⑺他人の荷物

 膨大な数字をパソコンに打ち込みながら、航はコーヒーを啜った。湊の寄越した経理業務は相変わらずゴールが見えず、既に一週間が経っている。春休みが終わる前には片付けておいてやりたいが、微妙なところだった。


 事務員として試用期間中の南方と手分けして行ったが、細々としたミスがあり、二度手間だった。それでも、人手があることは助かっているので、航は何とも言えない気持ちになる。自分が二人いれば二倍の速さで終わるのに。


 昼休みに、湊と侑が何故か地方の駅弁を買って来た。

 新宿のデパートで駅弁フェアが開催されていたらしい。バラエティに富んだ品揃えを眺めながら、航は視線を巡らせ、南方に声を掛けた。




「好きなの選んで良いぜ」

「良いんですか?」




 南方が驚いたみたいに目を丸めた。

 航にとって、南方は殺人的な仕事量を一緒に熟す戦友みたいな感覚になっていた。


 南方は少し躊躇って、バランスの良い健康志向の弁当を選んだ。すかさず航は牛タン弁当を選んだ。残されたのは北海道名物の牡蠣飯弁当と、子供向けの新幹線の形をした弁当だった。




「責任持って食えよ」




 航が笑うと、湊は渋々と新幹線の弁当を手に取った。蓋を開ければ子供が喜びそうなおにぎりと、卵焼きにウインナーが見えた。新幹線を抱えた湊が馬鹿みたいに見えたので、胸が抄くようだった。


 侑が交換してやるよ、と言った。

 新幹線を抱える侑は、見たくないなと思った。侑は格好良くて落ち着いた大人だ。航が止めようとすると、湊が唐揚げと卵焼きを摘んで蓋の上に置いた。




「嫌いなものあるの?」




 ああ、そういう意味なのか。

 航は、侑に苦手な食べ物があるかも知れないという所まで頭が回らなかった。


 侑は照れ臭そうに笑って、弁当の牡蠣をごっそり湊に寄越した。




「牡蠣が嫌なんだよ。昔、あたったことがある」

「あたる?」

「食中毒だよ。酷ェ目に遭った」




 食中毒は激しい嘔吐や下痢などの症状が現れる。

 侑が言うのなら、本当に大変だったのだろう。航が弁当を変えてやろうかと提案すると、やんわりと断られた。


 応接室のソファで取り留めもないことを話している間に、何となく南方の話になった。




「南方さんは、どうして保育士を辞めたの?」




 湊のタメ口もデフォルトになって来た。

 南方は一度箸を置いて、困ったみたいに笑った。




「……自分に限界を感じてね」




 湊に釣られたみたいに、南方も敬語を失くしていた。

 侑は牡蠣の無くなった火薬御飯に唐揚げと牛タンを乗せ、穏やかに相槌を打った。




「大変そうな仕事だもんな」

「……」




 南方は沈黙している。

 これは、訊かない方が失礼だろう。航は箸を止めた。




「なんかあったの?」




 何かしてやれるとは思わないが、話すことで楽になることもあるだろう。航が訊くと、南方はそれを察して礼を言った。




「前に勤めていた保育園でね、園児が事故で亡くなったの。それで、堪えられなくなって」




 その話は、湊から聞いていた。

 事件性は無く、保育園自体は世間からバッシングされたが、職員に刑事的処罰や社会的制裁は無かった。不慮の事故だった。だが、我が子を亡くした親の気持ちを思うと、仕方なかったなんて言えなかった。




「園庭に滑り台があってね、十人くらいの子供が登ってた。柵の外に出てぶら下がったり、支柱から登ったり」

「猿みてぇだな」




 航は言いながら、情操未発達の子供なんて猿と一緒だと思い直した。住居であるマンションでも子供を見掛けるが、小学生くらいだった。保育園ということは、それよりももっと小さい。


