⑸航と湊

 目を閉じると、目蓋の裏に真っ赤な炎が見える。


 怒声とも悲鳴とも付かない父の叫び声が耳を劈き、次の瞬間、凄まじい爆発音と熱波が噴き出した。爆弾の破片が父の背中を貫き、大勢の人を傷付けた。辺りはパニックに陥り、まるで怪物に丸呑みにされたみたいだった。


 逃げるのよ、航。

 切羽詰まった母の声がして、航は殆ど引き摺られるみたいに駆け出した。混乱と動転の坩堝るつぼ。この世の地獄。何が起きているのか全く分からなかった。噴き出す熱波と空を埋める黒煙、人々の悲鳴と祈りの言葉。航は人混みを掻き分け、ただ懸命に走った。


 母が自分を呼んだ。振り向いた時には、巨大なナイター照明が傾き、倒れようとしているのが見えた。


 其処で、暗転。

 航が目を開けた時、自分を庇った母が背中で死んでいた。

 泣いていたのかも知れない。叫んでいたのかも知れない。あの時のことは正直、もうよく覚えていない。


 自分の両親は死んだ。

 それだけが、航が知り得る真実だった。




「航」




 航が目を開けた時、湊の顔が見えた。




「大丈夫か」




 その声は何処までも優しく、静かだった。


 闇の中に見慣れた天井が見えて、深く溜息を吐く。全身が鉛になったみたいに重く、びっしょりと汗を掻いていた。拍動が耳の側で聞こえ、頭が締め付けられるように痛かった。


 時々、両親の死に様を夢に見る。

 それは、産まれる前から一緒だった湊と共有出来ない、航だけの記憶だった。




うなされていたよ」




 湊が言った。

 枕元の携帯電話に手を伸ばすと、湊が午前二時だと教えてくれた。普段ならば深い睡眠状態にあり、心身共に休めている筈だった。




「……起こしたか?」

「起きていたから、大丈夫」




 航は喉の奥で笑った。

 自分達の生活リズムは定まっている。基本的に夜更かしはしない。湊が起きていたなんて、嘘だろう。


 薄暗い寝室には、航と湊しかいなかった。

 侑のベッドは無人で、航は彼が眠っている所を見たことが無かった。航は膝を引き寄せ、頭を抱えた。目蓋の裏にはあの日の惨劇が鮮明に焼き付き、今も夢に現れては病のように胸を締め付ける。




