⑻悪魔の天秤

 身代金目的の誘拐事件は、検挙率97%らしい。

 逃亡して逮捕を免れた例はあっても、犯罪として成立したことはこの国の犯罪史上で一度も無い。誘拐自体は簡単だが、身代金を受け取ることは難しいと言う。


 侑は、ビルの合間から覗く朝日に目を細めた。

 夜の街を駆け回り、中東の過激派と銃撃戦を繰り広げ、建物を幾つか崩壊させて、成果はたった一人の鉄砲玉である。


 誘拐犯は偉大だな。

 侑は胸の内に吐き捨てた。朝日が目に染みる。


 建物の崩壊に巻き込まれて昏倒していた下っ端を拘束して、湊に連絡したら連れて来いと言う。別に給料を貰っている訳ではないし、金に執着も無いが、特別手当でも欲しい所だ。


 どうやって連れて行けと言うのか。

 拘束した男と電車に乗れば良いのか。それとも、市中引き回しの如く紐で繋いで歩いて行くか。明け方の澄んだ空の下で途方に暮れていたら、白のハイエースが迎えに来た。


 如何にも前科者と言う強面の男が、苦々しく乗車を促した。見覚えがあると思ったら、お隣さんのヤクザだった。湊の差し金らしい。


 ヤクザの送迎で事務所に戻ると、玄関先で湊が出迎えた。

 湊が裾の長いエプロンにゴム手袋をしていたので、猛烈に嫌な予感がした。室内だと言うのにゴムの長靴を履いており、事務所の応接室の一角にはブルーシートが張られ、猟奇事件でも起こりそうだった。




「何するつもりだよ」

「お話するだけさ」

「お話する格好じゃねぇだろ」




 湊は肩を竦めると、透明なゴーグルを付けた。

 生肉工場の従業員みたいだ。換気をするべきだろうか。


 応接室にはアーティラと、目を覚ましたらしいムラトがいた。ローマングラスのような青い瞳を久しぶりに見たような気がする。アーティラは清楚な従者のようにソファに座っているが、彼女が手榴弾を隠し持っていたことを知っているので全く気が抜けなかった。


 湊は拘束された男をブルーシートの上に座らせると、傍に置いた工具箱からペンチを取り出した。航がバイクの修理に使っていたのである。




「ようこそ、日本へ」




 ペンチを構えた湊は、まるでホラー映画のワンシーンみたいだった。生贄が怯え身動ぐのを、侑は気の毒に思った。




「貴方達の狙いはエンジェル・リードですか?」

「知らない!」

「嘘はいけませんね。最初は指から行きますよ」




 いきなり指なのかよ。

 侑は内心で突っ込みを入れた。




「貴方はラフィティ家の関係者ですか?」

「止めろ! 助けてくれ!」

「では、狙いはムラトですね?」

「許してくれ! 俺は金で雇われただけなんだ!」




 会話は全く成立しているように見えないが、湊に任せて良さそうだ。侑は二人を放置して、給湯室に向かった。丸一日何も食べていない上に、街を走り回って、流石に疲れた。


 冷蔵庫を空けたら、綺麗な三角形のおにぎりが皿に置かれていた。事務所を出る時には無かったので、湊が用意してくれたらしい。疲労と空腹で心が弱っていたので、侑は痺れる程、感動した。例え、それがサッカーボール程に大きくても。




「貴方を雇ったのは誰ですか? 中東のテロ組織かな」

「知らない! 俺は関係無い!」

「では、ラフィティ家?」

「分からない!」

「なるほどね」




 湊の楽しい尋問をBGMにおにぎりを抱えて食べていたら、ソファでムラトが小難しい顔をしていた。こいつはずっと寝ていたが、状況を何処まで理解しているのだろう。


 おにぎりは塩の味がした。食べ進めて行くと梅干しやら、海苔の佃煮やら、卵焼きやら色々出て来た。遺跡の発掘調査でもしている気分だった。

 応接室の片隅から一際大きな悲鳴が聞こえ、侑は急いでおにぎりを食べた。




「終わったか?」




 侑が覗くと、意外にも男は五体満足で、一滴の血も流れていなかった。死んでいないが、意識も無い。湊が退屈そうにペンチを片付けている。




「こいつはラフィティ家に金で雇われた犯罪者。狙いはムラトみたいだね」




 湊が滔々と言った。

 他人の嘘を見抜くという能力は、生きて行く上では必要とは思わないが、使い所次第である。ソファでムラトが目を伏せる。その反応で分かる。彼は予測していたのだ。


 湊はエプロンを外して丁寧に畳むと、ブルーシートを片付け始めた。程無くしてお隣のヤクザが事務所にやって来て、意識の無い男を運んで行った。




「誘拐なのか暗殺なのかは、よく分からない。あの人も知らないみたいだったよ。下っ端だったし、依頼人と面識も無いらしい」




 侑は落胆した。

 建物が崩壊しなければ、もう少し偉い奴を捕まえることが出来たかも知れない。惜しいことをした。




「心当たりは……、ありそうだね?」




 湊が言った。

 そんなことより、侑は湊の着ている奇妙なセーターに目を奪われてしまった。腹の辺り、筋骨隆々たるケンタウロスが描かれている。ボディビルみたいなポーズで薄笑いを浮かべているのが不気味だった。




