⑸糸口
社会通念と言うものは、兎に角、面倒だった。
男尊女卑だとか、年功序列だとか、挨拶だとか。意味の分からない暗黙の掟が大嫌いで、特にコミニュケーションという影も形も無いのに重要視されている能力や、それを有難がる輩には生理的な嫌悪感すら覚えた。
食事は好きなものを食べられる時に、睡眠は安全な場所で一人ゆっくり。湊と一緒にいるようになって、侑が生きて行く中で築いて来た幾つかのルーティンは、まるで蝋のように溶かされていた。それでも、決して嫌悪感が無い訳ではなく。――何が言いたいかと言うと、侑は会食が腹の底から大嫌いだった。
「顰めっ面すんなよ」
眉を寄せた湊が、宥めるように言った。
侑は、カジノのVIP御用達のレストランの個室にいた。
白いテーブルクロスには染み一つ無く、訓練されたウェイターが忠犬のように待機する。店内は薄暗く、まるで独房のような印象を与えた。
ムラトが夕食を御馳走してくれると言った時から、憂鬱だったのだ。侑には、よく知りもしない他人と食事して喜ぶ趣味は無かった。それでも、止むに止まれぬ理由があって、断り切れなくて参加することもあるが、そういう時は食欲が失せるのだ。
「苦手なものでも?」
アーティラが尋ねた。
侑は返答に迷った。お前等の顔を見ながら食事するのが嫌なんだ、なんて言える筈も無い。
「香辛料が嫌なんだよな?」
有無を言わさぬ笑顔で、湊が言った。勿論、嘘だ。
逃れる術が無いことを悟り、侑は席に着いた。喉の奥が痺れて、吐き気すらした。他人と話すこと自体は如何とも思わないが、一緒に食事となると気分が悪くなるのは何故なんだろう。
「苦手な物があったら遠慮無く言ってくれ。シェフにも伝える」
ムラトが明るく言った。
こいつも、馬鹿なのか切れ者なのか分からない。微かに漂う香辛料の臭いに気が遠くなる。航の料理は美味かったな、なんて現実逃避をしていたら、見たことも無い茶褐色の民族料理が運ばれて来た。
どうやって食べるのかも分からない。
エプロンも着けずに黙っていたら、湊が漸く助け舟を出してくれた。
「侑は香辛料にアレルギーがあるんだ。車の中に弁当があるから、後でそれを食べるんだよな?」
感心する程、よく回る口である。当然、それも嘘だ。
湊の嘘や誤魔化しは御粗末だが、タイミングが絶妙なので疑う隙が無いのである。
ムラトは気の毒そうに表情を曇らせ、アーティラに声を掛けた。
「アレルギーを除去した食事も出せるだろ? 一人だけ食べられないなんて、可哀想だ」
「……侑は最近まで胃を痛めていたから」
湊が死んだ笑顔で言った。細められた目は微塵も笑っていない。善意の押し売りと言うものを久しぶりに見た。これだけ鈍感なのは一種の才能なのかも知れない。
侑は湊に話を合わせた。
「いや、お気遣い無く。折角なのに、悪いな」
「胃に優しいアレルギー対応のお料理も提供出来ますよ?」
アーティラが嫌味な程、綺麗な笑顔で言った。
恐らく、この女は分かって言っている。腹の底で殺意が俄かに顔を出すが、湊が間に入った。
「それは素晴らしいですね。是非、シェフにもお会いしてみたいのですが」
話を逸らしてくれた湊が、天使のように見えた。ムラトは太陽のように顔を明るくして、誇らしげに言った。
「シェフなら目の前にいるじゃないか」
湊は目を瞬いた。ムラトの視線の先には、マネキンのように佇むアーティラがいる。
アーティラの料理は美味いぞ、とムラトが胸を張った。
「アーティラは何でも出来るすごい奴なんだ。料理も上手いし、仕事の手際も良いし、俺のことをいつも助けてくれているんだ」
なんだか、よく分からない奴だな。
侑は肩を落とした。ムラトは母国の身分階級を失くしたいと言っている癖に、生活は従者に頼りきりである。クーデターが成功したとして、生活能力が無ければ治安の悪い中東では生きて行けないのではないだろうか。
「侑は窓口係って言ってたな。どんなことが出来るんだ?」
宝石のような青い瞳が無邪気に問い掛ける。
