⑷見えない傷
土曜の昼過ぎ、一人の女が事務所にやって来た。
航が出迎えるとその女は緊張した声で辿々しく名を告げた。
「
南方は会釈すると、黒縁眼鏡の奥で不安そうに視線を彷徨わせていた。リクルートスーツを着た彼女は、融通の利かない真面目な学生のように見える。
航は時計を確認した。午後二時、五分前。
へえ、と内心で笑った。時間を守る人間は嫌いじゃない。当たり前のことを当たり前に出来る人間というのは案外少ないのだ。
南方はベージュのコートを脇に抱えていた。顔色が優れないのは、緊張の為だけじゃないだろう。寒風の吹き荒ぶ一月の空の下、彼女はコートを脱いで時間まで待ち構えていたのかも知れない。
「いらっしゃい」
声を掛けても、目が合わなかった。
この国の人間は、目が合わないことが多い。何か隠し事があるのか、自信が無いのか。航が促すと南方は小さく頭を下げ、事務所に足を踏み入れた。
玄関の椅子に座らせて、航は応接室の扉を叩いた。
「南方さん、来たぞ」
扉の向こうから返事があった。侑の声だった。
振り向くと、南方は壁に飾られた絵画をぼんやりと眺めていた。
それは、青い抽象画だった。塗り重ねられた青い油絵具がモザイク硝子のように美しい。綿密に計算された規則的な配置は、幾何学模様のような印象を受けるのに、意図的に不規則に並べられていると分かる。
香港のアートバーゼルに行った時に、航が気に入って買ったのだ。芸術の歴史や絵画の技術なんてものはよく分からないが、綺麗な絵だと思った。
「良い絵だろ?」
「はい。綺麗ですね」
南方は、吐息を漏らすように肯定した。
絵画を眺める横顔は、年齢以上に若く、学生のように見えた。履歴書では、確か27歳。侑と同じくらいだ。
絵画を紹介しようかと思ったが、止めた。せっかく、時間通りに来ているのに、無駄話をしていては悪いと思った。
その時、扉が開いた。
「お待ちしていましたよ、南方さん」
此方へどうぞ、と湊が言った。
変な格好をしていた。薄水色のシャツに白熊模様がプリントされていて、まるでパジャマみたいだ。南方が唖然と目を丸くする。航は溜息を堪えて、耳打ちした。
「何なの、その服」
「可愛いだろ?」
「ダサい」
「そう?」
着替えて来いよ、と言うと湊が舌を出した。
「航は流行に疎いねぇ。このブランド流行ってるんだよ」
「知るかよ。マジで似合わない。隣を歩くのも苦痛だ」
湊は両手を上げて、一昔前のコメディアンみたいに笑った。
「じゃあ、侑に訊いてみよう」
どうぞ、と湊が言った。
南方は定型文みたいに断りの言葉を告げて、応接室に入った。ほぼ同時に柔らかなテナーの声が聞こえた。
「いらっしゃい」
ブラインドカーテンを抜けた日差しが毛足の長い絨毯に縞模様を作る。応接室のソファには、侑が座っていた。膝の上に芸術雑誌を広げて、自宅のように寛いでいる。それはまるでサバンナの獅子が微睡む一時を切り取ったかのようだった。
これから新社員の面接を行うとは思えないリラックスした空気で、侑は優しげに目を細めた。彼がこの会社のボスだと言われても納得出来る程の貫禄がある。
湊は南方をソファに促し、そのまま侑の方へ向き直った。
「ねぇ、侑。航が似合わないって言うんだけど、どう?」
「お前に似合わないなら、それは服が悪いんだよ」
「……?」
どういう意味だ?
航は首を捻った。湊はファッションショーみたいに鮮やかにターンして、得意げに笑っていた。
褒められてないだろ。いや、褒めたのか?
