⑷勝負師

「くだらない」




 湊は氷のような冷たい眼差しをしていた。背筋を凛と伸ばし、細い指先が手元にあるチップを引き寄せる。まるで、上等な手品を見ているかのように視線が惹き付けられ、言葉が出て来ない。


 一挙手一投足が死に直結する。

 ひり付くような緊張の最中、湊は僅かに目を上げた。




「君の物差しで、何でも測れると思うなよ」




 侑は、口角が吊り上がるのを抑え切れなかった。ドブの中からダイヤモンドを見付けたかのような興奮が、肌一面を粟立てる。


 湊が目を上げた時、アーティラを始めとしたムラトの配下が身構えた。怜悧な眼差しは、研ぎ澄まされた刃に似ている。湊は丸腰であるにも関わらず、周囲は銃乱射犯でも取り押さえるかのような物々しい雰囲気だった。




「波を作るのが商人なら、乗りこなすのが勝負師だ。……俺はサーフィンも得意でね。板一枚あれば、どんな波も乗りこなしてみせる」




 湊の目には青い炎が映っていた。それは全てを燃やし尽くす狂気の炎だ。湊は口唇を歪め、意味ありげに嘲笑った。




「オールイン」




 チップを丸ごと差し出して、湊が笑った。

 ムラトの眉が跳ねる。オールインは全てのチップを賭けることで、勝てば勝負を引っ繰り返せるが、負ければ全てを失う危険な賭けだった。




「貴方が勝ったら、望むものをあげる。だけど、俺が勝ったら……そうだな。取り敢えず、君にはそのサングラスを外してもらおうか」




 湊はサングラスを指差して、挑発的に言った。


 掛金全てを賭けて、願うのはムラトの素顔。

 それが対価に見合っているのか、侑には分からない。ムラトは可笑しくて堪らないみたいに声を上げて笑った。




「良いぜ! 俺はコールだ!」




 愉しませてくれよ、とムラトが言う。

 オールインに対戦者がコールを宣告した場合、ショウダウンと言って全カードがオープンになり、勝敗が決まる。ディーラーの顔に初めて、焦りや緊張が走る。その指先が伏せられたカードを捲ろうとした時、湊が言った。




「そのカードは、ムラトが開けろ。イカサマはもう沢山だ」




 ディーラーの顔が歪む。

 やはり、イカサマか。侑は拳を握った。

 ムラトはまるで寝耳に水といった調子で目を丸めた。しかと頷く横顔は真剣そのもので、本当に何も分かっていなかったかのようだった。


 褐色の指先が最後のカードを捲る。

 一瞬の沈黙が、まるで永遠のように思えた。テーブルではダイヤのクイーンが微笑んでいた。


 ショウダウン。ムラトが手札を広げて見せた。全てダイヤで揃えられたストレートフラッシュ。二度目だ。魔法使いでも無ければ、こんなことが起こる筈が無い。


 湊は結んだ唇に微かな笑みを浮かべ、手札を並べた。

 スペードのジャック、スペードのエース。


 そんな馬鹿な。

 ディーラーが驚嘆混じりの声を上げる。




「ロイヤルストレートフラッシュ……!」




 それは、ポーカーでは最強の役とされる。

 ロイヤルストレートフラッシュが出る確率は、0.00015%である。――これは、もしかすると。


 湊は不敵に笑い、王様みたいにどっしりとソファに背を預けた。




「さあ、君の素顔を見せてもらおうか」












 3.熱砂の宝玉

 ⑷勝負師













「俺の負けだな」



 開示されたトランプカード、山積みのチップ。厳しいガードマンと従者に囲まれた青年が微笑みながらサングラスへ手を伸ばす。


 真っ赤なマニキュアが室内灯を鋭く反射する。サングラスが取り放される数瞬が、まるで映画のワンシーンみたいにコマ送りに見えた。


 鈴のようにくりっとした双眸は、ローマングラスを彷彿とさせる美しい青色をしていた。自然と嘆息が漏れる。それはまるで、深い海の底に差し込んだ光のように柔らかく、宝石のように透き通っている。


 中東の大富豪の長男、ムラト・ラフィティは、その肩書きからは想像も付かない幼い顔立ちをしていた。




「綺麗な目だね」




 湊は驚いたみたいに目を瞬いた。

 これまで、ムラトは頑なにサングラスを取らなかった。見る者を惹き付けるこの印象的な瞳は、確かに衆目に晒すべきではない。




「ムラト様の瞳は、熱砂の宝玉と呼ばれています」




 抑揚の無い声で、アーティラが言った。

 呼称に負けない綺麗な瞳だ。光の反射で深い藍色から、エメラルドグリーンにも見える。ムラトは青い瞳を僅かに細め、人払いをした。




「さっきは失礼なことを言って悪かったな」




 そう言って、ムラトは眉を下げた。




「取引をする前に、君がどういう人間なのか確かめたかったんだ」

「取引?」




 湊は首を捻った。

 この子は他人の嘘や隠し事を見抜けるが、真実が分かる訳ではないのだ。つくづく、厄介な性質である。


 ムラトはテーブルに肘を突くと、アーティラに何か声を掛けた。中東の言語は分からないが、恐らく、盗聴を疑っている。彼等の警戒を見る限り、ろくな取引ではないだろう。




「俺には夢がある」




 ムラトが言った。その口調は穏やかであるのに、まるで炎に炙られているかのような焦燥を感じさせる。




「俺の国には身分階級というものが存在していて、生まれた時から変わることは無い。どれだけ優秀であっても、下民は一生下民で終わり、上民であれば愚か者であっても罰を受けることは無い」