 危ねぇな、と侑が嫌そうに眉を寄せた。

 子供好きの侑には、何か思うところがあったのだろう。

 南方は箸を握った。弁当は半分程残ったまま、食事は完全に停止してしまっている。




「柵の外にいた子供が足を滑らせて、頭から落ちて、救急車を呼んだけど、……助からなかった。血も出なかったのに」




 それは、きっと。

 航が言い淀んだ時、平然と湊が言った。




「頸椎が折れたんだろうね」




 湊は自分の首の後ろを指して言った。




「そうなると脊椎や脊髄が損傷するから、神経や血管が切れちゃうことがあるんだ。脳からの信号が全身に回らなくなって、筋肉が動かなくなって、呼吸も止まる」




 食事中に、こういうことを真顔で言うデリカシーの無い男である。流石に侑も顔を歪めていた。




「脳は低酸素状態になると死に至る。人間の体は思うよりずっと弱くて脆いんだ」

「詳しいね」

「学校で習ったよ」




 湊がにっこりと笑った。

 医大でもないのに、そんなに詳しく習う筈が無い。

 湊は大学時代に脳科学を専攻していたそうなので、人体については人より知識があるのだ。




「その子の冥福を祈るよ。遺族や関係者全ての人の悲しみが癒えると良いんだけど」




 湊は拙く笑った。




「あんた、止めなかったの?」




 侑の声は少しだけ強張っていた。

 一番の疑問は、其処なのだ。滑り台の上に、未就学児が十人も登って、柵の外を渡ろうとする奴もいる。そんな状況で、南方は、大人達は一体何をしていたのか。


 南方は唇を噛んだ。彼女の逡巡と侑の疑念が緊張感となって室内を包み込む。話題を変えるべきだろうか。

 南方が言った。




「自主性って、分かる?」

「他人の指示ではなく、自ら考えて行動すること」




 辞書みたいに湊が言った。

 南方は苦しそうだった。まるで、首でも絞められているみたいに。




「私達は子供達の自主性を尊重して、その姿を見守ってたの」




 物は言いようだな、と航は思った。けれど、南方自身がそれを本心から言っているようには見えなかった。まるで、抗い難い大波の中で喘いでいるようだった。


 侑は眉間に皺を寄せ、嫌そうに言った。




「危険だとしても、自主性だからって見守ってんのか」

「侑」




 湊が言った。




「教育というものは、とても難しい。人の成長に正解や不正解は無いんだ。それに学校や保育園は閉鎖的で、声を上げ難い傾向がある」

「だからって、子供が死ぬまで分かんなかったってのかよ」




 南方は俯いたまま、黙り込んでしまった。

 湊ばかりが困ったみたいに言った。




「この国は、心理学や脳科学についてもっと深く学ぶべきなんだ。組織での立ち回りや社交辞令を身に付けるなら、集団に掛かるバイアスについて警戒するべきだし、精神論や根性論の前に、脳の構造や意思決定の過程について知る必要がある」




 湊は元々科学者なので、感情論が嫌いなのだ。

 侑は納得がいかないみたいな顔でたくあんを齧った。小気味良い音が不機嫌そうに響く。


 それに、と湊が続けた。




「道の先に落ちている石ころを、転ぶかも知れないからって全部取り除いていたら、避けることも痛みも知ることも出来ない」

「そういう話じゃねぇだろ。人間は高い所から落ちたら死ぬってことをどうして教えてやらなかったかってことだろ」

「死という概念を説明出来る人は少ないよ」




 湊が少しずつ、話題を南方からずらしているのが分かる。

 侑は箸を止め、険しい顔をしていた。苛立ちが静電気のように広がって行く。嫌な空気だ。どうにか、方向転換出来ないだろうか。


 侑は尖った口調で、詰問した。




「じゃあ、教育って何なの。俺達大人は何をしてやるの」

「何かしてやるって考え方そのものが、自主性の否定に繋がるんだよ。子供は何を学ぶのか自ら選ぶ権利がある。……何だっけ、子供の権利についての条約があったと思うんだけど」

「知らねぇ。俺はまともに学校なんざ通わなかったからな」

「事故そのものについては痛ましいし、未然に防ぐ余地があったと思う。大人の怠慢や集団に掛かったバイアスについても否定しない。だけど、その罰を本当に与えるべき相手を見誤っちゃいけないよ」

「それは責任者だろ。園長とか、校長とか」

「それだけじゃ意味が無いんだよ。罰は秩序を守る為のシステムなんだ。社会に蔓延する誤った認識や教育の未熟さを見直さなければ、同じことは何度も起こる」




 侑のエメラルドの瞳に微かな怒りが滲む。

 怒気が空気に浸透して、息苦しい。




「そういう話はしてないだろ。子供が死んでんだぞ。大体、……」




 侑は、ばつが悪そうに目を逸らした。




「悪ィ。……アンタを責めるつもりは無いんだ」




 侑は南方を見て、申し訳なさそうに謝罪した。重い空気が霧散して行く。南方は首を振ったが、航は侑の味方をしたかった。


 彼女のいた保育園では、自主性を尊重するというスローガンで危険すらも看過していた。過ちに気付いても声を上げることも出来ず、結局、最悪の事態を招いた。槍玉に上げるべきは教育者であり、責任者だ。


