3.熱砂の宝玉

⑴星探し

 To truly laugh, you must be able to take your pain, and play with it!

(貴方が本当に笑う為には、貴方の痛みを取って、それで遊べるようにならなければなりません)


 Charlie Chaplin







 耳障りな罵声が室内に木霊する。

 突き付けられた黒い鉄の塊に、血液が沸騰する程の興奮を覚えた。制止を叫ぶ怒号と悲鳴混じりの懇願が子守唄のように耳に馴染む。


 繁華街の一角に佇む暴力団の事務所は、剣の腹を渡るような緊迫に包まれていた。一挙手一投足が死に直結するような心地良い緊張だった。侑は左足に力を込め、発条のように跳躍した。


 辺りの景色はコマ送りに見えた。

 岩のような大男が引き金を絞る。三下が頭を下げる。銃のスライドが後退する。侑は片手で銃を掴むと、天井に向けて捻り上げた。破裂音は無く、男の濁った悲鳴が耳元で聞こえた。


 間髪入れずに足払いを掛けて、そのまま床に縫い付ける。掠め取った拳銃を眉間に突き付けると、男は仔兎のように身を震わせた。


 蒼白な顔色、怯えた目。ドミノ倒しみたいに恐怖と動揺が伝播して行くのが面白かった。怯えて命乞いするような情緒は、養われて来なかった。


 引き金に指を掛け、侑は口角を吊り上げた。




「コルト・ガバメントか。俺も昔、使ったことがあるぜ」




 それももう随分と昔に思える。

 スライドストップを引き抜くと、コルト・ガバメントはびっくり箱みたいにバラバラになった。


 絨毯に散らばる部品には錆が浮いていた。

 可哀想に。侑は溜息を吐いた。




「手入れ不足だ。スライドの滑りが悪い」




 日本のヤクザは何かと面子に拘るので純正の拳銃を手にしたがるが、武器そのものへの関心は低く、手入れが杜撰である。このコルト・ガバメントも新品を手に入れてから、置物のように飾っていたのだろう。


 侑が笑った時、背後から罵声と共に拳が飛んで来た。その場を飛び退いて避けるが、握り締められた拳は再び振り翳された。侑は後退しながら辺りを見渡し、サイドボードに並べられた日本酒の瓶を引っ掴んだ。


 蚊の止まりそうな拳を躱すと同時に、瓶で男の後頭部をぶん殴ってやった。硝子の割れる音が響き渡り、日本酒と血液が迸る。後頭部を押さえた男が蹌踉めくのを見ながら、侑は笑った。




「心配すんな。死にゃしねぇさ」




 後はもう、一瞬だった。

 団子状に襲い来る男達を軽く往なして、一人ずつ確実に制圧して行く。肉を打つ乾いた音、血液の鉄臭さ、骨の軋む感覚。トップと思しき壮年の男が腰を浮かせて逃げを打つのを、侑は愉快に眺めていた。


 屍累々の室内は、血と酒精が漂う。

 逃走しようとする男の退路を塞ぎ、胸倉を掴んだ、その瞬間。




「侑」




 柔らかなボーイソプラノの声が清涼な風を連れて吹き抜けた。

 開け放たれた扉の前に、青年が立っている。天使のように美しいその青年は、頭痛を堪えるみたいに顳顬を押さえている。長い睫毛が陶器のような肌に影を落とす。




「日本の挨拶は過激だね?」




 湊が肩を竦めると、何処からか澄んだ鈴の音がした。

 頭に昇った血液が急激に下降するのが分かる。侑は苦笑し、伸ばしていた手を引っ込めて降参を示すように手を上げた。


 銃を突き付けられて無抵抗でいるのは命に対する怠慢である。やり過ぎるくらいじゃないと自己防衛にはならない。けれど、彼に心配をさせたという一点に於いては、謝罪が必要だと思った。




