⑼違和感
「……蛍がやって来たのは、二ヶ月前」
それはまるで懺悔のように、薄い唇から零れ落ちる。
秒針の音が静かに響き渡る。侑は警戒を解かないまま、アーティラを見詰めていた。
「ムラト様がクーデターを計画し始めた頃、蛍が私の元に来た。……このままでは戦争になり、ムラト様は巻き込まれて命を落とす。そう言った」
顔を上げたアーティラは、吹っ切れたみたいな清々しい顔付きをしていた。黒曜石の瞳には怜悧な光が宿り、彼女が強い覚悟の上に立っていることを知らしめている。
「極東に逃げろと。そうしたら、力になってくれると言った」
侑は拳を握った。
エンジェル・リードの見付けた若い芸術家、来栖凪沙も、きっとそんな甘言で復讐の道を選ばされたのだろう。パスファインダー自身は手を汚さず、他人を操って、利益を貪って嘲笑っている。
「蛍とは明日の昼、横浜から出る船で会う予定だった。……私はムラト様を連れて、亡命するつもりだった」
「アーティラ……」
ムラトの目は薄く充血し、今にも涙が零れ落ちそうだった。
皮肉な話だ。ムラトはアーティラの為にクーデターを計画した。しかし、それはパスファインダーの罠で、アーティラが利用され、追い詰められた。
「ムラト様が亡命すれば、クーデターは起こらない。それに、あの血腥い継承争いにも巻き込まれずに済む」
アーティラが本当に守りたかったのは、ラフィティ家でもなければ血筋でもなく、歴史でもない。
彼女は、ムラトが大切だったのだ。その為なら誰を裏切り、誰が傷付いても構わなかった。生きていて欲しかった。幸せでいて欲しかった。ただ、それだけだった。
「ムラト様にはレストランで睡眠薬を呑ませて、そのまま船に乗せるつもりだった。目が覚めた時には、全部終わっている筈だった」
レストランで提供された料理には、睡眠薬が盛られていた。侑がそれを口にしなかったのは、今思うと幸運だった。
「あの襲撃犯は何者なの?」
湊が尋ねた。
高速道路で、宿泊先のホテルで、自分達は襲撃を受けた。一歩間違えば四人仲良く消炭になっていただろう。いや、それが向こうの狙いか。
「分からないわ」
アーティラはきっぱりと言った。
隣を見遣る。湊は冷静に答えた。
「嘘は吐いていない」
では、あの襲撃犯は一体何者だったのか。
ムラトを狙ったラフィティ家の刺客か、それとも。
湊は俯き、顎に指を添えていた。考え込む時の癖だった。その脳内では夥しい量の情報と可能性が錯綜し、凄まじい速度で審議されている。声を掛けることすら躊躇う高次元の集中状態である。
「侑」
湊が、言った。
その声だけで、湊が何を考え、何を選んだのか分かる。
「彗星を捕まえるぞ」
侑は笑って、懐のマカロフから手を離した。
この場所に敵はいない。勝負は明日の昼、海の上。
湊は拳を向けて、放胆に笑っていた。
「楽しいパーティーの始まりだ」
3.熱砂の宝玉
⑼違和感
海は油を垂らしたように穏やかだった。
雲一つ無い青空に、海原はゆったりと膨らんで見える。潮の臭いを連れた風が頬を打ち、侑はモッズコートに首を埋めた。
ムラトとアーティラはエンジェル・リードの事務所で一泊し、侑と湊は殆ど徹夜で作戦会議を行った。湊の言う楽しいパーティーが行われる船内は貸し切りで、一般の利用客はいないらしい。その代わり、武器を携えた玄人のお客さんがわんさと乗り込んでいる。
湊が作戦を幾つか立てたが、間怠っこしいのを除外して行くと、シンプルで野蛮なものが選ばれた。湊は少し嫌そうだったが、侑には遣り易い作戦だった。
