⑹轍鮒の急

「お前、夢はあるか?」

「夢?」




 侑が尋ねた時、湊は子犬みたいな目を瞬いた。

 カジノの外に出ると、空はもう暗かった。濡れたようなアスファルトを下品なフィラメントが照らしている。吹き荒ぶ木枯しが身に染みて、自然と背中が丸まった。


 カジノのレストランでデザートのミルクプリンを食べてから、侑は湊と共に店を出た。ムラトとアーティラが宿泊すると言うホテルまで車で送る予定だった。


 支度をして来ると言う二人を待ちながら、侑の口からはそんな問いが零れ落ちた。答えは期待していなかった。


 弟が死んだのは、半年くらい前のことだった。

 或る犯罪組織が、孤児を対象に違法薬物の人体実験を行なっていた。侑と弟の新はその被験者だった。


 侑は薬物の出所を調べる為に弟を施設に置いて裏社会に飛び込み、公安の暗殺者として手を汚して来た。湊と出会ったのも、その頃だった。


 出会った頃の湊は、ハヤブサと呼ばれる殺し屋の元で事務員をしていた。同じ業界で現場が重なる度に戦闘になり、湊の脇腹に風穴を開けたこともある。


 湊と新が親しい友達だったことを知ったのも、その頃だったと思う。新は自分を追い掛けて、殺し屋となって裏社会までやって来てしまった。侑は追い縋る弟を突き放し、自分を呼ぶ声に応えてやれなかった。


 天神新。

 俺のたった一人の弟。まだ、21歳だった。

 笑っていて欲しかったんだ。幸せになって欲しかった。

 生きていてくれたなら、他には何もいらなかった。


 自分達に投与されていた薬物は脳を破壊し、人を操り人形に変える悪魔の薬だった。一度破壊された脳は元に戻らない。侑よりも長い間、薬を投与されていた弟は進行が早かった。


 湊は侑よりも早く正確に違法薬物の出所や成分を調べ上げ、緩和剤を作った。けれど、完成した頃には新の脳は破壊され、手の施しようが無かった。


 脳を破壊され、人格を失くし、犯罪組織の操り人形となった弟。そんな状態にありながら、新は湊を庇って死んだ。体に空いた無数の穴と、血と硝煙の臭いを今も覚えている。


 弟が死んだ時、湊が泣いていた。

 血塗れの弟に縋り、何度も何度もその名を呼んだ。


 あの時、俺はどうすれば良かったのか。

 弟を置いて行かなければ、応えていれば、何か違う結末があったのか。そんな後悔が悪夢のように蘇る。




「夢か……」




 湊は顎に指を添えて俯いた。まるで事件現場を検分する警察官のようだ。そして、ぱっと顔を上げた湊は、蕩けるような笑顔を浮かべていた。




「侑が心から幸せな未来を見てみたい」




 闇の中にぽっと光が灯ったようだった。それは辺りの闇を優しく照らしながら、熱を分け与えて行く。

 湊の横顔は青いフィラメントで照らされ、まるで死人のようだった。けれど、その瞳に宿る命の光が、生きていると鮮烈に訴え掛ける。


 嫌な緊張が解けて、腹の底から可笑しさが込み上げて来る。




「なんだ、それ」

「はは」




 湊は、悪戯が成功した子供みたいに嬉しそうに笑っていた。

 何故だか、笑えてしまって、――泣けてしまって。

 侑は誤魔化すように目を背けた。




「ねぇ、侑。俺は夜明けを知っている。侑が夜の闇に迷う時は、俺が必ず迎えに行くよ」




 湊の言葉は、温かくて、綺麗で、まるで息を溢すみたいに惜し気も無く零れ落ちる。同情や憎悪、呪いの言葉は腐る程に浴びて来た。この手は血塗れで、たった一人の弟すら守れなかった。


 だけど、それでも。


 自分を必要としてくれる人がいる。代用品ではなく、一人の人間としての自分を当たり前みたいに迎え入れてくれる。それがどれ程、得難く幸福であるか。


 侑は鼻を啜り、湊を見詰めた。

 湊は穏やかに微笑んでいる。




「頼りにしてるぜ、相棒」




 侑が言えば、湊は擽ったそうに笑った。













 3.熱砂の宝玉

 ⑹轍鮒之急てっぷのきゅう












 空気が凍り付いてしまったかのように静かな夜だった。

 侑は愛車のポルシェを駐車場から引っ張り出し、目的地のホテルに向けて高速道路に乗った。助手席では湊がナビをして、後部座席にムラトとアーティラがいる。


 高速道路は混んでいなかった。遠くに光るテールランプが、まるで熱帯魚のように泳ぎ回る。気を抜くとスピードメーターを振り切る勢いでアクセルを踏んでしまうので、侑は小まめに速度を確認した。