「悪かったな」




 侑が言うと、湊は溜息を吐いた。何しろ室内は酷い有様だった。流石にやり過ぎた自覚があったので、侑は両手をポケットに入れて身を引いた。




「仕方ないなぁ」




 湊は、やれやれとでも言わんばかりに肩を竦めた。

 ヤクザの抗争跡地みたいな凄惨な状況で、湊は紙袋を手に下げて部屋に踏み入った。意識の無いヤクザ者を跨ぎ、湊は手にした紙袋を組長の机に置いた。


 組長は青褪め、肩を震わせた。けれど、湊は何も無かったかのように穏やかに微笑んでいる。




「お隣に越して来ましたので、ご挨拶に伺いました」




 ご無礼をお許し下さい。

 湊は丁寧に頭を下げて、力無く笑った。




「お互いに、事を荒立てるのは得策ではないでしょう? 粗品ですが、今日の所はこれでお許し下さい」




 そう言って湊が取り出したのは、包装された白い箱だった。どうやら中身はブランド物のタオルらしかった。ヤクザの事務所に、引っ越し挨拶の手土産として本気で持参したのだ。どういう神経なのか分からない。


 これで許されるなら、世の中の戦争なんてものは消滅しているだろう。組長が愚行に走る可能性を捨て切れなかったので、侑は警戒を解かなかった。だが、湊は組長の顔面を真正面から覗き込むと、濃褐色の瞳でじっと見詰めた。




「良き隣人となれるよう、互いに努めましょう?」




 有無を言わさぬ威圧感だった。

 子犬のような丸い瞳に、青白い炎が見える。


 周囲の空気が一気に下がったような気さえした。銃口を突き付けるのでもなく、拳を振り上げるのでもなく。彼は無防備に相手を脅迫する。組長に最早、戦意は無かった。克己心も復讐心も、怒りさえも存在しない。其処にあるのは蟻が象を見上げるような果てしない恐怖と虚無だった。













 3.熱砂の宝玉

 ⑴星探し













「最近、雑誌で読んだんだけどね」




 閑古鳥の鳴く事務所で、湊が呟いた。

 コーヒーテーブルにはマグカップが二つ置かれ、芳ばしい匂いと柔らかな湯気を漂わせている。その横、湊はフラットな顔付きでトランプタワーを作っていた。相変わらず、予測不能で意味不明な子供である。


 先程、ヤクザの事務所で暴れたことは特に咎められなかった。侑としては、ちょっとやんちゃした程度の感覚だったが、近所付き合いという意味ではかなり悪い印象を与えてしまったのではないだろうか。


 湊の沸点が何処にあるのか、未だによく分からない。

 侑は相槌も打たず、トランプタワーの完成を待っていた。

 アラビア感の漂う赤いカードは新品ではあるが、何の変哲も無いトランプだった。湊はまるで繊細な硝子細工を扱うみたいに慎重に、一段ずつ組み立てて行く。




「人間の脳に或る機械を入れることで、他人と情報共有が出来たそうだ。被験者達は相談も無く情報を共有しながら、簡単なパズルゲームを行ったんだって」

「へえ」




 侑は曖昧に返事をした。

 其処等辺のお節介な団体が騒ぎそうな話だ。相談すれば事足りる話を、どうして態々脳に機械を埋め込んでまで行うのか。


 ああ、軍事導入だな。

 侑は理解すると共に、うんざりと溜息を吐いた。

 この世界の治安というものは少しずつ悪化し、凶悪犯罪と呼ばれる事件にも世間はそれ程、関心を持たなくなった。その一方で、善悪を語る愚者の意見を有り難がって敬い、拡散する。


 トランプを見ていて思い出したが、最近、関東地方の数カ所にカジノが出来た。国民の反対を押し切って作られた施設は未だに賛否両論であるが、そのお蔭で経済は安定している。反面で治安悪化は免れず、侑のような裏社会の人間には生き易い世の中になりつつあった。