「時々、あの時の夢を見るんだ。……ダセェだろ」




 航が言うと、湊は濃褐色の目を眇めた。

 一年も前のことを未だに夢に見て、魘されて兄を起こして。


 航は、自分の弱さを知っている。いつまでも過去を引き摺って、前に進むことすら出来ない。泥沼の中にいるみたいだった。




「航をダサいと思ったことなんて、一度も無いよ」




 湊は穏やかに、けれど、きっぱりと言った。

 そのまま二段ベッドの梯子を上り、航の布団の上に胡座を掻いた。




「あの時、側にいられなくて、ごめんな」




 湊は萎れた花みたいに俯いて、絞り出すみたいに言った。

 航は笑った。




「お前が謝ることなんざ、塵一つねぇよ。俺が乗り越えるべきことだ」

「分かってるよ。だけど、航の苦しみをどうか一緒に背負わせてくれ。それしか、出来ないから」




 目を伏せた湊は、まるで泣いているみたいだった。

 航は苦笑した。気付くと、頭痛も倦怠感も夢みたいに消えていた。俯く湊の頭を撫でてやる。湊は抵抗も、払い退けもしなかった。




「割り切ったつもりで、乗り越えたつもりで、俺はあの日から全然歩き出せていない。……こんな感傷も、いつかは消えて無くなるのかな」




 両手が氷のように冷たかった。自分の精神状態が乱されていることが分かる。湊が顔を歪めた。




「きっと消えない。俺達はずっと後悔しながら、苦しみながら生きて行く」

「気休めくらい、言えよな」

「それで航が安心出来るなら、幾らでも」




 湊の声は不思議に澄んでいた。




「偶には落ち込む日があっても良いさ。八つ当たりもしろ。独りで抱え込まれるよりずっと良い」

「……お前もな」

「頼りにしてるよ」




 航が言うと、湊は微笑んだ。

 性別を間違えたんじゃないかと思うくらい、柔らかで華やかな笑顔だった。




「なあ、航」




 湊が言った。




「航と侑に言われたこと、俺なりに考えた」




 湊は真っ直ぐに見詰めていた。

 嘘偽りや誤魔化しは一切無いと告げているみたいだった。




「でも、やり方は変えない。俺達は商売をしてるんだ。エンジェル・リードの地盤は弱い。何か起きた時に対応出来る手札が少ないんだ。リスクがあっても、やらなきゃいけない。俺は生き急いでいる訳でもないし、メサイアコンプレックスでもない。心配してくれた航の気持ちも分かる。……だから、これだけは約束する」




 湊の腕が伸びて、航の掌を掴んだ。

 ぎょっとして驚いている間も無く、湊が力強く言った。




「俺は死なない」




 喉の奥に空気の塊が詰まったみたいだった。何か答えなければならないと思うのに、言葉が出て来ない。湊の掌は温かい。命の気配がする。




「今も生きているということを、俺の実力だと認めてくれよ」




 エンジェル・リードは努力に対して正当な評価をする。

 優れた芸術家には資金を、勤勉なウサギには報酬を。

 湊が生きているという事実そのものが、湊の尽くして来た最善の結果。例え、その未来が明るいものでなくても。


 湊は掌に力を込め、明るく笑った。




「航が色んなことを言ってくれるのは、本当に助かるんだ。だから、これまで通り思ったことは言ってくれ。侑はあんまりそういうの言わないからね」

「……そうだろうな」

「うん。でも、侑も色々考えてる。俺もね。だから、信じてくれ」




 湊の声は水のように透き通って、航の心の奥に染み込んで行った。こんな声で、こんな顔で、こんなことを言われて、信じられないなんて言える筈も無い。




「信じるよ」




 いつの間にか両手は温かくなっていた。頭の中に蘇るあの炎も、まるで遠くの花火みたいに感じられる。


 航が頷くと、湊は満足そうに笑った。

 ベッドの梯子を降りながら、湊が言った。




「おやすみ、航。――良い夢を」




 航は布団を被って、眠った。

 炎の夢は、もう見なかった。











 2.十字架の所在

 ⑸航と湊










 翌日の日曜日は、湊の提案でツーリングに行った。

 夜には商談の予定があったので、日帰りで行けるツーリングコースを調べた。早めの朝食を済ませ航は早々に家を出た。


 駐輪場から愛車のドラッグスターを運び出し、キーを差し込む。朝の街にエンジンの拍動が木霊する。出社の為に家から出て来たサラリーマンが物珍しそうな目を向けて来たので、航は会釈した。


 エンジンが温まった頃に湊がやって来た。

 アウトドアな黒いジャケットに生地の厚いジーンズを穿いていた。見たことの無い青いネックウォーマーを付けていたのでどうしたのかと訊ねたら、侑が持たせたらしい。


 過保護だな、と思った。だが、多分それは、侑なりに湊を気に掛けているという証明だった。航はグローブを嵌めて、後部座席に湊を乗せた。


 朝の澄んだ空気が心地良かった。頬を撫でる風は切り裂かれるかのように冷たいのに、背中にしがみ付く兄の体は温かい。


 高速道路に乗る前に繁華街を通ったが、眠らない街もこの時間は車通りが少なく、静かだった。朝日が昇る前の白んだ空、役目を終えたフィラメント。騒がしくて汚れた街が今だけは青く澄んだ空気に包まれている。


 航は、事務所に飾られた青い絵画を思い出した。

 香港のアートバーゼルで買った絵画ではなく、湊が宝物のように大切にしている油絵。青いグラデーションに塗られた繁華街の風景だった。侑の弟が描いたらしい。


 きっと、あれは朝の絵なんだろうな。

 ふと、そんなことを思った。


 高速道路で二時間程走り、海沿いのパーキングエリアに入った。生臭い潮の臭いがした。冬にバイクで海沿いを走る酔狂な奴はいないだろうと思ったが、自分達のようなツーリング目的のライダーがそこそこ見掛けられた。


