⑻愚者の十字架

 ニューヨークに戻るまで、あと三日。

 荷物は纏め終え、飛行機のチケットも取った。山程あった経理業務もゴールが見えて来て、目先の問題は片付きそうだった。


 冬の空はよく晴れて、空気は冷え切っている。

 航がバイクで事務所に行くと、既に湊と侑がいた。二人は応接室のソファで頭を突き合わせて、声を潜めていた。




「桂馬の動きが読めねぇ」

「香車もね」




 桂馬に香車。将棋の話だろうか。

 航は将棋のルールを知らないので、よく分からなかった。素知らぬフリをして扉を開けると、二人が一斉に振り向いた。まるで、密談でもしていたみたいだった。




「おはよう、航」




 湊も侑も、胡散臭いくらい綺麗な笑顔だった。

 隠し事をされていることは明白だ。だが、説明されないということは、今はまだ知るべき時ではないのだろう。


 ゆっくり大人になれ、と湊は言った。

 嘘偽りの無い本心だった。湊の願いを踏み躙る真似はしたくない。――けれど、黙っている程、御人好しではないので。




「勝負しようぜ、湊」

「良いよ。何が良い?」

「バスケ」




 母国では、航も湊もバスケットボールをしていた。

 ポジションが違うので、1on1は平等な勝負にはならないだろう。だが、負けると分かっていても立ち向かって来るのが湊と言う男なので。




「じゃあ、公園に行こうか。ボールあったかな……」

「たまに高校生くらいのガキ共がやってるぞ。借りれば」




 侑が言った。湊はなるほど、と頷いて立ち上がった。

 湊とバスケをするのは久しぶりだった。幼い頃とは体格も違うし、航は大学のクラブチームに所属する現役だ。




「俺が勝ったら、お前が隠してること洗いざらい話してもらう」

「良いよ。じゃあ、お前が負けたら昼飯奢ってもらおうかな」




 何だ。大した秘密じゃなさそうだな。

 航は呆れ混じりの溜息を吐いた。そうしている内に南方が出勤したので、四人でバスケットボールコートのある近所の公園に向かった。


 ちょっと、わくわくしていた。

 実力差は歴然なのに、湊は易々と此方の想定を超えて来る。刹那の駆け引き、胸の高揚。航はスキップでもしたい心地で街を歩いた。


 道すがら、湊が侑にバスケットボールのルールを説明していた。侑は孫の話を聞く祖父のように、穏やかに耳を傾けている。


 明らかに高校生で、サボりだろう男子生徒達がバスケットボールコートを占領していた。航と湊がボールを貸してくれと頼むと、二対二の勝負になった。高校生のお遊びに負けるような鍛え方はしていないので、二人で負かしてやった。


 航は点取屋のフォワード、湊はコート上の司令塔、ポイントガードだった。湊から送られて来るパスは、欲しいと思った時に魔法みたいに手元にやって来る。互いの思考が手に取るように分かる。まるで背中合わせの共闘みたいだ。バスケを離れて久しい湊に腕の鈍りは無いようで安心した。


 高校生達が休憩する三十分くらいの間、コートを借りた。

 航がドリブルしながらシュートを決めると、南方が拍手をした。バスケのルールを侑に説明し終えた湊が端に座ってしまったので、嫌な予感がした。




「侑がやんのか?」

「おう。お手柔らかにな」




 侑は肩を竦めて笑った。

 ハンデとして先攻はくれてやる。航が身構えたその瞬間、まるで風のように侑が切り込んで来る。初心者とは思えない身の熟しにぞっとした。航はギリギリで滑り込み、ボールがリングに打ち込まれる寸前で弾いた。


 投げ出されたボールに手を伸ばす、その瞬間。

 疾風のように、侑が目の前でボールを引っ攫って行った。技術や経験ではない。侑は純粋な身体能力だけでバスケをしている。


 素人だからこそ、次の一手が読めない。兎に角、遣り難い相手だった。航も伊達でやって来た訳ではないので、攻守は何度も何度も切り替わり、決着は着かなかった。


 航の息が切れても、侑は汗一つ流さずに平然と笑っている。




「さあ、来いよ」




 ボールを持った航に対して、侑は猛獣のように低く身構えていた。その顔は笑みすら浮かべているのに、エメラルドの瞳ばかりが爛々と輝き、今にも喉笛を噛み千切らんばかりの殺気を滲ませていた。


