⑵砂漠の大富豪

 平日ど真ん中の昼下がり、羽田空港の利用客は疎らだった。大きな窓硝子に広大な滑走路が広がり、フルスピードの愛車で走ったら楽しそうだと思った。


 利用客はサラリーマンが多かった。スーツを着込んだ営業マンが、厚い胸板を広げて搭乗ゲートを潜って行く。侑は柵に肘を突き、中々現れない客を待ち侘びていた。


 湊は柵に寄り掛かり、黒い帽子を深く被っていた。この子供は悪い意味で顔が知られているので、特に公共機関を使う時には正体を隠す必要があった。


 オタク風に変装するか女装するか選択を迫ったら、湊は冴えない黒縁の眼鏡を引っ張り出した。センスの欠片も無い緑のチェックシャツをジーンズに入れた時には、やり過ぎだと思った。そんなダサい格好の奴と並んで歩くのは嫌だった。


 憤慨する湊を宥めて、一応帽子を被せて連れ出したのが午前九時。約束の時間より早く着いたので、タイ料理屋で早めの昼食を済ませて待ち合わせ場所に向かった。




「今回の依頼人はどんな奴なんだ?」




 退屈凌ぎに訊ねれば、湊は帽子の下で子犬みたいな目を向けた。濃褐色の瞳は光の加減で半透明に輝いて見えた。




「依頼人は、カミール・ラフィティ。世界長者番付では毎年五位には入るアラブの大富豪だ」

「どういう経緯で知り合ったんだよ」

「青龍会からの紹介だよ。信頼出来る日本の案内人を探していたらしい」




 中国マフィアからの紹介なんて、ぞっとする話である。

 そんな億万長者が飛行機に乗って遥々極東の島国にやって来るなんて、ご苦労なことだ。日本語か英語が通じれば良いな、と思いながら搭乗ゲートを眺めていると、湊が言った。




「これから来るのは、ラフィティ家の長男。名前はムラト・ラフィティ、19歳」

「はあ?」

「当主が来日なんてことになってたら、例えお忍びでも空港は厳戒態勢だよ」




 てっきり、当主がやって来るのだと思っていた。

 19歳ということは、湊と同い年か。侑は隣の湊を見下ろして、仲良くなれたら良いな、と呑気に思った。


 大富豪の息子か。

 どんな奴だろう。我儘な馬鹿息子のお守りだけは御免だ。子供は嫌いじゃないが、馬鹿は嫌いだった。

 ぼんやりしていたら、搭乗ゲートが閉じてしまった。約束の時間は過ぎている。湊を見遣るが、気にする様子は無い。自分が待ち合わせ時間を間違えているのだろうか。




「来ないな」

「来ないねぇ。忘れちゃったのかな」




 そんな好い加減なのかよ。

 侑が呆れていると、湊が携帯電話を取り出した。

 その時だった。




「Hello」




 後ろから柔らかなテナーの声がして、侑は勢いよく振り向いた。窓の向こうの日差しを背中に浴びながら、一人の青年が立っている。色褪せたモッズコートにサングラス、褐色の肌。身長は湊より少し高いくらい。