昼前に真っ白い遊覧船が、豪快な音を立てて港に滑り込んだ。侑は港の倉庫に身を潜め、桟橋から船に乗り込むムラトとアーティラを見詰めていた。
さあ、ネギを背負ったカモが行くぞ。
侑はマカロフの装填を確認した。隣には湊がいじけた子供みたいにしゃがみ込み、愛用のノートパソコンをカタカタと弄っている。
「おい、そろそろ行くぞ」
「分かったよ」
湊はパソコンを閉じて、リュックに入れた。
桟橋が上がって行く。船出を知らせる汽笛が鳴り響き、何処か牧歌的な雰囲気が漂う。観光客が呑気に写真撮影なんてしているが、其処に乗っているのは武装した玄人と、中東の大富豪の長男である。
侑は湊を脇に抱え、港を離れ行く船を追った。
船が岸から離れる瞬間に欄干に飛び乗った。運悪く巡回していた男と目が合った。
侑は湊をその場に置いて、一瞬で銃口を向ける男の懐に滑り込んだ。靴底で向こう脛を蹴り付け、体勢を崩した瞬間に銃を蹴り上げて腹部を何度も殴ってやった。
血の混じった呻き声が零れ落ち、男はそのまま昏倒した。侑はすぐ様辺りを警戒したが、敵はいないようだった。
「おい、湊。想定と違うぞ」
湊は廊下に落ちた拳銃を海に投げ捨てていた。
事前の作戦会議では、乗り込んだ瞬間に警報でも鳴って、敵が津波のように押し寄せる筈だった。だが、乗り込んでみると船は手薄で、敵もそれ程、強くはない。肩透かしを食らった気分である。
「何か、嫌な感じがするね」
と言いつつ、作戦自体は変更するつもりは無いらしかった。
船の内部構造を思い起こしながら、侑は湊を連れて操舵室へ向かった。この船自体は遊覧船で、操作しているのは一般人である。出来れば、何も知らないまま船から降ろしてやりたい。
操舵室に向かう道中、何人か武装勢力は見掛けたが、どいつもこいつも雑兵だった。素人に毛が生えたような破落戸が、不釣り合いな新品の銃を持って彷徨っている。
声を上げられると面倒なので、侑は銃を使わず、なるべく殺さないようにして倒して行った。操舵室までの道程は意外と短かった。
内側から鍵が掛かっていたので、湊がピッキングした。
扉を開けた瞬間、大海原がパノラマに広がっていた。操舵室に人はおらず、舵には見たことのない機械が吊り下げられている。湊が機械を観察している間、侑は敵襲に備えて扉の外を警戒した。
「爆弾だね」
何でもないことみたいに、湊が言った。
侑は目を瞬いた。
「爆弾?」
「そう。この機械は自動で船を操作するもので、港をぐるっと一周するように設定されている。繋がってる爆弾は遠隔操作で、大きさから考えるとこの操舵室を吹っ飛ばす程度だね」
湊はスーパーマーケットで品物を手に取るみたいに爆弾に手を伸ばし、リュックの中から幾つかの工具を取り出した。この場で爆弾を解体するつもりらしい。
「解体出来るのか?」
「解体することは出来る。……問題は、手を出すと向こうにこっちの動きが漏れるって所」
湊は手を止めて、爆弾の前で唸った。
遠隔操作ということは、今この瞬間にも爆発する可能性があるということだ。両親を爆弾テロで失くした癖に、この危機感の欠如は一体どうなっているのか。
放って置くと居座りそうだったので、侑は湊の首根っこを引っ掴んだ。仔犬のように引き摺られながら、湊が言った。
「船底の方に行こう」
「なんで」
「俺なら、爆弾は船底に仕掛ける」
「お前はどの立場から言ってんだよ」
侑は笑った。
しかし、言っていることは尤もだ。その方が手っ取り早い。
だが、疑問もある。この船を沈めて、誰が利益を得る?
パスファインダーの狙いは、恐らくムラトの引き起こそうとしているクーデターだ。では、この爆弾は何の為に仕掛けられた?