 隠している秘密を賭けて勝負する。

 航は湊とそう約束した。簡単に勝負に乗って来た湊に、大した秘密ではなさそうだと思ったが、もしかして。


 航が切り込んだその瞬間、侑の腕が伸びる。視線誘導もフェイントも通用しない。侑は脊髄反射みたいにボールを弾き、コートを蹴った。


 アスファルトの地面がぎしぎしと悲鳴を上げる。頬を撫でた風は冷たく、侑の金髪はまるで一筋の流れ星みたいに通り過ぎて行った。


 侑の掌がボールを掴む、刹那。

 湊が声を上げた。




「試合終了!」




 高校生達の休憩時間が終わったらしかった。

 夢を見ていたみたいに、あっという間の時間だった。侑は手の中のボールを弄びながら、残念そうに苦笑した。




「これからだったのにな」

「……」




 航は答えられなかった。

 コート内を振り返る。侑が踏み切ったアスファルトの地面がひび割れていた。アスファルトが脆弱だったのか、それとも、侑が人間離れした脚力を発揮したのか。


 このアスファルトが人間の肉体だったらと思うと恐ろしい。侑は武器も道具も無く、人を破壊する術を持っている。


 乾いたタオルを投げ渡し、湊は微笑んだ。




「バスケは引き分けだね。今回は航に有利な勝負をしたから、次は俺の土俵でやろうぜ。ポーカーにしようか」




 航は舌を打った。

 カードゲームは湊の得意分野である。航は、湊がポーカーで負けたところを一度も見たことが無かった。




「狡いだろ! 二対一じゃねぇか!」

「狡いも何も、航はルールを確認しなかったろ?」




 食えない男である。

 もう何もかもどうでも良くなってしまって、航はタオルで汗を拭いながらフェンスに凭れ掛かった。


 かしゃん、とフェンスが微かに鳴った。

 南方がドリンクを差し出して来たので、航は礼を言って受け取った。




「二人共、すごいね。プロの試合を見てるみたいだった」




 南方が感心したみたいに拍手する。

 プロじゃない。それどころか、アスリートですらない。

 航のバスケがスポーツならば、侑のやったことは暗殺術に近い。これはバスケの皮を被った殺し合いみたいなものだった。


 侑は相変わらず、汗の一つも掻いていないし、息も乱れていない。対峙して分かる。天神侑は本物の化物だった。




「南方さんも、何かスポーツしてた?」




 湊が聞いた。

 南方は緩く首を振った。




「学生時代はバドミントンをしてたけど、働き始めてからは全然やってない」

「あれ、かなり激しいスポーツらしいね」




 航はフェンスに寄り掛かりながら、二人の会話を聞いていた。バスケコートでは高校生達が拙いながらも活き活きとバスケを楽しんでいる。




「私って、何も無いな」




 晴れやかに溢されたのは、嘆きだった。

 逃げるように保育園から転職し、慣れない事務作業に追われ、身元のはっきりしない裏社会の住民と会社ごっこ。

 南方は土俵にすら立てていない。けれど、それは決して彼女自身の落ち度ではない。湊は苦く笑った。




「そんなことないさ」

「ううん。そうなのよ。私、何も出来ないから」

「新しいことを始める時は、みんなそうだと思うよ」

「湊くんは優しいね」




 南方は力無く微笑んだ。けれど、湊は不思議そうに首を捻った。




「俺はお世辞は言わないよ。南方さんは頑張ってる。世の中にはそれすら出来ない人が大勢いるからね」

「……」

「謙虚さは美徳なんて言うけどね、それは自分を押し殺すって意味じゃないんだよ。自他を正当に評価することなんだ」




 湊は歌うような軽やかな口調だった。

 南方は小さく息を吐くと、フェンスに寄り掛かった。




「……前の職場でね、ある時期、保育方針が変わったの」




 ぽつりと、まるで独り言みたいに南方が言った。




「子供の自主性を尊重するってスローガンで、色んなことが変わって行った。子供の遊びを見守りましょう、否定する言葉は使ってはいけません、やりたいことをやりたいだけさせましょうってね」

「そんなの、放任だろ」




 侑が鋭く言った。

 南方は苦く笑った。




「私も、そう思う」




 その声は、まるでやすりでも掛けられたみたいに掠れていた。




「危険な時には制止して、いけないことは叱る。……私は、それは大人の義務だと思ってた。だけど、会議で吊し上げられて、園長先生にね、貴方は子供の力を信じていないのねって言われて」

「……そういう話じゃないだろ」




 侑の指摘に、航も頷いた。

 けれど、保育園のトップが掲げるスローガンに反対出来る筈も無い。彼女の職場は閉鎖的で、第三者の視点が入ることも無かった。


 想像するだけで、恐ろしかった。

 耳障りの良い言葉を並べて、実際にやっていることは放任で、反対意見は潰される。自分ならば堪えられない。どうして、そんな職場を見限らずに勤続したのか。




「ずっと、怖かった。いつか取り返しの付かないことになるんじゃないかって……」

「その方針には、誰も反対しなかったの?」

「みんなは絶賛してた。新しい時代の保育だって。本当に何を考えていたのかは、分からないけど」




 これは、辛かっただろうな。

 航には想像することしか出来ない。嫌なら辞めちまえば良いなんて、他人だから言える。取り返しの付かないことになるかも知れないと思いながら、それでも目の前の子供の命を守る為に彼女は逃げることも出来なかった。