「何なの、その服」

「変?」

「いや、怖い」




 侑にも怖いものがあったんだねぇ、なんて呑気に湊が言った。湊自身が容姿端麗なので、視覚的情報が多過ぎて目がチカチカする。


 湊はソファに腰掛けると、膝の上に手を組んだ。チョコレートみたいな濃褐色の瞳が、ムラトを真っ直ぐに見詰めている。




「犯人に心当たりは?」

「……沢山あり過ぎて、分からないな」




 ムラトは力無く笑った。

 けれど、湊は冷めた目で言った。




「それは、嘘だね。君は犯人に心当たりがある」




 侑はソファに深く腰掛けた。

 推理ドラマだったら、湊一人で事件解決だ。情報戦と言う土俵では、湊の能力は反則級だろう。




「犯人は君の行動を知ることが出来た人間だ。日本に行くことも、俺達に依頼したことも、その行先も」




 今回の依頼そのものは、ラフィティ家の当主によるものだ。そして、自分達が行先を決めたのは当日で、空港で会うまで連絡すらろくに取っていなかった。


 昨夜の騒動の中、湊とムラトは呑気に寝ていた。恐らく、睡眠薬の類でも盛られていたのだろう。二人だけが眠っていたことを考えると、それはレストランの食事しか考えられない。


 もう、答えは出ているじゃないか。

 侑は懐に手を伸ばした。此処で戦闘になるのは困る。此処には、弟が湊に遺した油絵があるのだ。それが消炭になったら、侑はそいつを殺すしか無い。


 侑は、沈黙を貫く従者を見詰めた。

 艶やかな黒髪と黒曜石の瞳をした褐色の美女。ラフィティ家長男の従者。


 湊は膝の上に肘を突き、顎を乗せて微笑んだ。




「答え合わせをしようよ、アーティラ。貴方の背後にいるのは、誰?」













 3.熱砂の宝玉

 ⑻悪魔の天秤














「そんな筈無い! 何かの間違いだ!」




 ムラトが嘆願するみたいに声を荒げる。その間もアーティラは無言で、否定も肯定もしなかった。

 侑はポケットの中でマカロフを握り込んだ。いざと言う時、湊を守らなければならない。けれど、湊は無防備にアーティラを見詰めている。




「なあ、そうだろ?」




 ムラトが、泣きそうな声でアーティラに訴えた。

 彼女の面には、一切の感情が無かった。追い縋る弟と突き放した自分の姿が脳裏を過り、胸が苦しくなる。




「ムラト様は、甘過ぎます」




 アーティラが、言った。

 それは死刑宣告にも似た残酷な響きを帯びていた。




「貴方は人を平等だと思っている。けれど、この世界はそんなに優しく出来てはおりません」

「アーティラ……」

「クーデターの一つや二つで身分の差は入れ替わらないし、国王は考えを変えません。貴方の夢物語の為に、私の人生は閉ざされてしまう」




 堪らなくなって、侑は口を開いた。




「だが、そいつは本心からお前の為を思っていたんだ。お前のことを信じていたんだぞ」

「ええ。そうでしょう。この方はお優しい。いつも笑顔で、明るく朗らかで、……傲慢です」




 ムラトの顔がくしゃりと歪む。

 傲慢。確かに、そうだと思う。だが、それ自体は決して悪じゃない。侑はそう思う。欲望が時としてエネルギーになるように、そのエゴもいつか誰かを救うかも知れない。




「ムラト様は、遥か昔から連綿と受け継がれて来たその血に、どれだけの価値があるのか分かっておられない」




 命を繋ぐと言うことが、どれだけ難しいか。

 ムラトは大富豪の長男としての宿命を背負い、常に命の危機に晒されて来た。アーティラのような身分の低い従者達が、彼一人を守る為にどれだけ手を尽くし、命を散らして行ったのか。


 そんなムラトがクーデターの首謀者になんてなってしまったら、彼を生かす為に死んで行った人々はどうなる。誰が彼等を救ってくれる。




「新しい価値観は、新しい差別を生みます。そんなものの為に、貴方を守って来たのではありません」




 ムラトは俯いていた。青い瞳から、ダイヤモンドのような滴が音も無く零れ落ちる。

 アーティラの言っていることは、血の通わない正論だった。彼女が守りたかったのは、ラフィティ家の長男というシンボルで、個人ではない。


 それまで黙って聞いていた湊が、覗き込むみたいにして問い掛けた。




「では、貴方は何を守って来たの?」




 アーティラの胡乱な眼差しが湊に注がれる。

 湊はソファで両足を揺らしながら、嬉々として言った。




「安い芝居は止めなよ。俺にはアンタの嘘が分かるんだ」

「……何が嘘だと言うの?」




 アーティラの声は地を這うようだった。

 湊は吐息を漏らすようにして笑った。




「血筋を守るだけなら、ムラトじゃなくても良かった筈だ。クーデターなんて危険思想を持った時点で、貴方は彼を処分することも出来ただろう」




 湊の瞳は、雨上がりの空のように澄んでいる。

 其処には嘲りも侮蔑も無く、アーティラという人間を見詰めている。




「こんな極東の島国まで付いて来て、リスクを冒して、それは一体何の為なの?」




 分かる筈だ。他の誰でもない、アーティラ自身が分かっている筈だ。ムラトは傲慢な主人かも知れないが、決して悪人ではない。そういう人間を足蹴にして、得られるものに一体どんな価値があると言うのか。




