⑽子供時代

 冬の空には鉛色の雲が広がり、一筋の光も差し込まない。大寒波に見舞われた日本列島は記録的な大雪となり、羽田空港のフライトスケジュールは嘔吐物みたいにぐちゃぐちゃだった。


 どうにか離陸の目処が立ち、航は鞄を担いで搭乗口へ足を運んだ。後ろから感じる生温かい視線が煩わしい。機内に乗り込む寸前で振り返ると、スーツ姿のサラリーマンが顔を顰めて避けて行く。


 搭乗口の向こうに、湊と侑がいた。

 アメリカの大学に通う航は、ウィンターホリデーが終了する為に一足先に母国へ戻る。湊と侑は仕事の為だと言って日本に留まることになっていた。




「約束、忘れるなよ?」




 拳を向けて、湊が無邪気に笑った。

 航は苦く笑い、道を引き返した。添乗員と乗客が白い目を向ける様を鼻で笑い、航は拳を当てた。


 それは、幼い頃から続く二人のジンクスだった。

 約束を交わす時、己の心に嘘偽りが無いことを誓って拳を当てる。


 辺りの景色が遠去かる。色褪せた世界で、湊と侑ばかりが鮮明に映った。




「次に会う時は、お前なんか追い越してやるからな」

「それは楽しみだ」




 ねぇ、侑。

 湊が同意を求めると、侑は笑った。航は横目に時計を見遣った。離陸まであと僅か。一度別れたらまた会えるとは限らない。だけど、彼等は何処にもいなくならない。




「湊」




 航が呼び掛けると、湊が子供のように小首を傾げた。


 正直な所、航には何もかもが胡散臭く感じられていた。

 エンジェル・リードという個人投資家、無秩序な投資先。慈善事業と未経験の事務職員。アフリカの小学校、人員派遣。場当たり的に展開して行った凡ゆる出来事が、まるで誰かの掌の上にいるかのように気味が悪かった。


 湊は何も言わない。何も無かったみたいに穏やかに、優しく微笑んでいる。それは、幼い頃から見て来た兄の顔だった。




「……いや、何でもない」

「なんだよ。変な奴」




 湊が困ったみたいに笑う。

 航が踵を返そうとすると、今度は湊が呼び止めた。




「ねぇ、航」




 振り返ると、湊がゲートの柵に肘を突いて微笑んでいた。




「親父とお母さんが死んだ時、俺は復讐というものを一切考えなかった。目の前に降って来た現実に対応するだけで精一杯だった。航と会うまで、俺は生きた心地がしなかった」




 作り物みたいに綺麗な顔に、微かな感情の揺らぎが陽炎のように見える。


 親が死んで何も思わなかった訳じゃない。

 蕩々と語った湊の横顔には微かな笑みがあって、それは目に見えない何かを愛おしみ、許容しようとしているかのように見えた。




「怒っていたのか、悲しんでいたのか。正直、よく覚えてない。お前の顔を見たら、怒りも憎しみも何処かに行っちまった」




 憎しみなんて、長くは続かない。

 最後に残るのは、愛なんだよ。


 それは、母の言葉だった。目蓋の裏に甦る母の笑顔も、鮮明に思い出せる声も、いつかは消えてしまうのかも知れない。けれど、父の面影を色濃く残した兄と、母によく似た自分ならば、亡くした両親にも思い出の中でまた会える。航はそう信じたかった。




「過去にくれてやる程、未来は安くないぜ」




 湊は白い歯を見せ、不敵に笑った。この瞳に灯された光は、死地に取り残された自分を救った道導そのものだった。


 だから、湊は立ち止まらない。

 迷わないし、諦めない。全てを救うことは出来ないけれど、少しでもマシな未来を信じて足掻き続ける。


 航は息を零すように笑った。

 それでこそ、湊らしい。幼い頃と変わりない湊が其処にいるということが、航には誇らしかった。


 けれど、それは心配しないということではない。

 航には、懸念もあった。




「それは、南方さんもか?」




 社会的制裁から逃れ、十字架を背負う為に異国の地に渡った女性。決して悪い人間ではなかった。極普通の生活を送る一般人だった。だが、悲劇というのは落とし穴みたいに人を地獄へ引き摺り込む。


 エンジェル・リード――天使の導き。

 彼女は天使に導かれたのか、それとも。




「俺は怠惰な亀が嫌いなんだよ」




 湊は歌うように言った。

 怠惰な亀。他者を羨み足を引っ張る大衆のことだ。そいつ等は他人の不幸を悲しむ癖に、手を差し伸べはしない。それなのに、奴等は自身を善人だと信じている。


 南方花は、怠惰な亀だったのか。

 それとも、勤勉なウサギだったのか。

 この場で断ずる必要は無かった。人は変わり、成長する。自分に出来るのは、彼女の未来が少しでもマシであると信じることだけだ。




「世の中には、勤勉な亀もいるぜ」




 航が言うと、湊は嬉しそうに笑った。

 善悪も正誤も他人の評価だ。そんなものに価値は無い。少なくとも、航も湊も、他人の評価の為に生きるようには教育されて来なかった。


 じゃあな、と航は背を向けた。

 湊と侑が、またね、と言った。


 次に会う時は日本か、アメリカか。それとも、遠い異国の地か。彼等がこの先どのような活動をして行くのか航には分からないし、其処に正誤を求められる程、偉くなったつもりも無い。