よく分からない。この国の人間は曖昧な言い方でその場を濁す。航が思案している間に侑が南方を席へ促した。
南方が所在無さげに座るのが、何だか気の毒だった。
湊はデリカシーの無い男なので、全く気にしない。
「コーヒー、紅茶、ローズヒップティー。何かお好みはありますか?」
「ええと」
「緑茶もありますよ」
「では、緑茶をお願いします……」
美容院かよ。
ミュージカルみたいな軽やかなステップで、湊が給湯室に消えて行く。航には、湊のその自由な姿が煩わしく、そして、心地良かった。
2.十字架の所在
⑷見えない傷
新しい事務員の面接は滞りなく終わった。
面接と言っても殆ど採用が決定しており、形式的な儀式のようなものだった。航は侑と共に南方花の話を聞き、湊は給湯室と事務室を行ったり来たりしていた。
「じゃあ、明日から一ヶ月は試用期間ということで此処に来てくれ。業務内容は簡単なデータの打ち込みと、来客対応。慣れて来たら別の仕事も頼むかもね。勿論、給料は払うよ。勤務時間は9時から18時の固定で土日祝日は休み、通勤費用も出す」
聞いている分には不審な所は無く、真っ当な会社のようだった。その実態が裏社会に通じる投資家の架空企業だなんて考えもしないだろう。
湊がどうして彼女を雇用しようとしているのかは未だによく分からない。面接も侑に任せきりで、話の半分も聞いていなかったんじゃないだろうか。
契約書の代表者には、早戸ちなみという名が記されている。
これは湊がこの国でよく使う偽名で、本名のアナグラムだった。
その時、湊が事務室から出て来た。
侑は湊を一瞥すると、苦く笑った。
「服装に指定は無いけど――まあ、オフィスに合った良識ある服装で頼むよ」
やっぱり、褒めてなかったじゃないか。
航は肩を落とした。けれど、口に出さずに波風を立てない所が大人だと思うし、狡いとも思った。
「南方さん」
それまで寄り付きもしなかった癖に、湊が南方を呼んだ。
「契約に必要な書類が幾つかあるから、持って来て貰えますか。早く用意出来るならそれに越したことは無いけど、試用期間中なら大丈夫なんで」
ところで、南方の目に湊はどのように映っているのだろう。
侑は窓口役と名乗っていたし、航はアルバイトと紹介した。では、湊は?
「住民票と、届出印と、あとは身分証明書になるもの。免許証でも良いです」
自分は名乗りもしない癖に、湊がつらつらと喋る。
南方は膝の上に置いたメモ帳に書き記すと、頷いた。
航はアルバイトの経験はあるが、正規雇用で働いたことは無かった。自分達の国籍はニューヨークで、免許証の類は無い。もしも、この異国の地で働くとなったら、南方以上の手続きが必要になるのだろう。
「そういえば、南方さんは元保育士さんなんですよね」
世間話みたいな気安さで、湊が言った。
履歴書にも書いてある。新しい業種に挑戦して、自分のスキルを磨きたいとかうんたらかんたら。
保育士から事務職ということは、元の仕事に限界を感じたか、待遇に不満があったか、――何かやらかしたか。
話してみた感触では、彼女は口調が柔らかく、穏やかで、子供に好かれそうな優しげな人間に感じられた。過去を詮索する趣味は無いが、エンジェル・リードの内部事情に踏み込まれると厄介である。
湊は自然な流れでソファに座ると、南方を見詰めた。
「子供達の相手は大変でしょう。保育士業界も改革の嵐でごた付いていたでしょうし、子供だけじゃなくて保護者対応もする。……なんだっけ、モンスターペアレント?」
モンスターペアレントとは、学校などに対して自己中心的で理不尽な要求をする親のことだ。近年、増えているらしい。
航もアメリカで飲食店のアルバイトをしていた時に、理不尽なクレームを受けたことがある。モラルの無い大人が一番面倒だ。自分が正しいと信じ込んでいるから、非を認めない。
南方は少しだけ表情を暗くした。
湊は気の毒そうに眉を下げた。
「保育士さんって女性社会でしょう? 職場内の人間関係も大変そうだ。でも、とても立派な仕事だと思います」