 湊は三段目のトランプを組み立てている所だった。何となく不器用な印象があったが、そうでも無いらしい。


 トランプタワーの頂上にカードを立てると、湊は静かに息を吐いた。完成したらしい。定規で測ったみたいに精緻なトランプタワーは圧巻である。

 コーヒーが冷める前にマグカップに手を伸ばすが、カードは崩れなかった。湊はトランプタワーを眺めながら、まるで独り言みたいに呟く。




「この世界はトランプタワーに似ている」

「何のことだ?」




 侑が訊ねると、湊はトランプタワーを指差した。

 冬場の乾燥と水仕事のせいで赤切れが酷く、見ているだけで痛々しかった。今度、ハンドクリームでも買って来てやろう。


 湊は透き通るような眼差しで、静かに語った。




「世界は幾つかの階層に分かれている。人種、国境、宗教、経済、軍事、IQ、報道。丁度、この三角形の空間みたいにね」




 湊は下段を指差した。

 この子供の話は大抵突拍子も無く、相手の理解に努めない。どうやら、自分の中の情報整理のつもりで言語化する独り言の類らしい。


 湊はトランプタワーの頂上を指し示した。




「世界情勢によって序列は変わるけれど、それぞれの階層には君臨者がいる。所謂、フィクサーと呼ばれる存在だね」




 フィクサー。

 侑は口の中で繰り返した。

 表舞台には決して現れず、世界を牛耳る裏の重鎮。遽には信じ難いが、この世界はそうした君臨者の下で回っている。




「フィクサーも一枚岩じゃない。特に、第三次世界大戦を目論む推進派と保守派では、水面下での争いが絶えない」




 なるほど、と侑は頷いた。

 戦争をしたい奴等と、それを止めたい奴等がいる。単純に戦争が好きな奴もいるだろうが、それによって富や権力を得て、経済を回して行くことも出来る。


 侑には想像も出来ないが、権力者達の高度なマウント争いが起きているのだろう。治安の悪化や好景気はフィクサーの暗躍によるもので、自分達は代替される紙面のデータでしかない。




「時代はサイクルに過ぎない。戦争も平穏もいつかは終わる。……だけど、最近、妙な奴等が現れた」




 湊の声が微かに固くなる。

 航がいた数週間の間、打ち明けられなかった秘密。然るべき時に開示されるだろうとは思っていたが、まさかこのタイミングとは思わなかった。


 侑はブラックコーヒーを一口啜り、話の先を促した。湊はトランプタワーを眺めていて、此方の反応なんて気にもしていないようだったが。




「フィクサーと繋がる暗躍者、或いは敵対者。神出鬼没で正体不明の連中さ。フィクサーの部下だと思ってたんだけど、動きは不規則で無軌道で、まるで彗星みたいだ」




 彗星の出現は凶兆とされていた時代もあった。

 時代の節目には色んな奴が現れる。支配者、君臨者、革命家、虐殺者。極限の世界には正義も悪も存在せず、強者だけが選ばれる。


 それにしても、彗星か。

 侑は唸った。フィクサーと繋がる神出鬼没のトリックスター。侑は、それを一人だけ知っている。




「あの武器商人か」




 侑が言うと、湊は指を鳴らした。


 エンジェル・リードが見付けた才能ある若い芸術家、来栖凪沙。故郷への憎しみを募らせた彼女を復讐へ駆り立てた金髪の女。藍村晴子と名乗っていたらしいが、本名も国籍も年齢も不明である。




「リュウは、開拓者パスファインダーって呼んでた」




 リュウとは、湊の学生時代の仲間である。

 その正体は中国黒社会の一大勢力、青龍会のトップである。学生時代のよしみで今も色々と便宜を図ってくれているらしいが、彼等はとても危うい均衡の上に立っている。


 青龍会は犯罪の温床。武器や薬物の密輸、人身売買。世界最大の人口を抱えながら、国家そのものが犯罪のシンジケートと化した厄介な隣人である。




「青龍会はこの国を吸収したがっている。武器密輸による治安の悪化も、薬物の蔓延も内側から腐らせる為だ。青龍会と繋がっていた武器商人こそが、パスファインダー」




 侑は、その遣り方を批評出来る立場には無かった。

 湊はマグカップに手を伸ばした。まだ微かに湯気が昇り、コーヒーの香りが漂っている。


 来栖凪沙の事件の裏で、湊は青龍会の会合に参加していた。日本への武器密輸を止めようとしていたらしいが、それを阻むだけの理由と対価を払えなかった。結果として、この国には足の付かない銃器が運び込まれ、何処かで犯罪に利用されている。