「……クーデターか?」




 言葉の先をさらって侑が訊ねると、ムラトは肯定するように微笑んだ。侑には理解出来なかった。ムラトは生まれた時から勝ち組で、下々の者に心を砕く必要も無い。それなのに、何故?




「俺の親友は、貧困層の生まれだった。アーティラもまた従者の家系に生まれ、死ぬまで仕えることが決まっている」




 アーティラは、何も言わなかった。

 ムラトの熱っぽい言葉の影で、アーティラの瞳ばかりが暗く淀んで行く。




「俺はその世界を変えたい。親友やアーティラの未来を守りたいんだ」




 侑には、他人の嘘は分からない。それでも、ムラトの言葉には何か信じてみたくなる熱がある。リーダーの資質、カリスマ性。青い瞳の奥に燦然と輝く炎がある。


 湊はソファに凭れたまま、苦い顔をしていた。




「志は立派だけど、貴方はその為に何を支払うの?」




 この世は等価交換。何かを得る為には失わなければならない。ムラトの目指す輝かしい理想論の裏で、何が失われるのか。湊は歌うような悠長な口調で、首を傾けた。




「変化には代償が要る。クーデターが起これば、ラフィティ家は真っ先に攻撃されるだろう。その時に、貴方は家族を、仲間を守れるのかい?」

「その為に、君達の力を借りたいんだ」




 どういうことだ。

 中東のクーデターにどうして自分達が必要なのか。

 侑が答えを導き出す寸前、湊が言った。




「俺達に踏み台になれと?」




 ムラトは、答えなかった。

 エンジェル・リードは若い投資家で、貧富格差の大きいムラトの母国では目の仇にされる存在だ。そんな人間が介入すれば、矛先は此方に向く。


 彼等が欲しいのは、生贄だ。

 攻撃され、損失しても痛手とならない無関係の他人が欲しかった。




「ふざけんな」




 侑は低く唸った。

 こんな取引は到底受け入れられない。

 ムラトはそれを想定していたかのように、余裕に満ちた声で言った。




「しかし、君達にもメリットはある」




 侑は奥歯を噛み締めた。エンジェル・リードには土台が無い。いざと言う時に立ち回る為のコネクションも、守ってくれる後ろ盾も無い。自分達はラフィティ家とのコネクションが欲しい。


 取引の優位性は、今も尚、崩れない。


 どちらを選ぶ?