 車窓をぼんやりと眺めていた湊が、欠伸を噛み殺しながら言った。




「本を読んで良い?」

「目、悪くなるぞ」

「眠くて堪らないんだ」




 湊は大欠伸をした。

 基本的に早寝早起きの子供なので、本当に眠いのだろう。侑はカーナビを確認した。目的地まであと三十分程度ある。




「寝てて良いぞ。着いたら起こしてやる」

「そう? 悪い……」




 言いながら、湊は眠ってしまった。

 珍しいな、と思った。仕事中に仮眠なんて取ったことが無いのだ。フロントミラーを見ると、後部座席はムラトが眠っていた。アーティラに寄り掛かるその寝顔は幼く見えた。


 車の中は二人分の寝息とエンジン、エアコンの音が響くだけで静かだった。侑は何となく有線ラジオを付けた。

 激しいギターと巧みなピアノのメロディが車内の沈黙を埋めて行く。クイーンの名曲、Father To Sonだった。侑は音楽をよく知らないが、偶に湊が口ずさむのだ。


 ハンドルを握った指先が自然とリズムを叩く。

 大切なものが手の届く所にあって、健やかに寝息を立てている。此処には銃声も血塗れの刃も届かない。


 侑が心から幸せな未来を見てみたい。

 湊の澄んだ声が、フレディ・マーキュリーの歌声に重なって聞こえる。腹は減っている筈なのに、不思議と悪くない気分だった。




「……貴方にとって、その子は何?」




 後部座席から聞こえた声は、無感情に乾いていた。

 侑はフロントミラーを見た。暗い後部座席で、黒い瞳が煌々と輝いている。何かに似ていると思うのに、それが何なのか思い出せない。侑は左車線に移動し、ウインカーを切った。


 言語化は難しい。

 命より大切なもの、守るべき存在、友達、相棒。

 どんな名前を付けたって自分達の関係を適切に表現出来るとは思わない。だけど、改めて考えて、侑は自分の中に一つの結論を出した。




「この子は、弟の形見だ」




 脳を破壊され、人格すら保てなかった弟が、命を懸けて守った人間。弟の為に唯一泣いてくれた子供。自分がやるべきだったことを肩代わりしてくれた、罪の証。




「幸せでいて欲しい。笑っていて欲しい。生きていて欲しい。ただ、そう思う」




 弟の代用品とは思わない。ただ、笑っていて欲しいと思う。弟の亡骸の側で声を枯らして泣いていた姿が、今も目蓋の裏に蘇る。何処かで違う選択をしていれば、弟は今も生きていて、この子は明るい未来を捨てずにいられたんじゃないか。


 そんな不毛な後悔が、楔のように胸の中に突き刺さっている。湊が聞いたら怒るだろうか。それとも、笑うだろうか。


 アーティラは何も言わなかった。

 料金所が近付いて来たので、速度を落とした。運転は慎重に。事故が起きた時、真っ先に死ぬのは助手席だと言う。




「アンタはどうなの」




 答えても答えなくても良かった。アーティラという女がどういう人間で、どんなイデオロギーを持ち、何を望んでいるのかなんて関係も無い。ただ、訊いてみたいと思った。


 アーティラは少し沈黙して、そっと口を開いた。




「……私の家系は、ラフィティ家に代々仕えているわ。ムラト様の従者になれたのは幸運だった」

「まあ、そうなのかもな」

「この人は、私達を対等に見てる。まるで友達みたいに接する。……だから、時々、苦しくなる」




 それは何となく、分かる気がした。

 ムラトとアーティラは主人と従者の関係で、生涯それは覆ることは無い。幼馴染のように育ちながらも、其処には歴然とした身分の差があり、ムラトが対等に接しても周囲はそれを許さない。




「ムラトの言うクーデターについては、どうなんだ?」

「はっきり言って、夢物語よ。新しい価値観は新しい争いを生むだけで、例え成功したとしても、定着には時間が掛かる」




 アーティラは流れ行く車窓の景色を眺めていた。その黒曜石のような瞳には、何が映るのだろう。身分に囚われて未来すら選べない窮屈な人生か、それとも、何も変わらない箱庭のような社会か。




「……でも、ムラト様なら何か出来るんじゃないかって期待してしまう」




 愚かでしょう、とアーティラは皮肉っぽく笑った。

 侑は、笑わなかった。人間とは期待する生き物で、どんなに深い絶望の底でも希望の光を信じたくなる。その習性を愚かと笑える程、侑は割り切って生きていない。


 侑が口を開き掛けた、その時だった。

 嫌な予感が稲妻のように体を突き抜けて、殆ど反射的にハンドルを切った。タイヤの擦れる甲高い音が夜空に響き渡り、車内が船の中みたいに激しく揺れた。


 後部座席ではアーティラがムラトを抱え、助手席からは湊が窓硝子に額を打ち付ける鈍い音がした。




「Ou!! What’s happening?!」




 額を赤くした湊が素っ頓狂な声を上げる。

 説明する暇は無かった。




「掴まってろ!!」




 侑がアクセルを踏んだその瞬間、タイヤが勢いよく横に滑った。ハンドルが言うことを利かない。胸騒ぎが大きな波となって何もかもを呑み込もうとしているみたいだった。


 乾いた音が二つして、フロントガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走る。狙撃されている。初弾は駆動輪を撃ち抜かれたらしい。