 狭い機内の窓際に座り、航はぼんやりと窓の外を眺めていた。目蓋の裏に蘇るのは、新天地で人生を立て直そうと決意した南方の微笑みだった。


 エンジェル・リードにやって来た事務員である南方花は、アフリカの小学校に教員として派遣されることになった。言語や文化の壁に苦労することはあるだろうが、彼女は元々幼稚園教諭の免許を持っているので、幼児教育としては適した人材だった。


 山積みになっていた経理事務も片付いて、マスコミが遺族の手紙を公表する頃にはもう彼女はいない。下世話な人間の詮索も、世間からのバッシングも受けない。その代わり、彼女は第三世界で労働力として搾取される。


 湊のやったことは、本当に正しかったのか。

 南方は社会的制裁を受けるべきじゃないのか。

 こんな亡命みたいな遣り方は、卑怯じゃないか。


 しかし、航にはもう何も出来ない。

 闇の向こうに消えて行く兄の背中を思いながら、航は目蓋を下ろした。














 2.十字架の所在

 ⑽子供時代














「欲しかったもんは手に入ったか?」




 航を乗せた鉄の鳥が青空に羽ばたいて行く。侑は空を眺める湊の横顔に問い掛けた。

 湊は飛行機が見えなくなるまで見送り、短く肯定した。




「予定通りに」




 湊は爽やかに笑った。

 バイブレーションが虫の羽音のように鳴る。湊は携帯電話を取り出して、独り言みたいに呟いた。




「侑は隠し事が苦手なんだねぇ」

「お前に比べりゃ、誰だってそうだろうさ」

「航がずっと心配してたぞ。可哀想だろ」

「そりゃ、悪かったな」




 侑が言うと、湊は苦く笑った。

 湊は両手をポケットに突っ込み、澄み渡る青空を見詰めていた。


 南方花という事務員を雇う前、湊から相談を持ち掛けられた。

 信用出来る日本銀行の口座が欲しい、と。


 その時は理由を問わなかった。だが、スイスの銀行が倒産して資金が泡と消えたと聞いた時、漸くその意味が分かった。


 目の届かない場所では駄目だったのだ。湊も侑も兎に角忙しかったので、海の向こうで資産が消えてしまうだなんて考えもしなかった。


 金は武器だ。銀行の倒産による損失は、痛手だった。それは詰めの甘さでもある。来栖凪沙のお蔭で不本意な名の売れ方をしてしまった自分達は、どうにか立て直さなければならなかった。


 口座を作る為には住民票と呼ばれる正式書類と、綺麗な経歴を持つ一般人が必要だった。南方花を雇ったのはそれだけの理由で、本当は誰でも良かったのだ。


 口座さえ出来れば、南方がどうなろうと知ったことじゃない。出来れば失踪でもしてくれたら良かったが、湊の提案で彼女はアフリカ送りになった。


 表向きは、第三世界に対する人道支援と贖罪。

 けれど、実際は体の良い厄介払いで、労働力の搾取でもある。エンジェル・リードが学校を作る為に寄付をしているのは事実だが、湊の語ったこと全てが真実ではない。――こんなこと、航には口が裂けても教えられないけれど。


 それにしても。

 侑は溜息を吐いた。




「教育者ってのは、無責任だな」




 南方が不遇な立場に置かれていて、子供の死は不幸な事故だった。だが、彼女の口から出るのは自身の境遇への憐憫ばかりだった。


 自分が親なら殴っていただろう。もしも死んだのが目の前のこの子だったなら、侑は関係者全てを地の果てまで追い掛けて、持ち得る限りの最悪の方法で苦しませて、生まれたことを後悔させながら殺しただろう。復讐が不毛であったとしても、命の責任は命でしか償えない。


 生きていれば、救いはある。

 それなら、死んだ人間は一体誰が救ってくれるのか。


 湊は苦く笑った。




「教育者が他人の人生の責任を負わされるってのも、中々理不尽だと思うけどね」

「まあ、そうかもな」




 教育が何たるかなんてことは知らないが、子供を死なせて雲隠れなんて良いご身分じゃないか。侑はそれが腹立たしく、許せなかった。司法が、社会が裁かないのならば、死んだ子供とその母の心の行き場が無いじゃないか。