 特段、変わった所は無い。

 気配も雰囲気も普通。空港の雑踏に紛れて、目立ちもしない。だが、何か。


 針の切っ先を眼球に向けられているような異様な威圧感が、肌の上を撫でて行く。


 湊は携帯電話をポケットに戻し、青年の元に歩み寄った。

 警戒心を抱かせない友好的な態度で、湊は一切の武力行使を選択肢から打ち崩して行く。




「I am glad to meet you. I can speak Arabic a little, can you speak Japanese?」

「Don't worry」




 サングラスの青年は咳払いをした。

 両耳に下げられた派手な金色のピアスが揺れる。本物の純金だ。輝きが違う。




「初めまして、エンジェル・リードの皆さん。俺はムラト・ラフィティだ」




 ムラトが手を伸ばすと、純金の華奢な腕輪が輝いた。

 決して華美ではないが、地味でもない。けれど、細やかな細工が刻まれた装飾品がとんでもなく高価な品であることが分かる。


 湊は迷いの無い動作でムラトの手を取ると、力強く笑った。




「日本へようこそ、ミスター。俺はエンジェル・リードの……」

「君が湊だね? 活躍は聞いているよ」




 固く握手を交わしながら、静電気のような緊張が走る。

 湊は正体を公表していないのだ。何処からか情報が漏れている。ラフィティは珍獣でも見るみたいに、まじまじと湊の顔を眺めていた。




「本当に女の子みたいな顔をしてるんだね。男に産まれたのが残念なくらいだ」

「よく言われます」




 湊はにっこりと微笑むと、手を離した。




「本日は、観光の案内と通訳を任せて頂きます。どうぞ、湊とお呼び下さい」

「では、俺のこともムラトと呼んでくれ。堅苦しいのは苦手なんだ。出来れば敬語も外して欲しい。確か同い年だろ?」




 王侯を扱うかのような湊に、ムラトは気安く言った。

 サングラスのせいで表情はよく分からないが、ムラトから滲み出る余裕と貫禄は、接待されることに慣れた箱入り息子のようだった。


 湊は微笑みでそれを断った。




「俺達はビジネスをしています。取引先である貴方に無礼な態度は取れません」

「ならば、尚更じゃないか? 君達にとって、俺は取引先。要求に応えない理由は無いだろう?」




 ムラトはピエロみたいに肩を竦めて笑った。

 侑が靴底を鳴らすと、湊が目を眇めた。




「それは、御命令ですか?」




 湊は絶対零度の微笑みで、淡々と問い掛けた。ムラトは焦ったように手を振って、早口に謝罪した。




「そういう意味じゃない。せっかくなら、仲良くなれたら良いと思っただけさ」




 何となく、悪い人間ではなさそうだと感じた。

 ついでに言うと、呑気で世間知らずで、嫌味を言われても中々気付かないくらい図太そうな人間に見えた。湊も呆れたみたいに肩を落とし、力無く笑っていた。


 それよりも。


 侑は周囲に目を向けた。

 ムラトが現れてから、背後から冷たい刃のような視線を感じる。好奇に支配された野次馬ではない。姿は見えないが、誰かが此方を観察している。


 殺意や害意では無さそうだが、見知らぬ他人に見張られているというのも居心地が悪い。侑が腕時計を見遣ると、勘付いた湊が頷いた。




「まさか、お一人で?」




 そんな筈は無いと知りながら、湊は訊ねた。すると、ムラトは思い出したみたいに手を打った。




「アーティラ」




 ムラトが呼んだその時、背後から一人の女性が影のように現れた。足音も、気配も無い。侑の口元が自然と吊り上がる。

 こいつは、玄人だ。歩き方で分かる。武器を持っている。久しく会わなかった裏社会の住民。


 褐色の肌、黒髪に黒曜石の瞳の麗人。

 アーティラと呼ばれた女性は、口元を結んだまま頭を下げた。ムラトは誇らしげに手を広げた。




「彼女はアーティラ。俺の優秀な従者だよ」




 従者。

 ラフィティ家のある国は身分階級が根付いた絶対君主制国家である。国内有数の大富豪の屋敷には百人を超える身分の低い使用人がいて、アーティラはその一人だった。


 身分制度というものを侑は知識としてしか知らないが、息苦しそうだと思った。湊は人懐っこく笑うと、アーティラに手を差し出した。




「初めまして、アーティラさん。日本へようこそ」




 現在、日本には社会的な身分制度は無い。

 どんな相手であっても相応の礼儀は払う。湊の差し出した手は、取られなかった。アーティラは目礼をしただけで、すぐにムラトの後ろへ控えてしまった。




「アーティラは真面目だな。此処はラフィティ家ではないのに」




 ムラトが苦く笑った。その目は何処か寂しげで、まるで捨て犬のように見えた。


 身分階級――。

 社会が構成する上下関係のピラミッド。

 命の重さには違いがあり、それは時として戦争の火種となって来た。ムラトはピラミッドの上層部におり、アーティラは下層部。彼等の国のことはよく知らないが、一般的に身分階級とは生まれた時から死ぬまで変わることは無い。




「それより、其方は?」




 突然、話を振られて俄かに驚いた。

 侑は湊とアーティラを順に観察してから、ムラトを見詰めた。




「俺はエンジェル・リードの窓口係をやってる。天神侑だ」




 ムラトと握手をした時、その小ささに驚いた。

 苦労を知らない柔らかい掌だった。爪に塗られた真っ赤なマニキュアは、まるで血の色のようだった。


 アーティラの視線を感じながら、侑は手を離した。

 そんなに睨まなくても、危害を加えるつもりは無いのにな。品定めする目だ。俺達を敵か味方か見定めようとしている。


 ムラトは純真な笑顔を浮かべて、子供のように燥いでいる。




「さあ、行こうぜ。Time is money、だろ?」

「観光地は逃げませんよ」




 湊が苦笑した。

 いつもは振り回す張本人が、今日は誰かに引っ張り回されるらしい。ムラトが湊の手を引いて歩き出す。侑はその後を追いながら、影のようにひっそりと気配を消す従者を見遣った。


 ムラトは兎も角、俺が警戒するべき相手は此方らしい。

 艶やかな黒髪が、景色に溶けて行く。













 3.熱砂の宝玉

 ⑵砂漠の大富豪











 外国人の日本観光と言うと京都の祇園や東京の浅草を連想するけれど、湊が選んだのは都内にある日本有数の公営卸売市場だった。


 早朝は獲れたての魚を買い叩き大変な賑わいであるが、昼過ぎは何処も閑散としており、暇な観光客がちらほら見掛けられる程度だった。


 コンクリートの屋根に覆われた市場は磯の生臭さが漂い、恰幅の良い海の男達が寡黙に片付け作業を始めている。発泡スチロールの白い箱に残った魚が恨めしそうに此方を睨んでいるようだった。




