⑺夜祭
千尋の谷に掛けたロープを裸足で渡るような緊張感が心地良い。気を抜けば真っ逆様に転落して、絶対に助からないという戦慄に血が躍る。
夜の街にサイレンが鳴り響く。
出遅れた緊急車両共が呑気に現場検証を始める頃には、コーヒーの一杯でも楽しんでいたい。侑は歩道橋を駆け上り、疾風の如く疾走した。階段を降りるのが煩わしくて、頂上から一気に飛び降りた。着地と同時に衝撃を逃し、次の一歩ではアスファルトを蹴っている。
踏切の音がした。遮断機が断頭台のように降りる。侑はそれを無視して踏切を抜け、また走り出した。
高速道路で狙撃して来た大馬鹿野郎が何者なのかは分からないが、急げば逃走経路に先回り出来そうだった。携帯電話が震えて、湊からメッセージが届いた。界隈の地図と予想される逃走経路が添付されていた。
湊はあれこれと指示して来ないし、侑の行動に合わせてくれる。言葉にしなくても伝わって、背中を預けられる関係は居心地が良い。
侑は電信柱によじ登り、民家の屋根に飛び乗った。
直線距離なら間に合いそうだ。忍者のように屋根から屋根を飛び移り、片手でメッセージを確認する。
湊とムラト、アーティラは無事らしい。
警察が来る前に逃げるとのことだった。返信が面倒だったので、ポケットに押し込んで道路へ飛び降りた。
ヘッドライトが網膜を焼き、クラクションが悲鳴のように鳴った。突っ込んで来た乗用車の屋根に飛び乗り、そのまま転がるようにして着地する。後方で急ブレーキを踏む音が聞こえたが、侑は無視して走り出した。
公園に差し掛かった時、侑は息を逃した。昼間は賑わっているだろう公園も、夜は人気が無く寂しげな印象を与えた。侑の予想ではこの辺りで襲撃犯と遭遇する筈だった。
風の音に混じって、微かな足音がした。
振り向くと同時に鈍色の刃が光った。侑は身を翻すようにして躱し、正体不明の殺意と対峙する。
高速道路で狙撃して来た奴だ。
全身黒尽くめで、マスクをしている。彫りの深い顔立ちは異国の雰囲気があり、凶器を握る様は素人に見えない。
男は黒い長物を担いでいた。恐らく、スナイパーライフルだ。
銃を使った犯罪が増えると、湊が言っていた。こいつもパスファインダーとか言うネズミの手下なのだろうか。侑にはよく分からなかった。
得物は、サバイバルナイフ。
訓練された工作員の動きだ。何処の国の誰の差し金かは分からないが、生かして帰すつもりは無かった。
俺の愛車をポンコツにしやがって。
沸々と怒りが湧いて来る。
突き出されたナイフを脇で押さえ、顎の下から拳を振り上げた。がちんと歯が鳴った。侑はそのまま内臓を潰すつもりで腹を蹴り上げた。
墨汁のような血液が路上に散る。生かして捕らえるのは、自分の流儀では無い。そんなリスクを負う必要も無かった。
男が身を引いたと同時にナイフを掠め取り、首筋を切り上げてやった。
頬に生温かい感触があった。噴水のように血が噴き出し、辺りに鉄の臭いが漂う。侑はナイフを逆手に持ち、畳み掛けるつもりで顳顬を貫いた。男が膝から崩れ落ちる寸前、駄目押しに腹部を滅多刺しにする。何か言っているが、異国の言葉なので分からなかった。
「じゃあな、クソ野郎。つまんなかったぜ」
ナイフの血を切って、侑は溜息を吐いた。
携帯電話が鳴った。頬の返り血を拭い、侑はポケットに手を入れた。マカロフを使うまでも無かったことが、腹立たしい。
非通知からの着信。
このタイミングは湊しか有り得ない。
侑は死体を蹴って顔を確認した。マスクは血でべっとりと汚れていたが、外してみると褐色の肌をした軍人みたいな男だった。狙いはエンジェル・リードでは無さそうだ。
「よお、湊。終わったぜ」
スピーカーの向こうで湊が返事をした。
お互いに無事で何よりだ。侑が言うと、湊が笑った。
「死体、どうする? 放置して良いか?」
『掃除屋に頼んでおくよ』
訳有りの死体や人間を処理し、何も無かったように消し去る奴等を掃除屋と呼んでいる。公安時代にはよく世話になったので、久々に会っても良かった。