 侑には、彼女達を救う術が無かった。

 けれど、この子なら。湊ならば、何か出来るのではないか。

 仄暗い期待を込めて、侑は訊ねた。




「記事はどうするんだ?」




 湊は当たり前のことみたいに、答えた。




「公表されるよ。膿は出し切らなきゃね」




 湊は口角を吊り上げて皮肉っぽく笑っていた。

 天使のような顔をしているが、悪魔みたいな子供である。しかし、侑にとってはそれが唯一の救いでもあった。


 子を失った母親の無念を、責任放棄した教育者達を、湊は無かったことにしない。背負ってはやれないけれど、見て見ぬ振りもしない。


 湊は歩き出した。

 航の乗った飛行機は空の向こうに消えてしまっている。侑は雑踏を擦り抜けながら後を追った。


 売店でミネラルウォーターのペッドボトルを二本買って、湊が一本寄越して来た。この国は蛇口を捻れば安全な水が飲めるというのに、態々店で購入する。


 湊はペッドボトルを片手に弄びながら、何処か前方を睨んでいた。




「大人って勝手だよねぇ」




 室内灯の白い光がペットボトルに反射して、まるで鱗みたいな影を作る。湊は立ち止まると、いじけた子供みたいに言った。




「子供の成長を願う癖に、いつまでも手元に置きたがる。ペットじゃないんだ。檻に閉じ込めて餌をやっていれば良いって訳じゃない」




 湊は少し、怒っているみたいだった。


 この国の教育というものは、檻に閉じ込めて管理することなのだ。成長を願いながらもその多様性を認めようとしない。多数派は少数派を悪にして、民主主義を謳う。


 この国が嫌いだ。反吐が出る。

 侑はこの国に生まれ、弟を奪われた。だからと言って今更、テロリズムも復讐も望みはしないけれど、国家の危機に立ち上がるような愛国精神なんて持っていない。


 けれど、この子は違うのだろう。

 両親の母国で、家族の思い出の為だけに、何の見返りが無くても平気で危ない橋を渡ろうとする。それが若さ故の衝動なのか、尊い信念であるのか、侑には測れない。




「子供はいつか大人になる。じゃあ、大人はこれから何になるの?」




 大人はこれから、何になるのか。

 表社会に居場所を失くした俺達は、これから何になるのか。

 侑は少し考えて、答えた。




「老人かな」

「そんなのつまらないよ」




 間髪入れず、湊が退屈そうに言った。

 侑は嗤った。




「お前も、子供のままでいても良いんだぞ?」

「Good one!」




 湊が短く声を上げて笑った。仮面ではないこの子の笑顔を久しぶりに見たような気がして、侑は肩が軽くなるようだった。

 子供が子供らしくいられる世界なんて侑には無かった。だから、せめて目の前のこの子が笑っていられたら良いと思う。


 湊は少しだけ寂しげに目を細めて、固い声で言った。




「俺の子供時代は終わったんだ」




 それは宣誓だったのか、それとも。


 一陣の風が吹き抜けて、湊の切り揃えられた前髪を散らして行った。傷一つ無い陶器のような相貌は、天使のような可愛らしい顔立ちをしている。けれど、その濃褐色の瞳には抜身の刃に似た怜悧な光が宿っている。


 家族に愛され、守られていた子供時代。

 エンジェル・リードのボスとして裏社会を生きる19歳の青年の捨てた未来が、侑には悲しく思えた。湊は後悔しないし、立ち止まらない。


 いざと言う時、湊のことを守ってくれるか?


 苛烈な性格をした彼の弟が、縋るように問い掛けた言葉を忘れない。侑は、誓ったのだ。いざと言う時、命に替えても彼を守ると。


 血塗れの弟の亡骸と、その側で泣いていた湊。

 何も出来なかった自分と、弱音も泣き言も溢さなかった湊。

 あの日の絶望が、まるで塵のように舞い起こる。




「お前が死ぬ時は、俺も死ぬ時だ」

「なんだそりゃ。脅してんの?」

「さあな」




 それが彼のブレーキになるならば、幾らでも。

 侑が笑うと、湊は軽い足取りで歩き始めた。小さな背中だ。侑はポケットに両手を突っ込んで、足を踏み出した。




「次の仕事は、アラブの大富豪の日本観光と護衛だったか?」

「そう。スケジュールを立てたいから、下見をしようぜ」




 俺も日本は久しぶりなんだ。

 そう言って、湊は振り返った。中性的な顔立ちは性別や年齢を曖昧にする。


 何処が良いかな、と湊が携帯電話を取り出す。

 東京の観光名所の特集記事を流し見ながら、その目は美しく輝いている。ブルーライトに照らされた彼の眼差しは透き通る水面のように見えた。




「築地に行こうぜ。久しぶりに、美味い刺身が食いてぇ」




 侑はその隣に並び、頭を撫でてやった。

 湊は嬉しそうに口元を綻ばせた。


 この子は天使なのか、悪魔なのか。そんなことは侑にとっては腹の底からどうでも良いことだった。その正体が何であれきっと笑えるだろうし、関係も無い。


 目の前のこの子が大切だと思う。

 この子といると退屈しないし、この世もまだマシだと思える。この関係性に理由や名称が必要ならば、そんなものは必要な人間が勝手に考えれば良い。どうせいつかは終わる旅だ。それなら、自由に気楽に有意義に!


 もしも、道の先に落とし穴でもあるというのなら、その時はこの子を抱えて飛び越えてやる。


 外は雪が積もっている。この子が足を滑らせ膝を突くならば、その時は手を差し伸べてやろう。


 それが、天神侑のだった。

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