⑶神の寵愛

 大盛りの海鮮丼を食べ終えた後、四人で店を出た。

 外は木枯らしが吹き付けており、露出した手が切り裂かれるかのようだった。侑がポケットに手を入れると、アーティラがさり気無く目を向ける。


 侑自身は疑われても、警戒されても構わなかった。

 此方もビジネスで来ている。ラフィティ家という後ろ盾を持った彼等は格上の相手であり、信頼は勝ち取るものであると知っている。




「行きたい所があるんだ」




 満たされた腹を撫でながら、ムラトが言った。

 空港で会ってから数時間経っているが、彼はサングラスを掛けたままだった。それがまるで彼の拒絶を表しているようだった。湊ばかりが不思議そうに、無邪気に訊ねる。




「どちらに?」

「最近、この国にカジノが出来ただろう? ラフィティ家も出資してるから、様子を見たいんだ」




 湊は二つ返事で了承すると、そのまま真っ直ぐにタクシー乗り場へと向かった。


 国内に出来たカジノ。

 お蔭で国内の景気は良くなったが、反比例して治安は悪化している。外国人旅行客も増え、元々排他的なこの島国の人間は異文化を受け入れるのに時間が掛かる。


 侑の所感としては、カジノ政策は失敗だったと考えている。このままでは、日本は海外の力のある商売人に操られ、金も文化も搾取されるだろう。


 同時に、このムラト・ラフィティという青年の目的も見えた。日本観光なんて銘打っているが、実際の所は現地の視察だったのだ。湊と侑が考えた観光計画は無駄だったのである。


 まるで使い走りみたいにタクシーを探す湊が憐れに思えた。

 侑はムラトとアーティラを置いて、湊の元に歩み寄った。




「大丈夫か?」




 侑が訊ねると、湊は何のことと言わんばかりに首を捻った。




「カジノは俺も興味があったんだ。警備が厳しくて入れなかったし、渡りに船って奴だろ?」




 そういえば、湊はポーカーが得意だと言っていた。地元の賭博場では、カードカウンティングが上手過ぎて出禁になっているとも聞いたことがある。


 そうじゃなくて、と侑は言い掛けて止めた。

 自分達が都合良く使われていることは、湊が誰より分かっている筈だ。此方もラフィティ家とのコネクションを築く為にムラトを接待しているようなものであり、其処にあるのは乾いた利害関係だけで、それ以上は求めてもいない。


 しかし、嫌だと思うのも事実だった。

 ラフィティ家が格上の相手で、必要なカードであったとしても、自分の認めた男がこんな使い走りみたいに扱われるのは、不愉快だった。


 侑が黙っていると、湊の濃褐色の瞳が覗き込んで来た。




「侑は優しいね。――あらたに、そっくりだ」




 湊が、泣きそうな顔で笑った。

 胸の奥が軋むように痛み、目を逸らしたいような、抱き締めたいような不思議な衝動に駆られる。


 新――天神新は、侑の実弟である。

 もうこの世にはいない。


 兄ちゃん、と幼い頃の弟の幻影が自分を呼ぶ。侑は振り返ることが出来なかった。背中に突き刺さる縋るような声と視線を振り払いながら、闇の中へ足を踏み出した。


 あの時、振り向いていたら。

 弟の手を掴んでいたら。

 そんなことを思う度に、死にたくなる。


 噛み締めていた奥歯がぎしぎしと音を立て、侑は気持ちを切り替えるように深呼吸をした。目の前に湊が立っている。自分が突き放し、最期まで掴めなかった弟の手をずっと握っていてくれて、弟の為に唯一泣いてくれた子供。


 頭の奥に靄が掛かっているみたいに、思考することが難しかった。振り返るにはまだ時間が足りず、目を逸らすには鮮烈な記憶がある。侑は湊の頭をさらりと撫でた。




「俺はお前の味方だ。どんな時も、絶対に」




 あんな思いは、もう二度と御免だ。

 湊は不思議そうに目を丸めていたけれど、タイミング良くタクシーが真横に滑り込んで来たので追及はなかった。














 3.熱砂の宝玉

 ⑶神の寵愛












 都内にオープンしたカジノは、富裕層をターゲットにした豪奢な造りだった。薄暗い店内にカードテーブルやルーレット台が設置され、スロットは整然と並んでいる。利用客は多かったが、広い店内はまるで嵐の前のような静けさに包まれている。


 天井や壁から折り返して来る豪華なシャンデリアの光線は、仄かにも眩しく見えた。立ち込めた煙草の煙は天井から照らされ、まるで海底に降り注ぐマリンスノーのような印象を受ける。スロットマシーンの下品な雑音は遠く、カジノの大広間は、丁度ラスベガスのカジノを縮小したようだった。


 アーティラはタクシーを降りると、入口を塞ぐガードマンに何か耳打ちをした。自分達の知り得ない情報が遣り取りされていることが分かる。彼女に続くようにムラト、湊、侑の順にカジノの入口を潜った。