 侑は、湊を見遣った。この子が選ぶのならば、地獄でも付いて行く。罵詈雑言や銃弾の雨からも守ってみせる。だけど、それは本当に最善なのか。




「俺と君はよく似ている」




 ムラトの青い瞳が射抜くように見詰めて来る。




「老いることは誰にでも出来る。どんな偉人もいつかは死ぬ。それは時代も同じことだ」

「俺の両親は老いる前に死んだよ。天寿を全う出来るなんて幸運じゃないか」

「……それは、お気の毒に」

「同情される謂れはないよ。時代はサイクル、命は代謝。世界が順調に進んでいる証拠だ」




 湊という青年は、本当にタフな人間である。

 自分の境遇を嘆いたり、他人を羨んだりしない。それが冷酷に見えることもあるけれど、侑はその覚悟を認めている。


 湊はおもむろに、テーブルに広げられたトランプカードを掻き集めた。流れるような手付きで纏めると、一つの山札として中央に置いた。




「支配も革命も人の歴史だ。大義名分を手に入れた人間は、簡単に命を投げ出す。……君はどうだい?」




 湊は肩を竦め、戯けて言った。




「俺達は正義の味方でもなければ、慈善事業をしているのでもない。俺を使いたきゃ相応の報酬を寄越せよ。君も商人の息子なら、分かるだろ?」




 ムラトは朗らかに笑った。

 堅固な優位性はいつの間にか消え、今の二人は対等な立場で話をしている。アーティラばかりが訝しむように睨むのが、滑稽だった。


 湊は不躾に指を突き付け、嘲笑った。




公平フェアな取引をしようぜ、ムラト・ラフィティ。俺達はアンタの踏み台じゃない」




 侑は、息を逃すようにして笑った。拍手すら送りたかった。

 挑発されて、使われるだけの男ではないだろう。裏社会の海千山千の曲者と渡り合うには、例え虚勢でも胸を張るべきだ。


 ムラトは愉しそうに笑うと、右手を差し出した。武器の気配は無い。殺意や害意も感じられない。




「良いぜ、取引成立だな」




 湊は息を吐くようにして笑って、その手を取った。

 身分も立場も違う異国の青年が握手を交わす。打算と策略に塗れた上辺だけの口約だったとしても、それは確かに交わされたのだ。


 胸を突き上げるような感覚があった。侑には、それが何なのか分からない。分からないが、まるで歴史的な瞬間を見たような、形容し難い興奮が胸の中に広がって行く。




「夕食はご馳走させてくれ」




 そう言って、ムラトは微笑んだ。侑は顔を顰めた。

 多分、悪い人間ではない。だが、無策でも無い。この青年は、道化を演じることが出来る切れ者だ。


 夕食の準備だとムラトが席を立つ。アーティラは無言だった。二人が部屋を出る刹那、彼女の黒曜石のような瞳が部屋の中を見遣った。まるで、汚らわしいものでも見るような嫌な目付きだった。


 扉が閉じた後、湊が盛大に溜息を吐いた。侑はソファの背凭れに腰を下ろし、一戦終えたボスの後頭部を眺めた。




「さっきのポーカー、イカサマか?」

「バレてた?」




 ソファの背に頭を預け、湊が苦く笑う。侑からは丁度、見下ろす形だった。湊は「あーあ」と声を漏らして、カードを見遣った。




「腕が鈍ったかな」




 やっぱりな、と侑も笑った。

 湊が最後に出したロイヤルストレートフラッシュは、イカサマだったのだ。運良く出せる可能性もあるが、天文学的確率である。




「いつから仕込んでいたんだ?」

「最初からだけど?」




 さも当然みたいに湊が言った。

 ポーカーの席に着いた瞬間から、イカサマを仕込んでいたらしい。抜け目の無さは天下一品である。しかし、イカサマを仕込んでも湊が勝てたのはたった一回だった。




「向こうもイカサマしてたのか?」

「さあ、分かんない」

?」




 侑は復唱した。

 湊には他人の嘘が分かる筈だ。ディーラーやムラトがイカサマしていたのなら、気付いただろう。

 湊は頭の後ろで手を組むと、ぼんやりとテーブルを眺めた。




「俺に分かるのは、自覚のある嘘だけだよ。本人が自覚してなきゃ、分からない」

「どういうことだ?」

「あの連敗は不自然だった。偶然の確率じゃない。ディーラーやムラトは嘘を吐いていなかった。……考えられる可能性は、二つ」




 湊はピースサインを出した。




「一つは、ムラトが純粋に幸運だった。もう一つは、あのディーラーだけのルールがあった」

「全然意味が分かんねぇんだけど」

「つまりね、あのディーラーはムラトを勝たせることが当然だと考えていた。その為ならどんな卑怯な手段も、イカサマも許されると心から信じていた」

斟酌しんしゃくか?」

「或いは、信仰かな。……それは、俺ととても相性の悪いものだ」




 信仰。

 侑も湊も特定の宗教を信仰していない。どちらかと言えば、無神論に近い。故に、神を信じる人間の心理というものが理解出来ないのだ。




「それがラフィティ家の権力なのか、人徳なのかは分からない。でも、あのディーラーみたいな人が沢山いるとしたら、ちょっと嫌だね」

「向こうの連勝が天運だったとしても、怖いけどな」




 侑は笑って、山札を扇状に広げた。

 イカサマの痕跡はある。だが、ディーラーと湊が同様にイカサマしているにも関わらず、天秤はムラトに傾いていた。イカサマ以外の何かが働いたとしか考えられない。


 天運――。

 天から授けられた運命。

 神の見えざる手が、ムラトに勝利をもたらした?


 侑は喉の奥で笑った。神も運命も信じていない。

 湊は姿勢を戻すと、蕩けるような笑顔を見せた。




「まあ、良いさ。毒を食らわば皿までだ。御馳走の前に、軽くゲームでもしようぜ」




 そう言って、湊はカードを切った。

 侑は、トランプで遊んだことが無かった。トランプに関わらず、誰かと遊ぶなんて経験そのものが無いのだ。




「俺はルールなんて全然知らねぇぞ」

「大丈夫。難しいルールは無いからさ」




 スピードをしよう、と湊が言った。

 それがどんなゲームなのか見当も付かないが、湊が楽しそうにしているので侑は受け入れた。分からないもの、知らないものは遠去けるのではなく、学べば良い。そういうことを、侑は湊を見て知った。


 しかし、ムラト・ラフィティ――。

 妙な男である。無謀で無策に見えるのに、何もかもが予定調和のように彼の掌に収まって行く。いつか彼が継承する金銀財宝や人脈の数々は、きっと魔法に近い強大な権力となるだろう。


 彼は自分達にとって、切り札となるのか。

 それとも、ジョーカーとなるのか。

 侑には、懸念が拭い切れなかった。

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