⑽山札のエース

 近道をする、と湊が言った。

 そうして辿り着いたのは潮風の吹き付ける甲板で、嵐の気配は無く、なだらかな水平線がパノラマに広がっていた。相変わらず人の姿は無いのに、何処からか殺気と硝煙の臭いがする。


 突き抜けるような青空をカモメが横切って行く。侑は甲板を横切ろうとする湊を引き止めて、代わりに先陣を切った。途端、頭上から銃弾の雨が降り注ぎ、甲板に幾つもの穴が開いて火薬の臭いが漂った。


 見上げた先に銃を構えた男達がいた。侑は横っ飛びにコンテナの裏に隠れ、敵を始末して行った。火花が散り、硝煙が立ち昇る。敵が沈黙したタイミングで湊に合図をした。




「侑って泳げる?」




 唐突だな。

 どういう質問だ、それは。




「真冬の海で遠泳しろってか? 冗談きついぜ」

「そうだよねぇ」




 湊は曖昧に微笑んで、それ以上は何も言わなかった。


 甲板を抜け、客室に続く回廊を走った。階段にも敵はいたが、雑魚だった。何らかの訓練を受けた玄人だと言うことは分かるが、銃器の扱いに慣れていない。


 ムラトとアーティラのいる客室を目指し、二人で疾走した。

 目的階に到達した時、ムラトの声が聞こえた。日本語でも、英語でもない。恐らく、彼の母国の言葉だった。


 扉の前に銃を構えた男が立っていた。

 侑は湊をその場に残し、床を蹴った。銃を構える男の側頭部を靴底で蹴り飛ばし、倒れた所を二度撃ってやった。生温かい返り血が頬に飛び散った。


 爆発音が轟いたのは、その時だった。

 まるで床から突き上げるような凄まじい地響きがして、侑は不覚にも体勢を崩した。


 地下から真っ赤な炎が噴き出して、辺り一面を包み込む。一瞬だった。たった一瞬で、船は炎の中に包まれた。

 激しい炎と熱が噴き上げ、窓硝子が飛び散って行く。バキバキと船体が軋み、誰かの悲鳴が聞こえる。船内は夕焼けのように紅く染まり、陽炎でぐにゃぐにゃと歪んだ。




「アーティラ!」




 ムラトの悲鳴みたいな声がした。侑は湊を置いて走り出した。客室に乗り込んだその瞬間、気道を焼き尽くす猛火の中にいるにも関わらず、まるで冷凍庫に押し込まれたみたいな寒気に襲われた。


 部屋の中には、ムラトとアーティラがいた。

 アーティラは撃たれたのか、血塗れの手で腹部を押さえている。それから、もう一人。鮮やかな金髪は川のように流れ、ヘーゼルの瞳は爛々と輝いている。一見すると細身の美女だが、微かに弧を描くその口元には、形容し難い狂気が滲み出ていた。


 藍村晴子。いや、それは偽名だった。

 ムラトやアーティラには、蛍と名乗った。

 けれど、その正体は、武器商人と呼ばれるパスファインダー。ムラトとアーティラを騙し、謀り、利益を貪るだけの悪魔である。


 榛色の瞳が侑を一瞥し、冷たく笑った。




「動けば殺す」




 その声は、まるで永久凍土の下にいたかのように乾いていた。パスファインダー、蛍の手には黒光りする鉄の塊が握られている。侑はマカロフを構えたまま、蛍を睨んだ。


 息も吐けない膠着状態だった。

 ムラトがいる以上、アーティラは動けない。船の何処かで爆発が起きている。このままじゃ全員海の藻屑になるだろう。




「お前の目的は何なんだ……?」




 動揺と不安を押し殺したような沈んだ声で、ムラトが訴える。アーティラの腹部からは止め処なく血が溢れ、上等な絨毯を染めて行く。蛍は引き金に指を掛けたまま、口角を釣り上げた。




「お前が知るべきことは無い。話すことも無い」




 ヘーゼルの瞳はムラトを見詰めながら、銃口はアーティラから外されない。警戒と殺気が、粉塵の中で張り詰める。

 その目で分かる。こいつは其処等の破落戸や悪党とは違う。己の快感のみを生きる指標にしたクソ野郎だ。


 引き金が絞られる、刹那。


 銃声と共に爆発音が鳴り響いて、部屋の中は猛烈な爆風と熱波に襲われた。船体が傾いて、部屋に置かれた調度品の数々が落下し、瓦礫と粉塵が頭の上に降り注ぐ。侑は咄嗟に身を伏せた。




「アーティラ!!」




 壁が吹き飛ばされ、視界一杯に海が広がる。黒煙が空を覆い、まるで嵐の前触れのようだった。崩れ掛けた船の端で、ムラトが声を上げる。アーティラの姿が見えない。まさか、吹き飛ばされたのか?