 そして、最悪の事態が起きてしまった。




「風通しの悪い組織は腐敗する……か」




 侑が言った。

 南方を迎え入れる前に、湊が言っていたことだ。

 風見鶏のような組織では業務は成り立たない。だが、風通しの悪い組織は腐敗する。


 湊は頭の後ろで手を組んだ。




「教育って、そんな簡単なものなの?」




 南方は答えなかった。侑も、航も黙っていた。

 教育が何たるかなんてことは、誰にも分からない。

 理想論だけを謳って話し合うことをしなかった園長、疑問を抱きながら行動を起こせなかった南方、風見鶏みたいに流されるままだった職員、保護者。誰を責めても、亡くなった子供は生き返らない。


 いじけた子供みたいに、湊は呟いた。




「この国の教育は時代遅れだね」




 そう言って、湊は先を歩き始めた。
















 2.十字架の所在

 ⑻愚者の十字架












 事務所までの帰り道、新しい定食屋が出来ていた。

 勝負は引き分けだったので、折衷案として湊が金を出した。四人で昼食を取ってから、のんびりと帰路を辿る。帰ったら膨大な事務仕事に追われて、帰る頃には外は真っ暗になっているだろう。


 しかし、気分は軽かった。

 久しぶりに思い切りバスケが出来て楽しかったし、良い気晴らしになった。湊と侑の隠し事については何の情報も得られなかったけれど、それはもうどうでも良かった。


 帰り道、公園を横切った。界隈を散策している時に見付けた近道だった。未就学児くらいの子供達が角砂糖に群がる蟻みたいに滑り台に集まっている。母親達は公園の端で談笑し、誰も子供を見てはいなかった。


 悪ガキを絵に描いたような男の子が、滑り台の柵の外にぶら下がって得意げにしていた。それを見た仲間達が声を上げて喜び、一人、また一人と真似をする。


 ざわざわと、腹の底が落ち着かない。

 嫌な感覚がした。指先から血の気が引いて行くような、気が遠くなるような不安感。


 あ、と思った時。

 先陣切った男の子が足を滑らせ、転落する。驚愕と絶望に染まる横顔が、航には鮮明に見えた。たった数メートル。だけど、打ち所が悪かったら?


 一瞬の躊躇が命取りだった。

 航が一歩目を出しあぐねたその瞬間、湊と侑が一気に駆け出した。初動は湊の方が早かった筈なのに、侑はエンジンを積んだロケットみたいに一気に加速して、転落する男の子の下に滑り込んだ。


 間一髪で受け止められた男の子は、暫し呆然としていた。




「やんちゃが過ぎるぜ、クソガキ」




 侑は気障に笑った。けれど、その横顔には確かな安堵が滲んでいた。男の子は侑の腕の中で、火が点いたみたいに泣き出した。其処で漸く母親達が異常に気付き、酷い剣幕で駆け寄って来た。




「うちの子を離して!」




 侑の腕から我が子を奪い、母親はまるで汚らわしいものを見るみたいに睨んで来た。侑は何も言わなかった。母親の心無い言葉なんて聞こえてもいないようだった。


 侑は言い返さないし、弁解もしない。

 航には、それが我慢ならなかった。




「アンタの息子、滑り台から落ちたんだぞ」




 航は言った。




「今は間に合ったから良かったけど、死んでたかも知れなかったんだぞ」




 閑静な住宅街に子供の泣き声が轟く。辺りにいた親子が遠目に伺っている。母親が問い掛けると、息子は腕の中で肯定した。其処で漸く、母親は状況を理解したらしく、侑に深く頭を下げた。




「無事で良かったよ」




 侑が穏やかに言った。

 欲のない男である。言い返せば良かったのに。

 南方はこの世の終わりを見たかのような蒼白な顔付きで、愕然と立ち尽くしていた。彼女の過去を思うと、航はその目を塞いでやりたかった。


 母親に縋って泣く子供の前に、湊が膝を突く。




「どんなものも、間違った使い方をすれば大変なことになる。今なら分かるね?」




 語り聞かせるような落ち着いた声だった。

 男の子が頷くと、湊はその頭を撫でて立ち上がった。

 母親達も居心地が悪かったのか、そそくさと退散して行った。


 胸糞悪い。

 せっかく助けてやったのに、酷い態度だ。あんな親の元ではろくな大人にならないだろう。

 母親に手を引かれる男の子が、振り向いて手を振った。侑が苦笑して応えてやる。それを見ていると怒りが収まって、なんだか遣り切れなかった。

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