⑼命の代償

「あの一歩が、どうして出なかったのかな……」




 無責任な母親達を見送った後、南方はその場に蹲み込んだ。俯いた横顔は真っ青で、貧血でも起こしているみたいだった。


 目の前で滑り台から転落する子供。

 南方が助けられなかった小さな命。彼女と侑、何が違うのか。それは純粋な身体能力と潜り抜けて来た場数によるものだ。侑でなければ、届かなかった。


 侑は困ったように頭を掻いた。




「俺だっていつでも助けられる訳じゃねえ。今は偶々、間に合っただけだ」




 その声には深い後悔と苦渋が滲んでいる。

 野生動物みたいな身体能力と反射神経を持った侑であっても、何でも助けられる訳ではない。湊が柔らかな声で言った。




「貴方に見せたいものがある」




 その声とは裏腹に、湊は作り物のような無表情だった。

 温かな日差しの下で空気が冷たく澄んで行く。湊は僅かに微笑むと、後はずっと無言だった。居心地の悪い沈黙と共に事務所に戻れば、湊は事務室から一通の封筒を差し出した。


 何の変哲も無い白い封筒だった。宛名も切手も無い。けれど、それはまるで雨に打たれたかのように歪んでいる。湊が差し出すと、南方が躊躇いながら受け取った。




「それ、何」




 航が小声で訊ねると、湊がはっきりと答えた。




「遺族の手紙」




 空気が張り詰めたのが、分かった。

 一通の封筒が途端に重みを増して、まるで手錠のように感じられた。南方の手は震えていた。湊は封筒を指して言った。




「マスコミ関係者に知り合いがいて、貸してもらったんだ。来月辺り雑誌に掲載されることになってる」




 南方の細い指先が、震えながら封を開く。

 中から取り出された白い便箋には、ボールペンの文字がびっしりと書かれていた。


 遺族の手紙。それは、南方のいた保育園で起きた事故で亡くなった子供の母親が書いた手紙だった。


 手紙は堅苦しい時候の挨拶から始まった。

 我が子を身篭った時の喜び、陣痛の苦しみ、そして生まれた時の弾けるような希望が美しい文字で淡々と記されている。沐浴させた時の緊張、初めて熱を出した時の怖さ、成長して初めて喋った言葉は母親を呼ぶ声だったこと。


 四歳の男の子だった。

 じっとしていることが苦手で、外で走り回ったり、虫を探したりするのが好きだった。玩具の類は欲しがらず、いつも昆虫の図鑑を眺めていた。友達と上手く関われず、衝動的に手を上げてしまったこと、叱った時に声を上げて泣いたこと。


 野菜が苦手だった。母親はパン屋で働いており、売れ残りの惣菜パンを喜んで食べた。経済的な理由でアイスやお菓子のようなものは滅多に与えられず、保育園のおやつが大好きだったこと。


 保育園からの帰り道、母親と手を繋いで帰ったこと。母親はシングルマザーで、我が子の成長が人生の全てだった。一日の出来事を聞くのが母親の唯一の楽しみで、喧嘩のことを聞けば不安で堪らなくなり、膝に出来た擦り傷を見せて泣かなかったことを得意げに話す姿を頼もしく感じたこと。


 その日は、木枯らしの吹く寒い日だった。

 母親の職場の電話が鳴って、保育園の担任の強張った声に掌に汗が滲んだという。息子が滑り台から転落して、救急車で病院に運ばれた。母親が駆け付けた時には息子はもう息をしていなかった。


 病院のベッドに寝かされた我が子は、まるでただ寝ているように見えた。呼び掛ければ返事をして、また自分を呼ぶのではないかと。最後に見た我が子の姿が朧げに目蓋の裏に蘇り、目の前の現実を否定する。手足は痺れ、感覚が無くなり、自分の力で立っていることも出来なかった。


 助けて下さい。医者に、看護師に何度も訴えた。

 自分の心臓でも手でも何でも良い。全て使っても良いから、息子を助けて下さいと。けれど、その時にはもう誰にもどうしようも無くて、看護師に支えられながら叫び続けていた。


 抱っこが大好きだった息子の体をいつものように抱き上げた時、鉛のように重く、石のように硬かったこと。現実を受け止められず、涙が出なかったこと。棺に納められた我が子はただ眠っているように見えて、起こさなければと手を伸ばした時、祖母が泣きながら止めたこと。


 小さな骨壺に収まった我が子。

 まだ、四歳だった。ランドセルの色は何色が良いだろう。大きくなったら何になりたいの。そんな問い掛けに答えは無い。


 保育園で、保育方針がいきなり変わったことは知っていた。けれど、女手一つで息子を育てる母親が、幼い我が子を預かってもらっている保育園に感謝すれど文句なんて言える筈も無かった。