 蛍の銃口はムラトに狙いを定めている。

 その時、澄んだボーイソプラノが響き渡った。




「侑!!」




 蛍の瞳が愉悦に歪む。嗜虐欲に染まった悍しい視線が獲物を求めて揺れ動く。戦慄が背中を駆け抜けて、侑は炎も構わず蛍に掴み掛かった。


 長い金糸の髪が指先を擦り抜け、振り向いた蛍の銃口が火を噴く。銃弾は侑の頬を掠め、炎の中に消えて行く。銃のスライドを掴み、侑は膝を振り上げた。蛍の腕をへし折ってやるつもりだった。


 蛍の袖口から仕込みナイフが飛び出して、顎先を掠った。

 怖気付いた奴から死ぬ。侑はそのまま一歩を踏み出して、銃床でナイフを払った。すぐ後ろを湊が弾丸のように駆け抜けるのが見えた。


 瓦解する船の淵で、ムラトが懸命にアーティラを掴んでいる。今にも離れそうな腕を湊が引っ掴み、全身を使って引き上げる。侑は蛍を牽制しながら、アーティラが引き上げられるのを目の端で捉えた。


 アーティラの喘鳴とムラトの狼狽が遠くに聞こえる。

 一瞬の油断、気の緩み。侑の意識が逸れたその瞬間、蛍が発砲した。




「うわっ!」




 湊が短く悲鳴を上げた。

 銃弾が足元を噴き飛ばし、湊がぐらりと体勢を崩す。海の向こうに放り出される様が、コマ送りに見えた。


 侑は地面を蹴っていた。

 その行為に論理的思考は存在しなかった。

 海に向けて伸ばされた腕を、湊の小さな掌が掴む。ほんの一瞬がまるで永遠になったような、不思議な感覚だった。


 カチン、と撃鉄が鳴った。

 蛍の銃は弾切れらしい。同時に天井が崩れ落ちて、蛍の姿は炎の中に消えてしまった。


 下は炎の海だった。こんな所に落ちたら、無事では済まない。侑は片手に湊を掴んだまま、奥歯を噛み締めた。

 こんな所で死なせるつもりは無い。頬に煤を付けた湊が笑っている。侑は腕に力を込め、一気に引っ張り上げた。


 辺りは酷い有様だった。

 炎が迫り、逃げ場も無い。けれど、まるでムラトの周囲だけが聖域のように守られている。湊はアーティラの腹部に応急処置を施すと、力強く笑った。




「どうやって逃げる?」




 侑は溜息を吐いた。

 疲労感はそれ程でもない。銃弾も残っている。だが、迫る火の手から逃れる方法が無い。このまま黒焦げになるか、海の藻屑になるか。どちらがマシか。


 けれど、此処で諦めないのが湊と言う男なので。


 侑が見遣ると、湊は白い歯を見せて笑った。




「非常口までのルートを取れる。俺が先頭を歩くから、侑は殿しんがりを頼むよ」




 ニューヨーカーの癖に、よく殿なんて言葉を知っていたものだ。何処にルートがあるのか全く分からないが、湊が出来ると言うのなら信じる。

 しかし、アーティラは重傷だ。侑が手を伸ばそうとすると、ムラトが言った。




「アーティラ、行くぞ」

「ムラト様……」

「こんな所で死んで堪るか」




 青い瞳に炎が映る。それはまるで、水平線の彼方に沈み行く夕陽を見ているかのようだった。

 湊は吹き飛ばされた壁の下を覗き込み、猫みたいに身軽に飛び降りた。侑がぎょっとして身を乗り出すと、比較的火の手が及んでいない階下で湊が手を振っていた。


 説明してから飛び降りて欲しいものだ。

 侑は溜息を吐いた。




「手を貸してやろうか?」




 侑が訊ねると、ムラトは首を振った。

 彼等の母国の言葉で合図を出し、ムラトが飛び降りる。侑が追い掛けると、既に湊は非常口に向かっていた。


 小さな背中である。だが、彼の歩いて行く道がまるで星空のように光って見える。侑は導かれるようにして追い掛けた。


 炎に炙られたせいで、扉全体が高温になっているようだった。侑が扉を蹴り飛ばすと、湿気を帯びた潮風が正面から吹き抜けた。


 外だ。海が見える。

 砂漠にオアシスを見付けたみたいにムラトが声を上げる。


 湊は壁に掛けられた救命胴衣を取って、ムラトとアーティラに投げ渡した。




「俺は自力で泳げるから、それは君達にあげる」

「いいのか?」

「サーフィンが得意だって言ったろ?」




 湊はそう笑って、何の躊躇も無く海に飛び込んでしまった。

 流石に遠泳の経験は無いが、湊が行ってしまった以上、この場に留まる理由も無かった。中々踏み出せないムラトの背中を押してやれば、アーティラと一緒に呆気無く落ちて行った。