 ムラトは店内全体を眺めていた。いつの間にか支配人らしきスーツの男が側に控えていて、傍目にも一般人でないことは明白だった。


 ポーカーテーブルで足を止めたムラトが、ターンをするように身を翻す。サングラスの向こうで、ムラトは口角を吊り上げて笑った。




「ポーカーは得意かい?」




 その問いは、湊に向けられている。

 湊は観光客みたいに店内を見渡していたが、カードテーブルを見遣ると曖昧に首を捻った。




「ルールを知っているだけですよ」




 嘘吐け、と侑は内心で罵った。

 ポーカーを初めとするカードゲームは湊の得意分野である。運要素が絡まない限り、負けたことは無い。


 ムラトは十分だよ、と微笑むと支配人に耳打ちした。

 そのまま当然のように奥のVIPルームへ案内された。其処は窓の無い小部屋で、カードテーブルだけが中央に置かれている。飴色のソファに芸術品みたいなシャンデリア、扉を守る屈強なガードマンは能面のような無表情だった。


 ポーカーテーブルには、人形のように生気を感じさせないディーラーが一人立っている。四十代前半くらいだろうか。堅苦しいスーツがシャンデリアの光を眩く反射し、現実と夢の境界を曖昧に濁して行く。


 ムラトは柔らかなソファに身を沈めると、湊を見遣った。




「ゲームをしようよ、湊」

「ゲーム?」




 湊が低い声を出す。

 砂漠の大富豪の長男が提案するゲームが、ただのお遊びだとは思えない。ポーカーとは一般的に金銭を賭けた勝負である。浴びる程の資金を持ち合わせたムラトと、最近銀行が倒産して赤字のエンジェル・リードでは勝負にならないだろう。


 湊はムラトとディーラー、ポーカーテーブルを眺め、問い掛けた。




「何を賭けますか?」

「何でも良い。お金でも、人脈でも、このカジノでも」




 このカジノそのものを賭けるというのか。

 金持ちの発想はぶっ飛んでいて理解不能だ。子供のカードゲームで、金山とも呼べるカジノを容易く手放してしまえるらしい。湊は少し俯いて、顎に指を添えた。




「貴方の目的は何ですか?」

「ゲームに参加しないプレイヤーは、手札を知ることは出来ない。そうだろう?」




 どうする?

 ムラトが挑発的に笑った。


 此処は、敵地である。圧倒的不利な状況で、支払い不可能な金額を吹っ掛けられるかも知れない。湊が負けるとは思わないが、最悪の事態は常に想定する。


 湊は顔を上げると、黙ってソファに座った。




「そう来なくちゃ」




 ムラトが子供のように、無邪気に笑う。

 ディーラーが新品のトランプを取り出してシャッフルするのを、侑はじっと観察していた。カジノのイカサマは常套手段。そもそも、ギャンブルというものは長い目で見るとカジノが儲かるように出来ているのだ。


 湊とムラトがこれからやるのは、テキサス・ホールデムというルールのポーカーらしい。


 ディーラーが場に二枚のカードを並べて開示する。プレイヤーにはそれぞれ二枚のカードが配られ、強い役が作れるかどうかを競うのだ。手札が弱ければ勝負を降りることも出来るが、その場合は配られた手札を知ることも出来ないまま敗北が確定する。


 最初は練習、とムラトが言った。

 二人は配られたカードをそっと捲って確認した。手札が弱く、勝負から降りる場合はフォールド。勝てそうな場合には賭け金を上乗せするレイズ。他にも細かなルールがあるようだが、侑は詳しくないので分からなかった。


 アーティラはムラトの側に控えているが、ゲームには参加しないようだった。侑もまた、湊以上に立ち回れる自信が無かったので見物を決め込んだ。


 ディーラーが二枚のトランプカードを表にして並べた。ムラトは虫も殺さぬような優しい微笑みを浮かべている。




「じゃあ、最初は俺から。……取り敢えず、君に敬語を外してもらいたいね」




 ベット。

 玩具みたいなチップがテーブルに重ねられる。

 つまり、この勝負では、ムラトが勝てば湊は敬語を外し、負ければそのままということになる。


 湊は感情を読ませない無表情だった。

 慣れた手付きでチップを掴むと、ムラトと同じ金額を出した。コールと呼ばれる弱気なアクションである。手札が良くなかったのだろうか。


 順にカードが捲られる。

 場には既にワンペアが出来ており、ムラトはレイズを宣告した。強気だ。手札に恵まれたのだろうか。


 初戦は、ムラトがフラッシュと呼ばれる役を作り、湊はスリーペアだった。この場合はフラッシュの方が強いので、ムラトの勝ちである。

 場に出された湊のチップをディーラーが掻き集めてムラトに流した。湊の表情は崩れない。




「この勝負は、俺の勝ちだね」

「……俺の何が欲しいの?」




 早速、湊は敬語を外した。

 ディーラーがカードを配る横で、湊の濃褐色の瞳がムラトを見詰める。賭け事を仕掛けて来たということは、それなりにリスクを背負う。莫大な投資を行ったカジノさえチップに変えるというムラトが、一体何を欲しがるというのか。