「湊、逃げるぞ!」




 目を白黒させている湊の腕を引っ掴む。その間も襲撃は止まず、硝子が弾けて散って行く。エンジンを撃ち抜かれたら車ごと爆発して全員丸焦げだ。こんな所で死ぬつもりも、死なせるつもりも無い。




「まさか、ハヤブサ?」




 アーティラが忌々しげに言った。

 ハヤブサはこの国の英雄だ。裏社会の抑止力と呼ばれる最速のヒットマンで、狙撃のスペシャリストである。侑も湊も本人と面識があるが、中東の大富豪にまで名前が知れ渡っているとは思わなかった。


 シートベルトを外しながら、湊がきっぱりと否定した。




「ハヤブサなら、初弾で侑の眉間を撃ち抜いてるよ」




 侑は舌を打った。

 腹立たしいが、その通りだ。ハヤブサなら態々車を狙わず、獲物だけを仕留めている。

 フロントガラスは防弾のものを使っているが、相手の銃の性能の方が良いらしい。侑は懐に手を伸ばし、マカロフを握った。


 高速道路の非常口が見える。

 侑は頭を伏せて装填を確認した。




「俺が残って引き付ける。その隙にお前等は非常口まで走れ」

「Don't do it!」




 湊が寝起きとは思えないしゃっきりとした顔付きで言った。




「それじゃ向こうの思う壺だ」

「じゃあどうすんだ?!」




 侑は声を荒げた。

 銃撃は続いている。このままじゃ車ごと爆発して、四人仲良くお空の星だ。敵が何者なのか、何処にいるのかも分からない。


 湊はダッシュボードの下に頭を隠しながら、引き攣った顔で微笑んだ。




「俺のこと、信じてくれる?」




 なんだそりゃ。

 侑は怒鳴った。




「さっさとやれ!!」




 I got this!

 不敵に笑った湊が、シートを乗り越えてアクセルを思い切り踏んだ。途端、ポルシェはロケットみたいな推進力で、蛇行しながら走り出した。遊園地のコーヒーカップみたいに車内が揺れる。後部座席からアーティラの悲鳴がする。


 銃弾の雨を浴びたポルシェに火が点いて、ゴムの焼ける音とガソリンの臭いが鼻を突く。湊はダッシュボードの下から方向も見ずにハンドルを握り、アクセルを踏み続けていた。


 湊が何をしようとしているのか、侑にも分かった。

 侑はハンドルを奪い取り、扉のロックを解除した。ガソリンに引火するまであと数秒。前方には人気の無い料金所があった。




「俺がカウントを取る。一斉に飛び出すぞ!」




 湊が叫んだ。




「3、2、1――Go!!」




 侑は背中で扉を押し開け、車外に飛び出した。ガソリンに引火したポルシェが料金所に突っ込んで、まるで花火みたいに爆発した。夜の闇が真っ赤に照らされ、地震みたいに地面が揺れる。


 侑はすぐに体勢を整えて、燃え盛る料金所の影に隠れた。ムラトを抱えたアーティラが、黒い拳銃を握っていた。

 湊がいないと思ったら、爆発の風圧で防音壁まで吹っ飛ばされたらしく、芋虫のように蹲っている。


 迎えに行くのは、不味い。

 狙い撃ちされる。




「湊、こっちだ!」




 湊が顔を上げた。煤だらけの酷い顔である。

 単発の銃声が聞こえ、侑は敵を探した。後方に黒いハイエース。銃を構えた男が見える。日本人じゃない。侑は狙いを定め、フロントガラスへ発砲した。


 ハイエースは急ブレーキを踏んで、火花を散らしながらそのまま横転した。ガソリンが流れ出し、爆発音が轟く。


 初弾は前方から撃たれていた。まだ、敵がいる。侑は周囲を見渡し、寂れたビルの屋上に夜の闇に紛れた襲撃犯を見付けた。高みの見物とは良い御身分じゃないか。


 湊の位置は丁度死角だ。マカロフでは届かない。

 殺し切れない。

 臍を噛むような焦燥を呑み込み、侑は声を上げる。




「やっぱり、動くな!」

「Which one is it!!」




 湊が癇癪を起こしたみたいに叫んだ。

 その姿を見ていたら何だか肩の力が抜けて、侑は笑ってしまった。


 深追いするのは、不味いか?

 湊を置いて行って良いのか。ムラトは、アーティラは?

 逡巡の最中、湊が叫んだ。




「行け!」




 湊が挑発的な笑顔を浮かべ、サムズアップした。丸腰、煤だらけ、酷い顔。だが、侑は笑って頷いた。


 そう来なきゃな。

 侑はマカロフを片手に、夜の闇の中へ走り出した。

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