 多分、この事故はもっと大々的に報道され、社会の中で議論されるべきだったんじゃないだろうか。例え、それが遺族の傷に塩を塗り、加害者となった人々が追い込まれたとしても。


 頭を冷やして来る、と言って侑は出て行ってしまった。

 張り詰めた緊張感は解け、まるで微温湯のような居心地の悪さが残る。




「よく分かんねぇけどさ」




 航は言った。

 この重い空気をどうにかしたかった。




「起きちまったことは、無かったことに出来ねぇ。アンタの気持ちも分かるけど、このまま見ないフリしていたら、死んだ子供が浮かばれねぇよ」




 だからどうしようという具体的な考えがある訳ではないけれど、このままでは寝覚めが悪い。

 湊ならば社会問題として提起する手段があるだろう。だけど、それは本当に正しいことなのだろうか。航が見遣ると、湊が鏡のように見返して来た。




「俺達は裁判官じゃない」

「そうだけどさ」

「この話は、お終いにしよう。楽しいランチタイムが台無しになる前に、侑を呼びに行って来る」




 湊は弁当を一気に平らげて、そのまま席を立った。

 南方は俯いてしまっている。過去の話に言及したのは航自身だったので、心苦しかった。












 2.十字架の所在

 ⑺他人の荷物













「空気悪くして、ごめんな」




 昼休みと定めた時間が終わる頃、侑が事務所に戻って来た。その時にはすっかり怒気は収まっており、航と南方に謝って来た。


 南方は首を振った。酷く申し訳なさそうにしていて、見ていて気の毒だった。

 侑が子供好きだったことを知ったのは、つい最近だった。彼の過去はよく知らないが、過酷な幼少期を過ごして来たらしいので、子供が犠牲になるのは堪えられなかったのだろう。


 侑は、世間的には悪人かも知れないが、航にとっては優しい大人だった。だから、侑一人を悪者にはしたくなかった。




「俺が話を振ったんだ。……俺の方も、悪かった」




 航が言うと、やはり南方は首を振った。

 話せば少しは楽になると思ったが、それは聞き手の技量に拠る。他人の話に対して評価も批判もせず、あるがままを受け止めるのは難しい。


 南方は寂しそうに微笑んだ。




「いいえ。私の方こそ、ごめんなさい。ランチタイムに話すことじゃなかった」




 これはもう、誰が悪いという話じゃないな。

 航は割り切って、さっさと席を立った。侑は残っていた弁当を摘みながら、そっと言った。




「うちのボスが、風通しの悪い組織は腐敗するって言ってた。脛に傷の無い奴なんかいねぇ。……俺はアンタを歓迎するよ」




 うちに限って、なんて話じゃないんだろうな。

 だから、湊は新しい社員を入れたし、航や侑の忠告にも耳を貸す。南方の前の職場は、そうじゃなかった。だから、最悪の事態が起きた。


 南方は力無く笑った。そして、唐突に思い出したみたいに手を打った。




「そういえば、書類持って来ましたよ。どなたにお渡ししたら良いですか?」




 面接した日に、湊が色々と説明していた。

 航は少し迷って、侑に頼んだ。エンジェル・リードの窓口は侑ということになっているからだ。


 侑はファイルに入れられた書類を受け取り、微笑んだ。

 エメラルドの瞳は、雨上がりの空のように澄んでいた。




「ボスに渡しておくよ。ありがとな」




 弁当を食べ終えた侑が立ち上がる。

 外回りに行くと言うので、航は事務室からノートパソコンを引っ張り出した。南方を一人にさせるのは悪いと思ったからだった。




「湊は何処行ったの」

「電話中」




 航が訊くと、侑が答えた。

 またか。最近、多いな。

 何処の誰とどんな悪巧みをしているのか知らないが、少し休ませてやろう。給湯室の棚を覗くと貰い物の焼き菓子があったので、皿に出した。


 戻って来た湊が焼き菓子を見て喜んで、コーヒーを煎れた。料理は適当な癖に、コーヒーだけは上手いのだ。

 芳ばしい香りの中、湊が言った。




「航も侑も優しいねぇ」

「何のことだ?」




 湊はマグカップを両手で包み、水盤に背を預けた。




「他人の荷物は背負えないよ」




 その目は真冬の空のように冷たく透き通っている。




「予防線は明確にね」

「何の忠告だよ」




 航が訊いても、湊は答えなかった。ウェイターみたいに焼き菓子を載せた皿を持って、ステップを踏むみたいに事務所に戻って行く。南方に皿を提供する笑顔は、仮面のようだった。

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