「情報は金だ。それを知りたければ、聞き出してみせろ」




 ムラトはそう言って、チップをテーブルに載せた。

 湊は表情を変えなかった。ディーラーがカードを配る。アーティラは目を伏せたまま、まるで人形のように佇んでいた。


 今度は本番、とムラトが笑った。

 ディーラーが伏せ札を開示する。湊もムラトも掛金を増やし、机上では想像も出来ない大金が積まれて行く。


 とても、一方的な勝負だった。ムラトには恵まれたカードが舞い降り、湊はその度にチップを奪われて行く。湊が指摘しないということは、ムラトはイカサマをしていない。だが、偶然では片付けられないその天運は、まるで神の予定調和を見ているみたいだった。


 息も出来ないような圧迫感が空間を支配する。酸素を求めて見渡しても、味方は一人もいない。この状況そのものが、湊とムラトの力量の差を表しているようだ。




「ムラト様、そろそろ」




 アーティラが言った。

 ムラトは鷹揚に頷くと、身を乗り出した。




「では、そろそろ君の奮闘にご褒美をあげよう。……ラフィティ家は中国とも交易があるんだが、少し前、黒社会の若き首領からとても魅力的な話を聞いたんだ」




 中国の黒社会、青龍会のことだろう。

 社会の暗部を牛耳る若き首領は、フィクサーと呼ばれる程に巨大な権力を持っている。湊とは学生時代の仲間と聞いているが、まさか其処から情報が漏れているのか?




「君は虚偽を見抜く神の目を持っている」




 神の目――。

 まさか、そんな仰々しい呼ばれ方をしているとは思いもしなかった。それは、湊と侑にとって大した価値は無いが、汎用性が高く、悪用しようと思えば幾らでも使える面倒なカードでもあった。


 湊には、のだ。

 原理は分からないが、機械よりも高い精度で他人の嘘や隠し事を見抜くことが出来る。しかし、他人の心が読める訳でも無ければ、真実が見抜ける訳でもない。ただ、感覚的に知覚出来て、百発百中というだけの話である。




「それは貴方が思う程、価値のあるカードじゃないよ」




 湊はつまらなそうに吐き捨て、配られたカードを覗いた。ディーラーにされたカードはダイヤのキング。コール。どうやらカードの引きが悪いらしい。


 ムラトは悠然と構え、口角を引き上げた。




「君は商売というものが分かっていないね。物の価値を決めるのは、大衆でも持ち主でもない。俺達、商人だ」

「まるで、物扱いだね」




 湊が乾いた笑いを漏らした。

 侮蔑とも嘲笑とも付かない皮肉っぽい笑い方だった。ムラトは眉一つ動かさず、微笑みさえ浮かべて言った。




「それ以上の価値が、君にはあるのかい?」




 レイズ。

 ムラトが静かに唱える。湊は溜息を吐き、掛金を上乗せした。カードオープン。ダイヤの10。足元に水が溜まって行くような嫌な感覚がする。ムラトはテーブルに肘を突き、突き放すように言った。




「君には一体、どんな価値があるんだい? 才能や能力の高さは認めるが、それは決して代用出来ないものじゃない」




 それは、己の立場が優位であることを知っている者の余裕の声色だった。レイズ。突き付けるようにムラトが宣告する。挑発されていると分かる。だが、此処で退けば負ける。湊のレイズは苦し紛れに聞こえた。其処には、二人の力関係が如実に表れている。




「君からは飢えが感じられない。欲望は時としてエネルギーになる。今の君は水面を彷徨う木片のように、時代に流されて沈むのを待つだけだ」




 ディーラーは顔を伏せていた。まるで断崖絶壁の淵に立たされているかのような緊張が走った。このゲームでムラトが何を求め、湊が何を失うのか。




「俺なら、そのカードを有効活用出来る」




 絶対的な自信が凄まじいプレッシャーとなって迸る。まるで巨大な熊と対峙しているようだった。


 エンジェル・リードのボス、蜂谷湊は19歳の青年である。年齢に見合わぬ資金と悪知恵を持っているが、それは決して珍しいものではない。蜂谷湊という一人の人間として勝負出来るだけの実績と土台が無いのだ。


 積み上げられたチップが、まるで強固な壁のように進路を塞ぐ。何処まで行っても過去からは逃れられない。

 侑は、湊の背中を見ていた。小さく細いその肩には、目に見えないものが幾つも伸し掛かっている。圧倒的劣勢、絶対的窮地、救援の望めない絶望の中、侑は面白いものを見た。


 それは、子供のように純粋で、けれど血が凍るような美しい微笑みだった。

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