こいつ、苦手だ。侑は素直にそう思った。悪人ではないのだろうし、言動も善意によるものだ。だが、何というか、好きになれない。
湊は、子供に言い聞かせるみたいにゆっくりと言った。
「侑の凄さを教えることは出来ないな。欲しがられたら困るから」
こいつ、凄いな。
侑は感服した。何の情報も与えず、しかも誰も傷付けない。一般世間では如何か知らないが、侑の周りには余りいなかったタイプの人間である。
扉の向こうに気配を感じ、侑は振り向いた。程無くして控えめな断りの声がして、ウェイターが現れた。香辛料の独特な臭いが立ち込める。
テーブルの上は、食べ切れない程の高級料理が並べられ、正に怠惰な上流階級と言った様相を呈していた。侑の前に置かれた羊肉の生タタキは、湊の前に流した。二人分くらいは余裕で食べるので大丈夫だろう。
「エンジェル・リードの噂は聞いてるぜ」
レンズ豆のスープを口へ運びながら、ムラトが言った。
見た目はトマトスープのようだが、檸檬が添えられており、味が全く予想出来ない。湊は肉を挟んだ平たいパンをカジュアルに齧った。
「あんまり良い噂じゃなさそうだね」
「そうか?」
ムラトはフラットな口調だった。
エンジェル・リードは表向き、芸術方面の投資家だが、実際は何でも屋だ。湊や航が厄介事に巻き込まれる度に、もう辞めちまえばと言いそうになる。航は兎も角、湊と侑は一般社会での生活を捨ててしまっているので、エンジェル・リードという立場が無いと不便なのだ。
「エンジェル・リードの情報網は素晴らしいって、俺の親父も言ってたぜ」
侑は曖昧に相槌を打った。
自分達は情報屋でも無ければ工作員でも無い。そんな所を評価されても困る。湊がよく容姿を褒められて微妙な顔をしているが、同じことなのだろう。
「お前って何者なの? 何の為にこんなことやってんの?」
「うーん」
湊はパンを咀嚼しながら、唸った。
それを飲み下した時、まるで子供の我儘に呆れたような顔をしていた。
「ムラトは、ゲームは好きかい?」
「ゲーム? 大好きだぜ!」
「ダンスは? 読書は? スポーツは?」
「全部好きだ!」
「俺もそう。楽しいことが大好きなんだ」
湊はナフキンで口元を拭うと、静かに微笑んだ。
「俺は今、ゲームをしているんだ。世界を相手にしたポーカーさ。最高にわくわくするだろ?」
湊は悪戯っぽく笑った。
ムラトと相対すると、湊が年上に見えるのが不思議だった。しかし、言っていることは狂人のそれである。湊はちょっと頭がおかしいのがデフォルトなので、侑は聞き流した。
その時、アーティラがムラトに囁いた。
「デザートの準備をして参ります」
「ああ! 宜しくな!」
アーティラは足音も無く歩き出した。
退出する刹那、目が合った気がした。それは侑にとってとても身近な感情の篭った眼差しだった。
3.熱砂の宝玉
⑷糸口
「彼女との付き合いは長いの?」
二人分の魚料理を完食した湊が、涼しい顔で言った。
変な言い回しだな、と侑は思った。ムラトとアーティラは主人と従者らしいが、湊の言い方だと男女関係にあるみたいだ。
「アーティラのことか? 幼馴染みたいなもんだよ。同い年なんだぜ」
ムラトが嬉しそうに言った。
この青年は、アーティラのことを自分のことみたいに嬉しそうに話す。それだけ信頼があるのだろうと思っていたら、実践もあるらしい。
しかも、同い年と言うことは19歳だ。
未成年とは思わなかった。侑は隣に座る湊を見下ろした。
思えば、自分も湊のプライベートな話を聞いたことが殆ど無い。彼の双子の弟は訊けば教えてくれるが、湊から聞いた覚えが無かった。
「アーティラの家系は、代々ラフィティ家に仕えてくれてるんだ」
侑は、同情の念が禁じ得なかった。
アーティラは、ムラトと同い年で異性だ。メイドのような仕事だけではなく、身辺の世話までする。幼馴染と言うことは、それなりに幼い頃からその仕事に従事して来たのだろう。
「毒味も、彼女の仕事?」