 水中は割合、明るかった。巨大なスクリューが轟々と動き、地上の炎が海を赤く染め上げる。磨り硝子のような視界の中で、何かがきらきらと光っていた。


 ムラトとアーティラが救命胴衣を着けて水中をもがいている。その首元を引っ掴んだ湊が人魚みたいに水面を目指して泳いで行くのが見える。


 四人が水面に顔を出した時、燃え盛る遊覧船が遠くに見えた。消防艇が鯨のように水を吐き出し、海上保安船や自衛隊のヘリが集まって来ている。


 取り敢えず、窮地は脱したらしい。

 波に揉まれながら、侑はほっと息を逃した。

 ムラトとアーティラは燃え落ちる遊覧船を呆然と眺めていた。数刻遅れていたら、自分達は船の中で丸焼きになって、海の藻屑と消えていたのだろう。




「木片に救われる気分はどうだい?」




 水面から顔を出して、湊が笑った。

 らっこみたいだな、と思うと何だか可笑しかった。ムラトは波に揺られながら、晴々と笑っていた。




「そうだな。悪くない気分だぜ」




 熱砂の宝玉と呼ばれた美しい青色が、空と海と炎を映して揺れる。アーティラが呆れたように息を吐くことすら愉快だった。












 3.熱砂の宝玉

 ⑽山札のエース











「また負けた!」




 頭を抱えた湊が、この世の不幸を嘆くみたいに叫んだ。

 テーブルを挟んだ応接用のソファでは、ムラトが青い瞳を無邪気に輝かせている。


 昼下がりの事務所は、絵に描いたような平和そのものだった。


 遊覧船の沈没から無事に逃げ果せた侑達は、一先ず事務所へ避難した。アーティラは意識を朦朧としていたし、警察がうようよする界隈を出歩くのは無謀だった。

 事務所に到着すると、ムラトとアーティラは糸が切れたように意識を失くし、仕方無くその場に寝かせてやった。


 テレビの情報では、遊覧船は整備不良の事故で、死傷者はいなかったと報道されている。念の為、警察関係者にも訊いてみたが、箝口令が敷かれており、凡ゆる情報が真偽不明のまま闇に葬られた。この国では間々ある情報操作である。


 パスファインダーの行方は杳として知れない。沈み行く船から逃げ果せたのか、海の藻屑と消えたのかも分からない。そして、自分達には、彼女の目的が何だったのか確かめる術も無かった。


 ムラトとアーティラは一晩たっぷりと眠って、起きた時には怪我もトラブルも無かったみたいにピンピンしていた。

 勇敢な者は早死にし、臆病者が生き残る。けれど、氷河期を迎えても生き残るのはゴキブリ並みに図太い人間なのかも知れない。




「What’s happening here?」




 湊が捲し立てる。

 トランプの山を手元に築き、ムラトは王様のように悠然と構えている。


 ジョーカーを除いた52枚のカードを裏側にして、二つに分ける。それぞれの山札の一番上から同時に場へ出し、強い方が場にあるカードを総取りする。所謂、戦争と呼ばれるトランプゲームの一つである。


 エースが一番強く、数字の2が一番弱い。

 カード自体は侑がよく混ぜたので、純粋な運ゲームの筈だった。しかし、実際にゲームをやってみると、完全なワンサイドゲームだった。湊の手札がゴミ過ぎて、勝負の形にすらなっていない。