 しかし、青龍会からの武器密輸は現在、止んでいる。まるで、獲物が弱るのを待つ禿鷹のように、虎視眈々と様子を伺っているのだ。




「青龍会と或る約束をしている。エンジェル・リードがパスファインダーを捕まえたら、青龍会に引き渡す。それまで、この国に手を出さないと」

「向こうが約束を守る保証は無いぞ」

「分かってる。だけど、俺を裏切る利益も無い」




 侑はマグカップを置き、腕を組んだ。トランプタワーが暖房の風によって僅かに揺れるが、完璧な均衡は簡単には崩れない。エジプトのピラミッドを思わせる磐石ぶりである。


 湊の言葉は、希望的観測でも傲慢でもない。この子は、世界中の権力者が喉から手が出る程に欲する黄金のカードを持っているのである。


 侑はソファに背を預け、深く息を吐いた。




「じゃあ、俺達の目下の任務は、パスファインダーって言う彗星を捕まえることなんだな」

「侑は理解が早くて助かるよ」

「手掛かりくらい掴んでんだろうな?」

「勿論さ」




 湊の薄い唇が弧を描き、微かに覗く歯が作り物みたいに白く光った。見た目だけは天使のようだが、中身は性質の悪い悪戯小僧である。




「最初に言った脳と機械を繋ぐ研究――ブレイン・ネットワークインターフェースは、実はもう運用されているんだ」

「何に?」

「基本的には医療だね。脳疾患の早期発見やリハビリに」




 なるほど、と侑は頷いた。

 科学というものは道具と一緒で、使い方次第で人を救うことも殺すことも出来る。




「フィクサーとパスファインダーの遣り取りは、ブレイン・ネットワークインターフェースで行われている。秘匿性が高く、足も付かない」

「そりゃそうだ」

「でも、俺はアメリカの脳科学会にコネクションがある。ブレイン・ネットワークインターフェースに関心を持つ権力者とフィクサーのリストを照らし合わせると、不自然な動きをする人間が浮かび上がって来る」




 専門用語がごちゃごちゃしていてよく分からないので、侑は半分くらいしか聞いていなかった。兎に角、湊はコネクションと持ち札でパスファインダーの手掛かりを掴んだのだろう。




「最後の情報発信地は、中東。石油王と呼ばれるアラブの大富豪、ラフィティ家だった」




 話が随分と跳んだ気がした。

 聞き直すべきだろうか。侑が眉を寄せると、湊が言った。




「ラフィティ家の当主は、軍事に通じるフィクサーの一角だ」

「……嫌な符号が揃っちまったな」




 侑が言うと、湊は苦く笑った。

 中東、軍事、フィクサー。湊の両親が死んだ爆弾テロも、中東の代理戦争だった。彼は復讐というものに関心を持っていないが、向こうは如何か分からない。




「前に大きな仕事をするって言ってたな。日本観光の護衛だったか。ラフィティ家か?」




 湊は頷いた。

 アラブの大富豪に恩を売っておくのも悪くは無い。湊の最終的な目的というのはよく分からないが、選択にはそれなりの理由があるらしい。侑が黙っていると、湊が覗き込むみたいにして訊いた。




「嫌?」




 侑は苦笑して、首を振った。

 リスクのある危ない橋ではあるけれど、リターンも大きい。中立を謳う無人島だって爆撃される世の中だ。閉じ籠って得られる安寧なんてものは無い。


 どうせこの世は死ぬまでの暇潰し。

 状況を楽しめない奴から負けて行く。




「挑戦の無い人生に何の意味があるんだ?」




 侑が言うと、湊は花が綻ぶように笑った。

 この子が笑っていられるのならば、大抵のことはどうでも良かった。

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