「生魚を食べる文化ってあんまり無いんだよね」




 湊が自宅の庭みたいに案内する。その後ろを侑はゆったりと付いて行った。確かに此処なら新鮮な魚介類が食べられそうだが、昨今は交通も便利になっているので珍しくもない。だが、湊なりに彼等に楽しんでもらおうと計画を練っていたことは知っていたので、侑は微笑ましく眺めていた。


 ムラトは湊の後を追いながら、興味深そうに辺りを散策していた。二人共体格が小柄なので、中学生くらいに見えた。けれど、ムラトの装いや態度は何処か浮世離れしており、良くも悪くも目を惹く。辺りを警戒して神経を張り詰めるアーティラが気の毒に思えて、侑は気紛れに声を掛けた。




「そんなにピリピリすんなよ。白昼堂々襲って来るような命知らずはそういない」




 侑が言うと、アーティラの黒い瞳が冷たく睨んだ。

 日本語は通じそうだったが、そういう話でもないのだろうか。侑が黙っていると、アーティラは目を背けた。

 湊とムラトが売れ残った蛸を突いて、店番の男に笑われた所だった。朗らかな笑い声が伝播して、辺りが生温い空気に包まれる。




「貴方とあの子は、どういう関係なの?」




 どういう関係。

 問い掛けられると、答えるのが難しい。自分にとって湊がどういう存在なのか理解しているが、適切に表現する名称が分からない。万人が理解するような既存の関係性に当て嵌めてしまうのも、侑は嫌だった。




「血の繋がりは無さそうだし、本当にただの雇用関係?」




 アーティラが問い掛ける。

 雇用関係とは、少し違う。侑は湊に雇われて給料を貰っている訳ではないし、上下関係がある訳でもない。同志とも、仲間とも違う。友達という表現が一番近いような気もするけれど、少なくとも、侑は命を預けられるような友達を持ったことが無かった。




「この国にはそういう性的趣向があると聞いたことがあるけれど」

「それは、俺達への侮辱と受け取るぞ」




 腹の底から憤りが滲み、自然と声が低くなる。

 下世話な他人が一番嫌いだ。侑が睨むと、アーティラは食えない笑みを浮かべていた。




「彼が大切なのね」




 侑は、答えなかった。

 大切なものがあるということは、弱味でもある。昔、それで痛い目を見たこともある。彼を支え守ることに金銭は発生しないのでボランティアに近いが、一緒にいて楽だし、面白いと思う。




「……お前は」




 侑が問い返そうとした時、湊が短い悲鳴を上げた。

 咄嗟に懐に手を伸ばして振り向けば、湊は腕に蛸を張り付けて狼狽していた。ムラトと店番の男が声を上げて笑っている。


 肩透かしを食らったような心地だった。

 湊の濃褐色の瞳が助けを求めるように見詰めて来るので、侑は溜息を吐いた。滑る蛸を引き剥がして生簀に戻してやれば、湊が礼を言った。細い腕に吸盤の痕が残っていて、痛そうだった。


 気の良い男が氷嚢を作ってくれた。湊は完全に少女と見做されているし、本人も今更訂正する気も無いようだった。

 腕を冷やしながら、湊は市場の外にある定食屋に誘った。伽藍とした市場とは打って変わって、定食屋の並ぶ通りは観光客で溢れていた。丁度、昼食時なのだろう。


 カウンター席に促され、中央に湊とムラト、左右を侑とアーティラが座った。品書きにはよく分からない魚の名前と、本日のお勧めが記されている。店主は愛想の欠片も無い職人のような男で、湊が訊ねるとぶっきら棒に今朝獲れた魚の名を教えてくれた。


 四人で本日のお勧めである海鮮丼を頼んだ。マグロ、甘海老、いくら、イカ、カンパチ。湊が刺身を指差してムラトに説明する。腹に入れば全部一緒だな、と侑が醤油に手を伸ばすと、アーティラがムラトの丼を引き寄せた。


 まるで、味見をするみたいに刺身を一つずつ齧り取る。

 湊も少し驚いたようだったが、追求はせずに山葵と醤油を差し出した。アーティラがそれを少しだけ舐める。侑はそれを見て、彼女が何をしているのか漸く理解した。


 机の下で湊の足を蹴ってやった。

 湊も同じ結論を出していたらしく、頷いた。

 ムラトとアーティラは警戒し、疑っているのだ。提供されたこの海鮮丼に、何かが盛られているのではないかと。


 侑は何とも思わないが、ムラトとアーティラを喜ばせようとしてこの場に連れて来た湊が可哀想だった。初対面の相手を信用しろと言うのは横暴だが、それにしたって目の前でやらなくても良いじゃないか。


 そう思うと怒りが沸々と込み上げて来て、侑は怒気を散らすようにして割り箸を割った。綺麗に真っ二つになったが、少しも気は晴れない。


 俺達はビジネスに来ている。

 お友達ごっこがしたい訳じゃない。

 湊の言葉がブーメランみたいに胸に突き刺さる。


 毒味を終えた丼を抱えて、ムラトが拙い手付きで割り箸を握る。湊は笑顔の仮面を貼り付けたまま、無愛想な店主に声を掛けてスプーンを受け取っていた。

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