『それより、早く戻って来てくれよ。眠くて堪らない』
「分かったよ」
名残惜しいが、侑はナイフと死体を置いて歩き出した。
都会の夜空は明る過ぎて、星が見えない。湊の故郷は田舎だったので、星座が探せないくらい豪勢な星空が見られた。硝子片を
3.熱砂の宝玉
⑺夜祭
指示された場所は都内の高級ホテルだった。
ドーム状の天井から吊られたシャンデリアが煌びやかな光を降らせている。午後九時を過ぎたエントランスホールに人気は無く、従業員ばかりが機械のように動き回っていた。
皮張りのソファに湊が座っていた。侑の存在に気付くと、ボールを拾った子犬みたいに駆けて来て、褒められるのを待っているみたいに微笑んだ。
「よくやった」
栗色の頭を撫でてやったら、子供扱いするなと言われた。
今は見下す程の身長差も、いつか追い抜かれる日が来るのだろうか。そう思うと幾らでも撫でてやりたいが、侑は苦笑いに留めた。
「外人だったぞ」
「中国?」
「いや」
侑は湊の後ろに視線を向けた。
高級感漂うソファに、ムラトとアーティラが座っている。ムラトはまだ眠っているようだった。湊は視線も向けずに「へえ」と相槌を打って、欠伸をした。
「眠くて頭が全然働かない。今日はもう帰って寝よう」
侑は苦く笑い、背中を提供してやる。
遠慮無く乗って来る重さに安堵する。――無事で良かった。
湊が寝落ちする前に、侑はエントランスを見遣った。
「じゃあ、またな」
明日の朝、ホテルまで迎えに来る約束になっている。
愛車が壊れてしまったので、移動手段を考えなければならない。湊を背負って侑が手を振ると、アーティラが眉根を寄せた。
「貴方は、血に飢えた獣のようね」
侑は少し驚いた。褒め言葉でないことは明白だが、アーティラという人間が敵意を直接向けて来ると思わなかったのだ。
「何のことだ?」
「その子を置いて行ったことよ」
「ああ」
合点が行った。高速道路で、侑は湊を置いて行った。
どちらかと言うと、湊の指示で動いたと言う方が正しいが、この際何でも良かった。
耳元で寝息が聞こえ、背中越しに心音と温もりが感じられた。それだけで、世界中の誰に憎まれても構わないと思う。
「こいつがあんな所で死ぬかよ」
死なせるつもりも無い。
侑が笑うと、アーティラは益々顔を歪めた。
とは言え、アーティラの気持ちは良く分かる。同じ立場だったら自分も叱責していたかも知れない。
アーティラが何かを言おうとした、その時だった。
革のベルトが力任せに引き千切られるような鈍い音がして、辺りは暗闇に包まれた。明暗の変化に目が付いて行かない。侑は咄嗟に目を閉じて、神経を張り巡らせた。
銃声、マズルフラッシュ、悲鳴、足音。
情報が目紛しく押し寄せる。現状の把握が難しい。侑は湊を背負ったまま、記憶を頼りに受付カウンターに飛び込んだ。
「おい、湊! 起きろ!」
闇に目が慣れて来たので、湊を降ろして肩を揺すった。湊は寝苦しそうに唸るが、中々目を開けない。こんなに寝汚い印象は無かったが。
「いつまでも寝てると、ミンチになっちまうぞ!」
しかし、湊は目を開けなかった。
呼吸も心音もある。侑は舌打ちを漏らし、カウンターの向こうを見遣った。サブマシンガンの乾いた銃声が聞こえ、冷や汗が流れた。対人戦闘なら怖いもの無しだが、流石にマシンガンと遣り合う程に命知らずではない。
ムラトとアーティラは如何なった。
侑が顔を出した瞬間、銃弾が嵐のように降り注いだ。彼方此方で悲鳴が迸り、途切れて行く。戦場の方が紳士的だと、侑は忌々しく思った。
その時、何かがカウンターの中に滑り込んで来た。
反射的に銃口を突き付けた。アーティラだった。その手には銃が握られている。
「何の真似だ? 俺と遣り合うつもりか?」
「……先にお前が手を下ろせ」
「出来ない相談だ」
侑は鼻を鳴らした。