喉に小骨が引っ掛かったみたいな違和感が、神経をひり付かせる。操舵室を出る頃に湊を解放してやったが、湊は何も気にしていないみたいに平然と話し始めた。
「俺とムラトが寝ていた間、侑とアーティラが敵を追い払ってくれたんだよね?」
「ああ」
追い払ったなんて生優しいものではないけれど。
湊が考え事をしながら歩き出すので、侑は焦った。何処から敵が出て来るかも分からないのに、図太過ぎる。
「おい、湊」
呼び掛けると、湊が足を止めた。
その瞬間、廊下の曲がり角からナイフを携えた男が一気に躍り出た。侑は床板を抜く勢いで地面を蹴り、ナイフを振り上げる腕を掴んだ。
関節を押さえると、呻き声と共にナイフが落ちた。
侑は頭を掴んで、思い切り膝に叩き付けてやった。真っ赤な鼻血が噴き出して、そのまま腹部を蹴り上げる。姿勢が傾いたタイミングで首筋に踵落としを食らわせると、男の虹彩が明後日の方向に飛んで行った。
「お客さんだぜ。下がってろ」
サブマシンガンを抱えた男が銃口を突き付ける。侑は身を滑り込ませ、ナイフで首筋を抉った。背面から内臓を狙って何度も突き刺せば、廊下一面は血の海となった。
武器の処分は湊に任せ、侑は止め処無く現れる武装勢力を片付けて行った。敵を粗方始末した頃には、壁には血飛沫が散って、床には血溜まりが出来ていた。その上を湊が平然と歩くので、侑は何とも言えない気持ちになる。
死体の山、血の轍。
この子はその上を歩いて行ける子だった。
それが遣る瀬無く堪え難いのは、勝手なのだろうか。
「なあ、湊」
侑が呼べば、湊は振り向いた。
まるで街中を歩くような軽快な足取りで、自然な動作で、この子は屍の上に立っている。
「後悔してないか?」
「何のこと?」
湊は首を傾げて、本当に何も感じていないみたいに瞬きした。
侑が湊と仕事をするようになったのは、半年前のことだった。弟を失くし、復讐を果たし、やるべきことも居場所も失った侑に湊は手を差し伸べた。
それから坂道を転がり落ちるように社会の裏側を歩き、日の当たる道を去った。この蜂谷湊という青年は、表向きには犯罪歴の無い未成年で、更生の余地は十分にある。
それでも、湊は立ち止まらないし、引き返さない。
この子の覚悟の根底には、家族や侑の弟の存在がある。
お前だけが犠牲になって、それで良いのか。
「まだ引き返せるぞ。お前は、日の当たる道を歩く権利がある」
こんな血腥い陰謀詭計の飛び交う汚い世界ではなくても、平和の為に大舞台で表彰されるような未来だって残されている筈だ。
侑が言うと、湊は濃褐色の瞳で見詰めて来た。
他人の嘘を見抜く神の目。侑には、それが時々鏡のように見える。湊は答えた。
「後悔はしていない。犠牲になったつもりも無い」
湊は凛と背筋を伸ばして言った。
「日陰にだって咲く花はあるし、日向にだって雨は降る。大切なのは、歩き方を知っているということさ」
善悪や正誤ではないのだと、湊が何度でも言う。
湊は選んだ。その決断に他人が口を挟む余地など、塵一つ無いのだ。分かっていたことだ。
侑には、もう笑うことしか出来なかった。
湊は靴を血で染めたまま、腕を組んだ。
「侑って狙撃出来る?」
「狙撃? いや、あんまり得意じゃないな」
「そうだよね」
ふむ、と湊は俯いた。
狙撃は得意じゃない。そもそも、侑の持っている銃は狙撃に適していないし、その為の技術も磨いて来なかった。
湊は顔を上げた。
「パスファインダーはこの船を指定してる。だけど、操舵室の機械は港を一周するように設定されていた。狙いがムラトなら、外部へ運ぶ方法がある」
「それは、まあ、そうだな」
「ヘリは目立つから、海路かなと思うんだけど。それにしても、どうして昼間を指定したんだろう?」
確かに、妙な話である。
自分達が乗っているこの船は、観光にも使用される遊覧船なのだ。銃器を持った男達がドンパチするには、些か無謀ではある。
「お客さんが欲しかったのかな?」
侑はそっと眉を寄せた。湊の話は分かり難いのだ。言っていることは分かるのに、最終的に何が言いたいのかよく分からない。結論だけ話されても理解不能なので、侑は湊の言葉を待った。
湊は顔を上げると、唐突に言った。
「予定変更。ムラトとアーティラの所に行こう」
「分かった」
理由はよく分からないが、侑は頷いた。
船内の構造を思い返す。ムラトとアーティラがいるのは、最上階の客室。回り道をしなければならない。
湊はさっさと踵を返して、来た道を戻り始めた。立ち止まりも振り返りもしない。自分が付いて来ると信じて、無防備に背中を向けている。
廊下を駆けて行く背中を見詰めていると、遠い昔に置いて来た過去が幻のように蘇る。ちゃりちゃりと金属が鳴る。
廊下の先から敵が飛び出して来たので、侑はベルトに差していたナイフを投げた。脳天にナイフを食らった男が後方に傾き、倒れる。これがダーツならブルだった。
傍に落ちた銃器は、新品だった。
其処等の破落戸がお遊びで手に入れられる品物じゃない。
嫌な感じがするね。
湊の呟きが耳元に再生されて、侑は苦笑を呑み込んだ。
奇遇だな。――俺もだよ。
しかし、頭脳労働は自分の領分ではないので。
侑は頭蓋骨を貫いたナイフを引き抜き、湊を追って駆け出した。
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