湊の声は不思議に澄んでいて、まるで心の奥にすっと染み込むみたいだった。
「貴方の経歴を評価します。内容ではなく、勤続したことを」
「……ありがとうございます」
初めて、南方が笑った。
それは相手に安心感を抱かせるような優しい笑顔だった。
悪い人には、見えなかった。控えめではあるが、良識のある大人だ。彼女なら、自分がいなくなっても湊と侑の仕事の邪魔にはならないだろう。
試用期間は一か月。それが終わる頃には、航はもうアメリカに戻ってしまう。彼女の正規雇用の場に居られないのは残念だが、少し安心出来た。
「ソムチャイが言っていましたよ。南方先輩は真面目で根を詰め易いから心配だって。……何でも相談に乗ります。だから、此処ではどうか自分を押し殺さず、実力を存分に発揮して下さいね」
では、と言い置いて湊は席を立った。
事務室の扉が閉まる。南方が何かを言及する前に侑が立ち上がった。
「この辺も暗くなると物騒だ。駅まで送りましょうか」
「いえ、大丈夫ですよ」
「……そうですか。では、お気を付けて」
侑は有能な使用人みたいな洗練された動作で扉を開け、南方の退出を促した。これ以上、話したくなかったのもあるだろうが、この辺りは本当に物騒なのだ。
犯罪の横行する繁華街に近く、エンジェル・リードの隣のビルにはヤクザの事務所が入っている。今のところ、諍いは起きていないが、相手が女性となると違うかも知れない。
南方はピカピカの黒い鞄とトレンチコートを持って、扉の前で一礼した。新卒みたいな拙い挨拶に苦笑が漏れる。航はソファに座ったまま軽く手を振った。南方が小さく手を振り返して来たので、航は笑った。
玄関先まで送り届けた侑が戻って来る。
湊は携帯電話を眺めていた。航は背凭れに体を預けた。胸の中が温かいのは、安堵の為なのか、それとも南方花の人柄の為なのか。
「……良い人そうだったな」
航が言うと、湊は携帯電話を弄りながら適当な相槌を打った。侑はソファに戻ると、独り言みたいに呟いた。
「寂しそうな目をしてたな」
「寂しそう?」
「何となく、そう見えただけ」
侑は誤魔化すように言った。
湊が携帯電話から顔を上げた。
「調べた所、あの人の経歴に嘘は無かった。きっと、航や侑が感じた通りの人なんだろう。……でも、少し気になることがあって」
湊の予感は大抵当たる。
航は自然と身構えていた。
「あの人が前に働いていた保育園で事故があってね、子供が一人亡くなってるんだよね」
「……」
「一年くらい前だね。保育園への風当たりは中々厳しかったみたいだけど、世間は保育士の処遇改善に乗り気だ。事件性は無かったみたいだし、刑事罰も社会的制裁も無い。……だけど、まあ、気持ちは察する」
「お前が他人の気持ちを考えるなんて、珍しいな」
「俺だって考えることはあるよ。少しだけ分かる気もする。……突然家族を失った遺族の気持ちも、背負うべき十字架を取り上げられてしまった加害者の気持ちもね」
どういう意味だろう。
湊はそれだけ言うと、さっさと事務所に引っ込んでしまった。
被害者と加害者、遺す方と遺される方。
どちらが辛いのかなんて比べる必要も無い。
だけど、航に同情出来るのは被害者の立場だけだった。自分の両親を殺した奴等が今ものうのうと生きていて、俺達には犯人を見付けることも、罰する術も無い。
では、彼等が背負うべきだった十字架は一体何処に行ってしまうのか。雪のように溶けて消えてしまうのだろうか。そして、その時に自分はどうするべきなのか。
罪には罰が下る。俺達は因果律というものを信じているが、因果応報が全自動でないことも知っている。憎しみや恨みが不毛であることも、復讐が何も生まないことも知っている。
では、両親の苦しみは、無念は、誰が晴らしてくれるのか。
航には、それがただ遣る瀬無く、悲しかった。
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