 保育士が泣きながら頭を下げて謝る様を他人事のように眺めていたこと。誰を憎み、恨んでも我が子は帰って来ないこと。当たり前にあった日常が失われたことを理解出来ず、息子の為に惣菜パンを持ち帰ったこと。


 我が子は死んだ。滑り台から転落したから。初めは、腕白な息子が無茶をしたのだと、親の躾のせいだと自分を責めた。けれど、事故の状況が明らかになるに連れて、まるで腹の底を炎で炙られているような堪え難い怒りを抱いた。


 子供の自主性を謳った放任と無法地帯。いつ事故が起きてもおかしくなかった危険な状態が慢性的に続いていて、それが偶々息子だった。


 保育園は休園措置が取られたが、遺族には何の説明も無いまま再び運営された。そして、警察や司法はそれを裁かない。

 これは本当にただの不幸な事故だったのか、それとも教育という大義名分による殺人なのか。真相は分からない。


 ただ一つ願うのは、息子に会いたい。

 ただ、それだけだった。


 それを読み終えた時の遣る瀬無さを、航は表現することが出来なかった。我が子を亡くし、原因も追及されず、何事も無かったみたいに世界は回り続ける。




「この記事が出たら、その保育園は世間の糾弾は免れないだろう。記事を握り潰すことも出来る。だけど、そうなった時、本当に苦しむのは子供達だ」




 湊の声は冷たく乾いていた。

 ぽたぽたと、雨垂れのような音がした。南方の瞳から透明な滴が零れ落ち、噛み殺された嗚咽が隙間風のように微かに聞こえた。




「何が最善か分からない。だから、貴方が決めてくれ」




 彼女が背負うべき十字架。

 南方が不遇な立場にあったことは分かる。だけど、遺族の気持ちを考えると、航にはもう慰めることが出来なかった。




「……ありのままを、記事に」




 絞り出すような掠れた声で、南方が言った。

 湊はフラットな声で返事をすると、手紙を受け取った。




「直輝くんは、昆虫が大好きで、年長さんの育ててるカブトムシをいつも羨ましそうに見てた……」




 頬に涙を張り付けたまま、南方が言った。




「年長さんになったら、カブトムシのお世話をするんだって、楽しみにしてた……」




 もう叶わない。

 永遠に叶わない。

 それは、身を引き裂くような悲痛な嘆きだった。




「私があの時、受け止められていたら……。私がもっと大きな声で反対していたら……」




 そうしたら、違った未来もあったのだろう。

 大切なものは失くしてから気付き、失った命は戻らない。そんな当たり前のことを、どうして。




「記事が出たら、保育園も貴方も社会的制裁を受ける。それは貴方が想像するよりも苛烈で陰湿だ」

「……でも、それは私が受けるべき罰なの」




 南方は覚悟を決めたような、何処か痛々しく、そして清々しい顔をしていた。遺族の手紙を読んだ後、航には掛ける言葉が見付けられなかった。気休めの慰めでは何も救えない。彼女は受けるべき罰を受ける。そうして、何が残るというのか。


 この事故を教訓にしなければ、人は過ちを繰り返す。その結果、南方の人生が台無しになったとしても、未来のある子供達の命とは天秤に掛けられない。


 湊はパソコンに向かっていた。気休めも慰めも言わない。

 どうにか出来ないのかよ。この人だって、その子を死なせたい訳じゃなかった。命を守る為に抗った。それでも、何処かに救いは無いのか。


 湿っぽい沈黙に包まれた室内に、キーボードを叩く音が虚しく響く。侑は壁に寄り掛かり、遺族の手紙を何度も何度も読み返していた。




「俺から一つ、提案があるんだけど」




 回転椅子がくるりと回り、湊は内緒話を打ち明けるみたいに声を潜めた。

 南方が聞く姿勢を取ると、湊は何処からかパンフレットを取り出した。募金で出来た小学校、日本人教育者。場所は、アフリカだった。




「エンジェル・リードの活動の一つで、アフリカに学校を作っているんだ」

「アフリカ?」

「そう。所謂、第三世界だね。労働力として酷使される子供達が普通教育を受けられるように」




 寝耳に水だった。

 エンジェル・リードは若い芸術家に資金援助する投資家だ。それがどうして慈善事業のようなことを始めるのか。




「第三世界では、普通教育を受けられない子供達が沢山いる。文字の読み書きも、計算も知らず、労働力として酷使され、何も分からないまま大人になる。……命の価値を知らないまま、僅かな金銭と引き換えに売られる子供もいる」