 ゲームを中断してカードを配り直したが、勝敗は覆らなかった。ムラトの手札は常に恵まれ、湊は雑魚みたいなカードで負け続ける。予定調和を見ているようで、胸糞悪い。




「昔から、運は良い方だったからな」




 ムラトが控えめに笑った。

 もう、運なんて次元の話ではない。まるで磁石みたいにムラトの手元に強いカードが集まるのだ。湊が頭を抱える理由が分かる。


 人間は不平等だな、と侑は虚しく思った。

 運も実力の内なんて言うが、まるで神様の依怙贔屓だ。




「でも、こんなに連勝したのは初めてだ。俺の幸運と言うよりも、湊が不運なんじゃないか?」




 湊は苦い顔をして黙った。


 正直、侑もそう思った。

 今までイカサマやら策略やら、勝つ為に手段を選ばないので気付かなかった。だが、この湊という男は、とても不運な星の下に生まれ付いている。


 もう一回。

 湊が言った。意地になっているようには見えなかった。実験動物を前にした研究者みたいだった。


 ソファで足を組んだアーティラが、尊大に言った。




「ムラト様にオールイン」

「俺も」

「賭けにならないわ」




 侑が言うと、アーティラが笑った。

 こんなに先の見える勝負も中々無いだろう。


 しかし、まあ。

 配られたカードに文句を言わず、自力で活路を切り拓いて行く方が湊らしい。己の不幸やこの世の不条理を嘆いているよりも、実力で乗りこなして行く方が見ていて楽しいのだ。




「ムラト達はこれからどうするの?」




 合図と共にカードを捲る。予想通り、湊の敗北である。

 ダイヤのエースとクラブの2。差し出されたクラブが恨めしげに睨んでいるような気さえする。ムラトはカードを受け取って、困ったように腕を組んだ。




「取り敢えず、暫くはこの国に滞在することになった。実家のごたごたは親父がどうにかしてくれるらしいからさ」




 後ろ盾のある奴は楽で良いな。

 侑は思った。




「じゃあ、困ったことがあったら相談に乗るよ」

「それは頼もしいな」

「そうだろう?」




 湊が微笑んだ。


 自分達は中東にコネクションが欲しかった。予想以上のトラブルに巻き込まれたが、アラブの大富豪、ラフィティ家の長男に恩を売ることが出来たのは僥倖である。しかし、今にして思うのは、この状況は湊の実力であったのか、ムラトの幸運であったのかと言うことだった。


 ムラトは数多いコネクションの中からエンジェル・リードを選び、結果として裏切り者の従者を懐柔し、窮地を切り抜けた。


 この状況は、一体、誰の成果なのか。

 湊とムラトは次のカードを構えた。




「Ready, set, go!」




 細い指先がカードを捲る。

 ムラトはダイヤのキング。対して、湊はスペードのエースだった。エースはゲーム上、最強のカードである。続く黒星の中、湊は久しぶりに白を付けたのだ。


 ムラトは驚いたみたいに目を丸めたが、湊は意味深に微笑んだだけだった。アーティラが訝しむように目を細める。




「イカサマしたの?」

「俺が? どうして?」




 湊はびっくりしたみたいに肩を竦めた。

 アーティラは納得が行かないみたいに見詰めていたが、ムラトが潔く負けを認めた以上、何も言わなかった。


 湊はイカサマをしていない。事実だ。

 イカサマをしたのは、――だった。

 予定調和の勝敗に飽きたのだ。他人の嘘が見抜ける湊には、カードを配った時点で暴露ばれていただろう。


 アーティラの黒い瞳が睨んで来たので、侑は嘲笑った。




「俺を疑ってんのか? 酷い奴だな。慰謝料取るぞ」

「そうまでして勝ちたいの?」

「ははは」




 イカサマでも反則でも何でも良いのだ。この世は巨大なゲーム盤。怖気付いた奴から死んで行く。ルールを軽視しているのではない。それより大切なものを知っているだけだ。


 侑は口角を釣り上げた。




「守るべきものを弱さの理由にしちゃいけないぜ?」

「最低ね」

「何とでも」




 俺のことを血に飢えた獣と言った癖に、被害者体質の奴等は主語がデカくて困る。主体性の無いマゾ野郎は砂漠で野垂れ死ねば良いんだ。


 この場の空気を悪くする必要も無いので、侑は黙って微笑んだ。




「俺は投資家をしていて、時々思うんだけどね」




 湊はスペードのエースを弄びながら、挑戦的に言った。




「愛や信頼をお金で買うことは出来ないけど、投資することは出来る」




 そうでしょう、と湊はアーティラに向かって問い掛けた。ばつが悪そうにアーティラが眼を背けるのが痛快だった。




「俺は君達の未来に投資するよ。時代の蠢動しゅんどうを俺に見せてよ」




 明るさが零れ落ちるみたいに湊が言った。


 ムラトは、まるでタイムカプセルを開けた子供みたいに目を輝かせている。買えない物なんて無い彼を皮肉っているようにも感じられたが、気のせいだろうか。


 さて、山札のエースを引き当てたのは誰だったのか。

 湊なのか、ムラトなのか、アーティラなのか、それとも、侑だったのか。


 次戦に備えてカードを切り分ける湊が、楽しそうに笑っている。じっと睨むアーティラの視線を感じて、怖い怖いと侑は笑った。

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