 湊にネックウォーマーで目の下まで隠させて、航はパーキングエリアのフードコートに入った。時々、湊が馬鹿な男に面倒な絡み方をされるのだ。童顔で中性的な顔立ちがこの国ではウケるらしい。


 立ち食いうどんに海老天と蓮根天を載せて、海岸線を眺めながら二人で啜った。関東のうどんはカツオ出汁が主流で、汁が黒い。味付けは少し濃く感じられたが、ロケーションも相まって美味かった。


 母国にいた頃も、航は湊をバイクに乗せて走った。会話というものは殆ど無く、時々、湊が後部座席で調子外れの鼻唄を歌うくらいだった。航はその時間が何より好きだった。


 うどんを食べた後、自販機で缶コーヒーを買った。海岸線の見えるベンチを二人で陣取って、特に会話も無く景色を眺めていた。事務所にいると色々な考えが泡のように浮かんでは頭を悩ませるが、この場所にいると何も考えなくて良かった。


 このまま何処か遠くに行けたら良いのにな。

 そんな願いが浮かんで、航は自嘲した。




「昔、俺達が飛び級したいって言った時、親父とお母さんが反対したの覚えてる?」




 内緒話を打ち明けるみたいに、湊が言った。




「さあ、どうだったかな」




 航は缶コーヒーで両手を温めながら、ぼんやりと当時のことを思い出した。勿論、覚えている。


 年齢に合わせたクラスでは物足りず、飛び級制度を利用して二学年飛び級したかった。馬鹿な奴等の為につまらない勉強で時間を無駄にしたくなかったし、妬むクラスメイトや鬱陶しい教師にも嫌気が差していた。




「子供時代が短くなるのは、将来的な不利益になるかも知れないって言ってた」




 湊が言った。

 それも覚えている。言ったのは、母だった。今ならその時の両親の気持ちが分かる。子供時代は二度と戻らない。そんなに急いで大人にならなくても良いんだよ。そう言っていたと思う。


 けれど、自分達は早く大人になりたかった。

 もっと沢山のことを知りたかったし、出来るようになりたかった。そうして、航は今は大学二年生になり、湊はさっさと卒業してしまった。


 俺達の選択は、正しかったのか。

 あの時、両親の言葉に従っていたら、別の未来があったのか。




「後悔してるか?」




 不意に、そんな言葉が溢れた。

 湊は缶コーヒーを両手で抱え、穏やかに言った。




「してない」




 そうだよな。お前は、そういう奴だよな。

 感傷も後悔も湊には似合わない。




「俺の子供時代は終わったんだ。……でも、航は違う」




 湊の濃褐色の瞳には柔らかな光が宿っていた。




「ゆっくり大人になれよ、航。待ってるからさ」




 寒空の下で、湊は鼻の頭を赤くして震えている。けれど、航には春の風が吹き抜けたかのように感じられた。


 航は笑って、肩口を当てた。コーヒーを溢しかけた湊が間抜けな声を上げる。航は笑った。




「待たせねぇよ。俺は走って、其処に行く」




 湊が苦く笑った。

 当然みたいに差し出された拳の意図を察して、航は拳を当てた。自分の心に嘘が無いことを誓う、幼少期から続く二人のジンクスだった。


 湊は缶コーヒーを飲み干して、ベンチを立った。




「さて、そろそろ帰ろうか。侑が寂しがるからさ」

「お前と侑って、どういう関係なの?」




 捨て鉢のような気持ちで訊ねると、湊は即答した。




「友達」

「それだけか?」

「それ以上に何があるって言うのさ」




 湊は笑っていた。

 多分、其処に嘘は無い。湊は侑を大切な友達だと認識している。ならば、何かを抱えているのは侑の方だろうか。

 湊に対して妙に甘かったり、敵対者に対して厳しかったり、過保護に守ろうとすることには必ず理由がある。


 残り一ヶ月を切ったこの春休みの中で、訊けるだろうか。

 答えてくれるかは分からないが、訊いてみよう。

 航は密かに、胸に書き留めた。

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