 第三世界の貧困については、航も知っている。

 父は紛争地で医療援助する医者だった。其処がどれだけ地獄で、悲劇に満ちているのかも聞いている。




「子供達は助けを求めている。貴方の力が必要だ」




 それはまるで天上から降り注ぐ福音のように聞こえた。

 何でも救える訳じゃない。罪には罰が下るべきだと思う。だけど、せめて、希望のあるマシな未来を。




「子供達に、命の価値を教えて欲しい。あの一歩の重みを知っている貴方に」




 南方は、すぐに返事をしなかった。

 考えさせて欲しいと返答を先延ばしにして、涙を拭った。


 湊はパンフレットを纏めて茶封筒に入れ、南方のデスクに置いた。




「無理強いはしない。試用期間が終わるまでに答えを下さい」




 そう言って、湊はそのまま事務室に篭ってしまった。


 侑は遺族の遺書を丁寧に仕舞って、身を起こした。エメラルドの瞳は朝の湖畔のように美しく澄んでいる。















 2.十字架の所在

 ⑼命の代償











 航はソファの横を通り抜け、事務室でパソコンを開いた。湊は集中すると周りが見えなくなるので、見向きもしない。


 膨大な数字データは所謂、帳簿と呼ばれるものだ。湊は良い加減な性格なので収益についての詳細な記録を残していない。だが、航が手伝ったこの数ヶ月の活動内容と帳簿の計算が合わないのだ。


 エンジェル・リードは何処からか大金を得て、しかも定期的に何処かへ流している。


 裏帳簿があるんじゃないかと勘繰ったが、エンジェル・リード自体が正式に登録されていない不当な企業なので、確定申告や税金も掛からない。航は兎も角、湊と侑は社会に於いて透明人間みたいな存在なのだ。


 では、膨大な資金は何処から入って、何処へ出て行っているのか。献金なんて狡い真似はしないだろう。エンジェル・リードの活動費用は一体、何処から捻出されているのか。


 犯罪の一部始終を覗いたような心地で、航は湊の肩を叩いた。




「なあ、湊」




 湊が目を瞬いた。集中状態から解けたのだろう。航はパソコンを指差した。




「俺の記憶と帳簿の数字が合わねぇんだけど。エンジェル・リードの金は一体、何処から出てる」




 湊はパソコンを眺めながら、溜息を吐いた。




「俺のこと、詐欺師だとでも思ってんの?」




 湊の声は、微かな苛立ちを含んでいた。

 眦を釣り上げ、湊は高圧的に腕を組んだ。




「エンジェル・リードの利益は基本的に赤字だから、主な収入はFXだよ」




 FX ――外国為替証拠金取引。

 つまり、エンジェル・リードの資金は、湊の個人資産だと言う。兄が多才なことは知っているが、子供に出来ることなのだろうか。湊はパソコンを弄って画面を変えると、株価の変動を映して蕩々と言った。




「世の中は需要と供給。大切なのは先を読み、欲張らず、退き時を見誤らないこと」




 そういえば、ギャンブルも得意だったな。

 アメリカにいた頃は、カードカウンティングが上手過ぎて賭博場から出禁を食らっていた。


 胸の中に広がっていた不安が霧散して行く。

 航は気を引き締めた。




「じゃあ、この金は何処に流れてんの」




 航は画面を指差した。毎月、百万円近い金額が何処かに消えている。湊は口を尖らせた。




「聞いてただろ? 第三世界に学校を作る為に寄付してるんだ」




 航はびっくりした。




「嘘じゃなかったのか?」

「俺のこと何だと思ってんのさ」




 湊が呆れたみたいに言った。

 そのタイミングで玄関の扉が開く音がして、侑の呑気な鼻唄が聞こえた。足音が真っ直ぐ事務室に近付いて、扉の前で止まる。




「なんだ? また喧嘩か?」

「喧嘩じゃないよ」




 湊はそう言いつつ、気を悪くしたみたいにそっぽを向いた。

 侑はエメラルドの目を細めて笑っていた。航は不貞腐れた湊を指差した。




「アフリカに学校なんて、うちの仕事に全然関係無いだろ」




 エンジェル・リードが色々と手広くやっていることは知っているが、何が目的なのかよく分からない。

 湊は濃褐色の瞳に柔らかな光を宿し、静かに言った。




「俺だって、親が死んで何も思わなかった訳じゃないよ」




 湊は悲しそうに笑った。

 今の湊は裏社会の住人で、世間的には犯罪者である。けれど、一銭の得にもならないのに後進国に資金援助している。このちくはぐな行動の起点は、――両親の死だった。




「戦争を失くすことは難しいかも知れない。だけど、平等な教育は誰かの命を、未来を守るかも知れない」




 綺麗事だな、と思った。だけど、湊らしいとも思った。

 エンジェル・リードは社会の未来に投資する。例え、それが後ろ指差されるような汚い遣り方であったとしても、誰かがやらなければこの世界は変わらない。




「誰もやらないのなら、俺がやる」




 湊はそう言って、微笑んだ。


 言い分は分かる。納得も出来る。だけど。

 航には、その先を追及することが出来なかった。


 湊はパソコンを閉じて、もう帰ろうかと言った。

 事務所の電気を消す。暗くなった室内はまるで墓場のような印象を与える。航は暫く眺めていたが、湊の声がして、そっと扉を閉じた。

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