「主人を謀り、信頼を踏み躙り、アンタはその血を誇れるのかい?」




 偉大なる歴史、受け継がれる血筋。

 それがどれだけの価値を持つのか侑には分からない。


 エンジェル・リードの立場としては、アーティラを援護するべきだった。だが、個人の尺度として、彼女を肯定することは難しい。湊がそれを敢えて咎めるということには、意味がある。




「部外者は無責任で良いわね」




 アーティラは嘲るように言った。仮面を外したアーティラは、まるで――蛇のようだった。

 密林に潜み、獲物を狙い、一瞬で丸呑みにする。そして、その蛇は、きっと致死量の毒を持っている。




「貴方達は何の責任も負わず、悪戯に搾取しては破壊するだけ。私達の気持ちなんて分からないわ」

「それは、アンタが被害者の立場に甘んじてるからさ」




 湊は腕を組み、アーティラを見遣った。




「いいか、アンタ達は利用されたんだ。汚い大人のつまんねぇ打算に踊らされて、こんな極東の島国で抹殺されようとしている」

「……」

「それを名誉の死だと言うのなら、好きにすれば良いさ。ただ、俺達はアンタの後ろで糸を引いている奴に用がある」




 一連の事件の全貌が漸く見えて来た。

 ラフィティ家に滞在するアジアの旅商人、蛍はパスファインダーと呼ばれる武器商人だ。そいつは武器を売る為に戦争を起こしたい。ムラトは唆され、アーティラは利用されたのだ。




「俺なら、アンタに出来ない方法でそいつを引っ張り出すことが出来る」




 湊はムラトとアーティラへ視線を送った。

 顔だけは天使のようだが、中身は悪魔の末裔である。湊は指を突き付け、まるでヤクザの親玉みたいな悪どい笑みを浮かべていた。




「好きな方にチップを賭けなよ。アンタはただ選べば良い」




 どうぞ、お好きな地獄を。

 湊は詐欺師のような完璧な笑顔だった。


 こいつも、中々非情な男である。

 ラフィティ家というチップを、エンジェル・リードとパスファインダーのどちらに賭けるか。しかも、それを主人であるムラトではなく、従者のアーティラに選ばせようと言うのである。


 沈黙したアーティラの視線が天秤のように左右に揺れる。自殺志願者でもあるまいし、パスファインダーを選ぶ理由は無い。


 緑色の羅紗の張られたカードテーブルが見えるようだった。

 湊は訳の分からない不気味なセーターを着ているにも関わらず、まるでラスベガスのディーラーのように開幕の瞬間を待ち構えている。


 彼女が口を開く前に、ムラトが訊ねた。




「お前等の望みは何なんだ?」




 そのサファイアみたいな青い瞳には、憎悪も憤怒も軽蔑も無い。湊の提案による利益を計ろうとする商人の目だった。


 湊が言った。




「此処は俺の両親が産まれ、大切な人が生きた国だ。守る理由がある」




 湊が僅かに身を乗り出すと、胸元で金属の触れ合う微かな音がした。侑は奥歯を噛み締めて、無表情を保った。

 ムラトは曖昧な相槌を打ち、溜息と共に天井を見上げた。その拳は固く握り込まれていた。




「立場が逆転しちまったな」




 ムラトはそう呟いて、身を起こした。

 熱砂の宝玉と呼ばれる美しい瞳が、蛍光灯の光の下で輝いている。その瞳はアーティラを映していた。




「アーティラ。こいつ等に情報をやれ。責任は俺が取る」

「ムラト様……」

「お前の不安に気付けなくて、ごめんな」




 ムラトは苦く笑った。

 普段は飄々としていても、ムラトは大勢の人間の上に立つ選ばれた者だ。そして、部下の不始末を取るのは彼の仕事である。それすら出来ない人間が多い中、ムラトは立派だった。トップの無能はそれだけで罪だ。ムラト・ラフィティは、やはり相応の実力を持ったリーダーなのだと伺わせる。


 アーティラ、お前、見誤ってないか?

 侑は問い質したかった。彼女はムラトという人間の本質が見えているのか。こいつは確かに傲慢で、侑にとっては嫌いなタイプの善人だ。だが、決して無能ではない。


 痛い程の沈黙の最中、アーティラが口を開く。

 侑は、それをただ、見守っていた。

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