アーティラの背中にはムラトがいる。そして、侑の後ろにも湊がいる。互いが信用出来ない以上、怖気付いた方から死んで行く。
「お客さんはお前等に用があるらしいぜ。俺達は帰るから、ごゆっくりどうぞ」
「ふざけるな! 依頼内容を忘れたのか!」
「命あっての物種だぜ」
その時、かつんと硬質な音が転がった。
手榴弾だと直感し、侑は反射的に蹴り上げていた。凄まじい爆音が空中に響き渡り、カウンターに乗った雑品が吹き飛んで行く。
「なんて下品な奴等だ」
侑は吐き捨てた。
少し苛付いて来た。侑が身を乗り出したその時、アーティラが立ち上がった。
「おい、死ぬぞ」
侑の忠告と同時に、アーティラが大きく振り被った。視界の奥で黒い鉄の塊が弧を描く。侑は即座に湊を庇った。
天井近くで爆発が起こり、熱波と爆風が吹き抜けた。シャンデリアが落下して砕け散り、天井に亀裂が走る。建物そのものが崩れ落ちる予感に、侑は目覚めない湊を背負った。
スプリンクラーの冷たい雨が降り注ぐ。
濛々と立ち込める黒煙の中、侑はホテルを飛び出した。
外は酷い騒ぎだった。今夜はパトカーも救急車も大急ぎである。侑は湊を背負って人混みに紛れようとした。すぐ後ろから軽快な足音が聞こえて、うんざりする。
「今日はもう店仕舞いだ。また明日な」
振り返らずに言うが、アーティラはせせら笑った。その背中ではムラトが眠っている。流石に、この状況がただの不運だとは思わない。
アーティラは曲芸師のような軽やかな足取りで走りながら、嫌味っぽく微笑んだ。
「判断はお互いのボスに委ねましょう?」
「俺のボスは夢の中だよ」
「奇遇ね。私もなの」
侑は舌打ちした。
しかし、どうする。このままじゃ地の果てまでおんぶ競争だ。こいつ等は兎も角、何処の誰かも分からない過激派まで連れ帰る訳にはいかない。
打開策も思い浮かばないまま、成年間近の男を背負って夜の街を走って行く。どういう状況だ、これは。むにゃむにゃと寝言が聞こえる。
侑は溜息を吐き、足を止めた。辺りを警戒しながら路地裏に入り、湊を下ろす。アーティラが怪訝な目を向けて来るのを無視して、侑は湊の肩を掴んだ。
「好い加減に起きろ! 楽しいパーティーが終わっちまうぞ!」
脳味噌を攪拌する勢いで前後に揺らしまくると、漸く湊が目を開けた。揺すり過ぎたせいか目を回していたので、侑は顔の前で両手を叩いた。
「乱暴だわ」
「優しいくらいだろ」
アーティラの苦言は聞き流す。
湊の目蓋が二度三度と開閉し、ぼんやりと焦点が合う。ただの寝起きの状態ではないだろう。これは、恐らく何かの薬を盛られている。
「……目が回る」
二日酔いみたいな顔色で湊が呻いた。
可哀想にな、と侑が言うと湊が耳を押さえた。
「脳味噌が偏った気がする。俺の耳から出てない?」
「大丈夫」
「良かった」
真顔で言って、湊は頬を叩いた。
「状況は?」
「こいつ等のホテルが襲撃されて、アーティラが爆弾で吹っ飛ばした」
「仕事はもっとスマートにやるべきだよ」
湊が言った。
言っていることは尤もだが、ずっと寝ていた奴には言われたくない。アーティラは反論しなかった。反省しています、なんてしおらしい態度でいるのが意味不明だった。猫を被っているのかも知れないが、残念ながら湊は他人の嘘が分かる人間なので。
湊が顳顬を押さえながら言った。
「眠くて頭が働かないから、原始的に行こう」
「どうするんだ?」
「お客さんをご案内して差し上げて」
「生きてりゃ良いか?」
「That's good enough」
湊が猫みたいに欠伸をした。
捕縛は苦手だ。成功するまでどのくらい掛かるだろう。日が昇るまでに二、三人捕まえられたら御の字だ。
侑が屈伸していると、湊がアーティラに言った。
「うちの事務所に招待するよ。目の醒めるハーブティーを御馳走しよう」
眠そうな顔で、湊が微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます