⑹多事多端

 月曜日の午前八時半、事務所のチャイムが鳴った。

 航は部屋の掃除をしていた。台拭きを畳み直して机の隅に置き、ビニール手袋を外してゴミ箱に投げ入れる。インターホンを確認すると、リクルートスーツを着た南方花が映っていた。


 玄関を開けた時、外の冷たい風が吹き込んだ。南方は体育会系みたいな威勢の良い声で挨拶をした。久しく関わらなかったタイプの人間だ。航は苦笑して部屋の中に招き入れた。


 侑から、事務所内の案内を頼まれていた。

 玄関の扉を開けるとフローリングの廊下があり、左手にトイレ、給湯室が並んでいる。廊下の先は応接室に続き、更に奥には湊がよく引き篭もっている事務室がある。


 元々この事務所は湊と侑が二人で使うことを想定していたので、更衣室やロッカーの類は無い。ついでに机も無いので、急遽、奥の事務室から応接室に持って来て設置した。事務作業をしてもらう為のパソコンも無いので、型落ちのデスクトップを買って来たばかりだった。初期設定は昨晩、湊が何かしていたようだ。




「アンタの机は此処だ。荷物は此処に置いてくれ。貴重品の管理は自分で頼むぜ。昼食は俺達で作ることもあるが、出前もある。弁当を作って来ても良いし、時間さえ守ってくれりゃ外食でも良い」

「分かりました」




 南方は熱心に説明を聞いているようだった。

 航は応接室を見渡してから、奥の扉を指差した。




「あっちは事務室で、うちのヒキコモリが巣を作ってるから入るな」

「ヒキコモリ?」

「そう。初日に会っただろ? センスの悪いシャツを着た変な奴」




 南方が笑った。

 一応、記憶に残っていたようで良かった。湊は自己紹介もしなかったのだ。南方は目の端に笑みを残し、訊ねた。




「あの方もアルバイトですか?」

「あー、そんなところ。もうちょっとしたら来るから、詳しいことはその時に聞いてくれよ」




 これ以上の説明は自分では難しい。

 航が視線を泳がせた所で、玄関から扉の開く音がした。




「待ってましたよ、南方さん!」

「お待たせしました、だろ」




 弾んだ声で湊が叫んだ。

 そのすぐ後を、侑が訂正しながら付いて来る。湊はあっという間に南方に歩み寄り、右手を差し出した。パーソナルスペースが狭いのだ。南方が戸惑っているのが分かる。


 侑が横から宥めるように言った。




「お前、自己紹介してないだろ。南方さん、こいつはうちの……」

「アルバイトで事務をしています、湊です。宜しく!」




 躊躇う南方の腕を取って、湊が人懐こく笑った。

 握手を求めた癖に、さっさと手を離して湊はパソコンデスクに向かった。




「仕事内容を説明しますね。出勤したら、まずパソコンを起動して、メールチェックをして下さい。エクセルに打ち込んで欲しいデータを貴方宛に送っておくので、それをやっていただきます。それから、来客時の対応ですが……」




 湊が物凄い勢いで業務内容を説明して行く。

 距離感とタイミングには疑問が残るが、説明内容は簡潔で分かり易かった。ソフトの基本的な扱い方を教えると、今度は南方を連れて給湯室へ行ってしまった。


 お茶汲みを教えているらしい。

 航と侑はすっかり取り残されてしまっていた。




「忙しないな」

「青龍会の方が立て込んでるらしい」




 侑が言った。


 中国の黒社会と呼ばれるマフィアの総本山、青龍会。

 一年程前に代替わりしてから、未だに内紛が続いている。青龍会のトップと湊は大学時代の研究室の仲間で、友人だった。




「この前の武器商人が青龍会と繋がってんだとよ。うちは公安と親交があるし、板挟みなんだよ」

「……」

「ハイエナは湧いて来るし、貧乏籤びんぼうくじばっかり引かされてんだ。ちょっとは労ってやれ」

「俺が労ったら豚が飛ぶとか言い出すぞ」

「なんで豚? 羽も無いのに飛ばねぇだろ」




 日本ではどのように表現するのだろう。

 航が考えていると、侑が言った。




「好きなものでも食わせてやれよ」

「気が向いたらな」




 航は鼻を鳴らした。












 2.十字架の所在

 ⑹多事多端たじたたん











 来栖凪沙の一件は、エンジェル・リードの名を裏社会に知らしめた。それは航達が想定していたよりも最低な結果だった。


 エンジェル・リードは若い芸術家に資金援助する。小さなドミノ牌を並べるように、いつか明るい未来に繋がって行くようにと願っていた。その結果が凶悪な殺人事件や武器密輸に繋がってしまったのは、これ以上無い屈辱だった。


 俺達に足りなかったのは、情報と手札。

 来栖凪沙の過去を調べ上げる手腕と、武器密輸を阻むだけの術。エンジェル・リードの名が売れることで、資本主義の犬がハイエナのように湧いて出る。そんな手合いを飼い慣らす技術を航は持っていなかった。


 商談の場に湊が出なければならないことが増えた。そのせいで、これまで湊が片手間に済ませていた細々とした業務が溜まってしまい、投資先を視察することも出来ない。


 日曜の夜に訪れた無粋なハイエナを湊があしらった後、航は訊ねた。




「なんか手伝おうか」




 湊が驚いたみたいに瞬きをして、にっこりと笑った。




「豚が飛ぶね」

「うるせぇ」

「でも、ありがとな。明日、事務所のパソコンに事務仕事を送っとくから、頼むよ」




 そんなやり取りをした翌日、事務所のパソコンを開いたらメールが届いていた。添付ファイルにとんでもない量の帳簿データが入っていて、思わず航は天を仰いだ。


 伝票整理に経費精算。いつから滞っていたのか考えるだけでぞっとする量の数字データだった。そのお蔭で航は、一日中パソコンと睨めっこする羽目になってしまった。


 南方の初出勤日、航は事務室に引っ込んで細かな経理業務に追われていた。


 数字は嫌いじゃないが、それでもうんざりする程の量だった。内部情報を他人に任せるのは不安だったが、湊が事務員を欲しがる理由も分かる。効率の問題ではなく、物理的に不可能な仕事量である。


 航がパソコンに向き合っている間、侑は何処か外回りに行ってしまい、湊は南方に指示をしつつ誰かと電話をしていた。


 集中すると周りが見えなくなる悪癖がある。

 いつの間にか外は真っ暗になっていて、南方は退勤時刻を迎えていた。机には温くなったコーヒーが置かれていて、飲んでみたらいつもより少し濃かったので、もしかしたら南方が淹れてくれたのかも知れなかった。


 コーヒーを飲んでいたら侑が事務室を覗き、航は仕事を切り上げた。




「おかえり、侑」

「ああ、ただいま。……お疲れ、大変だったろ」

「なんでこんなになるまで溜めてんだよ」

「俺は経理出来ねぇからな」




 悪いな、と侑が苦く笑った。別に侑を責めるつもりはなかった。

 電話を終えた湊が呑気な顔で事務室に入って来たので、航は声を上げた。




「おい、湊! 何なんだよ、この量!!」

「緊急性が低いから後回しにしてたら、そうなった」




 悪びれもせずに湊が笑う。




「スイスの銀行がこの前、倒産しただろ? 其処にうちの口座があったんだ」

「はあ?!」




 航の声は侑とぴったり重なっていた。

 侑も知らなかったらしい。湊は他人事みたいに「言ってなかったっけ?」と首を捻っていた。


 銀行が倒産。じゃあ、エンジェル・リードの資産は泡のように消えて無くなってしまったというのか。


 眼精疲労と衝撃の事実が津波のように襲い掛かり、鉄のたがが嵌められているみたいに頭が痛くなる。航が愕然としていると、湊が困ったみたいに頭を掻いた。




「資金は色んな所に分けてあるから大丈夫だよ。最近忙しくて欧州まで目が届かなかったんだ」

「どのくらい消えたの」

「十万ドルくらいだったかな。ちょっと忘れちゃった」

「日本円だと?」

「一千万」




 航の返答を繰り返して、侑が目を丸くした。

 小銭を落としたみたいな軽さで湊が平然と言うので、航は怒る気力も失くしてしまっていた。


 金に執着が無いことは知っているが、それにしても杜撰だろう。航は開いたままになっていたエクセルデータを眺めた。エンジェル・リードの資金は小分けにしているそうだが、湊も管理し切れていないらしい。自分が思う以上にエンジェル・リードの業務というのは切迫していたのだ。




「管理出来てると思ってたんだけど、見通しが甘かったな。俺達って未成年で戸籍も使えないし、ちゃんとした銀行に口座も作れないだろ。インターネット口座とか足の付かない小さい銀行とか使ってたんだけど、やっぱり地盤が弱い所はダメだねぇ」




 湊は蕩々と言った。

 銀行口座を作るにも身分が要る。航や湊の戸籍はニューヨークにあるが、身元が割れるのは後々面倒なことになるので使えないのだ。侑は元々裏社会の人間なので、大手銀行に口座を作れるような身分証の類は無い。


 侑は一人掛けのソファに座って、朗々と言った。




「航がいる時で本当に良かったな」

「いや、全くだ」




 湊が苦く笑った。

 航は首を回して、再びパソコンに向き直った。




「全部終わらせてから帰る」

「いや、いいよ。一日や二日じゃ終わらないし、南方さんもいる。俺は残業を評価出来る立場に無いしな」

「何を今更」




 航は吐き捨てるように笑った。湊は横から手を伸ばし、データを上書き保存してさっさとパソコンを閉じてしまった。




「もう今日は帰ろうぜ」

「……分かったよ」




 航は席を立った。

 事務所の下に停めていたバイクを引っ張り出していると、駐車場から乾いたエンジンの音がした。夜の闇の中、冗談みたいに真っ赤なポルシェが顔を出す。運転席では侑が退屈そうに欠伸をしているのが見えた。




「夕飯、どうする」




 湊にヘルメットを投げ渡し、航は訊ねた。二人で話す時は自然と母国語での会話になる。湊は眠そうな声で答えた。




「出前でもいいよ」

「金無いんだろ」

「あるってば。あれはちょっとうっかりしてただけ」

「どうだか」




 航は肩を竦めた。

 冷蔵庫には何があっただろうか。人参に玉葱、じゃが芋、豚肉のブロック……。

 献立が浮かんだタイミングで、湊が言った。




「シチューにしようよ。今日は寒いから」

「今から煮込むの嫌だぜ」

「じゃあ、ポトフにしよ。航農園の出番だ」

「もう何でも良いや」




 航がバイクに跨ると、湊が後部座席に乗った。フルフェイスのヘルメットを被った湊が微睡んだ目で寄り掛かって来る。

 居眠りすんなよ、と言えば湊が笑った。

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