湊が訊いた。無関心に近い淡白な口調だった。
ムラトは腕を組み、困ったみたいに唸った。
「そうなんだよ。俺、昔から食事に毒を盛られたり、誘拐されたりしててさ」
ぞっとする話だった。
ムラトが日常の愚痴みたいに話しているのが信じられない。
「アーティラがよく助けてくれたんだ。……でも、毒味をしたアーティラが倒れたことがあってな、俺は生きた心地がしなかった」
ムラトの声は掠れていた。
「俺の国は一夫多妻制でな、兄弟が二十人くらいいるんだ。まだ赤ん坊もいる。そいつ等の母親が俺を暗殺したがってるんだ」
「後継者争いって奴か」
侑が言うと、ムラトは頷いた。
「俺は今更如何とも思わないが、兄弟達が同じ目に遭わされるのは、嫌だ」
ムラトの青い瞳が、灯火のように揺れる。
後継者争いに暗殺。近世では聞かないくらいには血腥い話だ。その中で呑気に笑っていられるのは、何故なんだろう。
どうして、憎まないのか。
侑には、それが不思議だった。彼だって望んで大富豪の息子に生まれた訳じゃないし、好きで暗殺され掛けている訳でもない。
「アーティラさんが、大切なんだね」
湊が、優しく言った。
ムラトは苦笑し、肯定した。
「俺には許婚が五人いて、成人祝いはハレムだしな。俺がアーティラにしてやれることは少ないんだ」
助けられてばかりだし、とムラトは苦く笑った。
それで、クーデターか。侑は納得した。この青年は周りの人間を分け隔てなく愛し、その為に尽力している。元々の気性が明るく朗らかなので気付き難いが、相応の地獄を背負っている。
「アーティラは凄い奴なんだ。俺みたいな奴の側で暗殺に巻き込まれるより、もっと自由に生きられる世界がある筈だ」
ムラトの声には、芯がある。それは容易く折ることは出来ない強固な信念だ。難しいことを考えるのは好きではないが、きっとムラトのような人間がトップにいれば、世界は少しだけ優しくなるのではないだろうか。
クーデターと言うのも、侑が想像するような過激なものではないのだ。彼の国は絶対君主制国家だ。国王が身分階級を失くすと宣言すれば、身分に縛られた人々は解放される。そういう会談に持ち込めるだけの土台が彼にはある。
湊は全てを許容するかのように微笑み、机に肘を突いた。
「クーデターは、ムラトの発案なの?」
「まあな。うちに出入りしてるアジアの商人が、革命の話をしてくれて、うちもそうなれば良いと思ったんだ」
湊は、へぇ、と相槌を打った。
濃褐色の瞳に冷たい光が浮かび、瞬きと共に消える。
「どんな人?」
「ええっと、俺はあんまり親しくないんだよな。そんなに頻繁に来る訳でもないし」
ムラトは脳内の記憶を引っ繰り返すみたいに頭を抱えた。
湊は急かさないし、ヒントも与えない。ムラト自身から真実を聞こうとしている。
「金髪の女で、目はヘーゼルだったな。俺より少し背が高くて、確か、蛍って呼ばれてた」
侑は拳を握った。湊の口元が釣り上がっているのが分かる。
来栖凪沙を唆し、エンジェル・リードに泥を塗った女。開拓者と呼ばれる武器商人。やはり、ラフィティ家に潜入していた。
一気にきな臭くなって来た。
ムラトの言うクーデターがパスファインダーの差し金ならば、無血革命とは行かないだろう。武器を売る為に戦火は広がって行く。
湊が視線を送って来る。
侑は頷いた。何も言うべきではない。湊は肉料理にフォークを突き刺して、話題を変えた。
「ところで、この料理とっても美味しいね。気に入ったよ。もっと食べたいな」
「そりゃ嬉しいな。そんなら、次は俺の国に招待するよ」
ムラトは母国の料理について熱く語り始めた。
丁度その時、音も無く扉が開いて、皿を持ったアーティラがやって来た。三人が揃って目を向けたので、アーティラは驚いたようだった。
「どうかしました?」
「いいや、何でも?」
ムラトは楽しそうに笑っていた。
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