ場を無くした雑魚を殲滅するだけだった。侑が此処にいると言うことが、任務完了の証明だ。


 訊きたいことは無い。知りたいことはもう知っている。

 殴られたせいで口の中が切れていた。喋ると傷が痛むのだ。湊はビニール製の裾の長いエプロンを装着して、棚からゴーグルを取り出した。


 工具箱を開けると、錆びた鋏が出て来た。指を切り落とすのは難儀だが、下衆な男には丁度良いかも知れない。


 鋏を持って振り返ると、男が喉を震わせた。

 湊は別に鋏で指を切り落としても、ペンチで歯を抜いても良かった。侑が嫌そうな顔で言った。




「下品だな」

「今更?」




 湊は鼻で笑った。

 殺されかけて、事務所を襲撃されて、エンジェル・リードを人質に脅されて、マナーだの流儀だの従うつもりは無い。

 錆びた鋏は開くのも困難だった。切れ味は最高に悪そうだ。




「俺は正義の味方じゃない。正々堂々、公明正大なんて御免だね。そうでしょう、Mr.スネーク?」




 問い掛けるが、返答は求めていなかった。

 話し合いが全てを解決すると信じている阿呆がいるが、それは同じ土俵にいる場合に限る。生かす価値も理由も無い相手にビジネスをする程、呑気に暮らしてはいない。


 この世は食うか、食われるか。

 食われたくないのならば、相手を食うしかないのだ。


 一連の騒動を引き起こしたのは、目の前にいる無様な男である。侑はエンジェル・リードで窓口係をしているが、裏社会では名の通った殺し屋だった。

 侑に一方的な恨みを募らせた男が美術界に通じていて、エンジェル・リードと接触し、湊を狙った。ただそれだけの話だ。




「あんまり散らかすと、片付けが面倒だぞ」

「じゃあ、薬品で溶かすことにする」

「……お前が天使なのは、寝ている時だけだな」




 侑が苦く笑った。


 湊としては、どちらでも良かった。

 必要なのは、事実だ。エンジェル・リードに牙を剥いた奴等が制裁を受けたと言う揺るぎない事実が欲しい。もう二度と同じような真似をする馬鹿が現れないように、なるべく派手に権威を示す必要がある。


 泥沼って、こういうことを言うんだろうな。

 湊は苦笑しつつ、鋏を工具箱に入れた。その代わり、磨き込まれたペンチの下から鉄製の万力を見付けた。コの字をした工具で、螺子を締めることで物を挟むことが出来る。


 螺子の向きを付け替えると、締める程に二つの口金の間隔が広がるようになった。丁度良かった。湊は男の猿轡を外して、口に噛ませるようにして万力で固定した。


 口が閉められないせいで、男が耳障りに叫ぶ。何を言っているのか完全に聞き取ることは難しいが、命乞いをしていることだけは分かった。




「助けてくれ!!」

「変なことを言うね。アンタは今まで、助けてと言った人をどうした? 助けたことなんて無かっただろ」




 だから、俺もそうする。

 螺子を締めると、男の口が大きく開かれた。歯が砕けるのと、顎の骨が外れるのはどちらが早いだろう。




「この国には、くちなわの口裂けと言う諺がある。欲をかいて自分よりも大きなものを食べようとすると、口が裂けてしまうんだよ」




 男があんまり暴れるので、湊は拘束した胴体に馬乗りになった。顎の下に固定した螺子を締めると、口が縦に開かれた。口角が裂けて血が滲み、男が狂ったように悲鳴を上げる。滅茶苦茶に暴れるので、両手両足をナイフで切り落としてやろうかと思った。




「人間の体は外側は防御出来るけど、内側は守れないんだよね。例えば、口内。アンタが馬鹿みたいに開けているこの口に、硫酸を流し込むとする。液体はアンタの口内から気道を焼いて、空気の通り道を塞いで行く。それがどれだけ苦しいか是非、実況してくれよ」

「……許ひてくれぇ……!」

「口の次は、目だ。眼球は殆どが水分だから、それが蒸発する時の痛みは想像を絶するだろう。痛みが強過ぎると気絶することは出来ないらしいね。アンタは、どうかな」




 残る死体は凄惨な方が良い。殺害するなら過剰に、確実に。その死体を見た人間が恐怖し、自分を狙おうなんて考えられないくらい残酷に、報復の余地が生まれないよう草の根一本残さずに蹂躙する。




「アンタ達は、噛み付く前に気付くべきだった。それが本当に餌なのか、それとも天敵だったのか」




 螺子が硬くなって来たので、ペンチを使う。顎が外れても歯が折れても構わないが、事務所で失禁するのは嫌だな。顎の関節が悲鳴を上げるのが手応えで分かる。湊が最後の一押しをしようとした時、侑が言った。




「もう充分だ」




 湊は手を止めた。

 万力が歯を押し込んで、歯列が歪んで、歯茎から出血していた。あと少しで、獲物を丸呑みする瞬間の蛇みたいになっていたのにな。


 見下ろすと、男は意識を失くしていた。なんてか細い神経だろう。想像力が逞しいのか。いずれにせよ、この男の命運はもう湊の手を離れている。


 湊はペンチを工具箱に戻して、蓋を閉じた。ゴーグルを上げると暖房の風で眼球が乾くような気がした。




「俺は、この場で殺しても構わないと考えている。後が楽だからね。でも、負け犬にはそれなりの使い道がある」




 生かして逃せば、復讐者になる可能性がある。更生なんて望める人間じゃない。それは後々、厄介な障害になる。


 だが、同時にスピーカーの役割を果たしてくれるかも知れない。こいつが生きていることで、エンジェル・リードの名が売れる。




「俺は無駄遣いが嫌いなんだ」

「……物は言いようだな」




 侑は深く溜息を吐いて、その場に座り込んだ。

 流石に疲れたらしい。労ってやりたい気持ちはあるが、今はまだその時じゃない。




「好きな方を選んで良いよ」




 足元に血の沼が広がっていることが分かる。

 家族を失くし、大切な人を奪われ、自分の手が血で汚れて、後戻り出来ない泥濘に沈んで行く。手を伸ばす先も、助けを求める相手もいない。――だけど、守りたいものはある。




「……じゃあ、こうしよう」




 侑は立ち上がって、手を伸ばした。

 その手には、黒く輝く鉄の塊が握られていた。


 ぱん、と乾いた音がした。

 血の花が咲いて、男は呻き声一つ漏らさずに死んだ。

 それは、湊の筋書きには無かった。




「これで、共犯だな」




 なんだそりゃ。

 湊が言うと、侑があくどい顔で笑った。




「地獄巡りも、お前となら楽しそうだ」

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