⑶家族

 航が帰宅した時、湊はリビングの椅子で膝を抱えていた。

 猫が何もない所をじっと見詰めるように、湊の目は胡乱に壁を睨んでいる。雪夜のように辺りから音が消えて、寒々しい程に空気が澄んで行くのが分かる。




「帰ったぞ」




 航が扉をノックすると、湊は夢から醒めたみたいに目を瞬いた。航と侑の姿を認めると、ふにゃりと微笑んで「おかえり」と言った。


 湊は時々、白昼夢を見ているかのように茫洋とする。何を考えているのか航には見当も付かないが、楽しい夢を見ているとは思えなかった。


 買って来た食材を冷蔵庫に入れ、エコバッグを丁寧に畳む。湊は電気ケトルのスイッチを入れて、その場に立ち尽くしていた。怪訝に思って航が声を掛けようとすると、湊がぱっと顔を上げた。




「侑」

「何だ?」




 侑はリビングテーブルで雑誌を広げていた。美術関係の知識に疎い湊を補佐する為に、独学で勉強しているのだ。

 湊は口元に微かな笑みを浮かべていた。




「近々、大きな仕事をする。その為に色々と根回しが必要だから、不在にすることが増えると思う。細々した仕事を侑に任せることになる」

「いいぜ」

「何かあったら、いつでも相談してくれ」




 湊が言った時、丁度、湯が沸いた。

 航はティーセットを用意した。ティーポットとカップを温める為に熱湯を注ぎ、再び湯を沸かす。牛乳をミルクポットに入れて電子レンジに放り込み、航は尋ねた。




「大きな仕事って何?」




 湊は訊かれないことは答えないし、侑は教えられないことは追及しない。けれど、そうして互いに干渉しないことで生まれる理解の齟齬は面倒だった。


 電子レンジの稼働する重低音が部屋の中に響く。ガスレンジの青い炎を眺めていると、湊が答えた。




「アラブの大富豪から、日本観光の案内と護衛を頼まれてる」

「うちの仕事に全然関係無いじゃん」

「無いけど、恩を売るチャンスだ」

「それって、危ない賭けだろ。リスクを負ってまで請け負う必要あるの?」




 航が指摘すると、湊が苦笑した。




「リスクもあるけど、リターンは大きい」

「だから、そもそもリスクに見合ってんのかって訊いてんだよ」




 電子レンジが、ちん、と間抜けに鳴った。

 怒鳴ってやるつもりだったのに、肩透かしを食らった気分だった。航は舌を打ち、棚からドライカモミールを取り出した。


 湊は頑固で偏屈な分からず屋だ。此方の意図なんて一匙も汲んでくれない。航は苛立ちを飲み込みながら、ミルクカモミールティーを淹れた。リビングテーブルに並べてやると、侑が礼を言った。


 侑はハーブティーに息を吹き掛けながら、凪いだ声で言った。




「アラブって言ったら、中東だな。お前等の親を殺したテロリストも中東出身じゃなかったか?」




 心臓が冷たくなる嫌な感覚がした。身体の末端から熱が抜けて、足元が揺れているようだ。湊は椅子を引いて腰を下ろすと、神妙な顔付きで言った。




「俺は復讐に興味は無い。だけど、コネクションを持っていれば避けられた悲劇もあったと思う。この前の武器密輸だってそうだ。もっと広い人脈と権力があれば、打てる手もあった」

「だからって、危ないって分かってる橋をどうして渡る必要があるんだよ!」




 堪らず、航は声を荒げた。室内は水を打ったような静寂に包まれ、耳鳴りがする。湊はマグカップの縁を撫で、静かに航を見た。




「この世はポーカーと一緒だ。怖気付いた奴から負けて行く。……敗北は死だ。勝つ為にはカードがいる」




 湊の声は冷たく乾き、視線は抜身の刃のように鋭かった。


 航は奥歯を噛み締めた。

 言い返せないことが、悔しかった。分かっている。兄が、もう戻れない闇の深淵に足を踏み入れてしまっていることも、その意思を変える術が無いことも。




「なあ、湊」




 息の詰まるような沈黙を破ったのは、侑だった。




「俺は、お前の覚悟を知ってる。邪魔するなら鬼でも悪魔でも打ち倒してやろうって気概も認めてる。だから、お前がやると決めたことに対して、俺は口を出すつもりは無ぇし、文句も無い」




 侑は穏やかに、諭すように言った。




「だがな、俺から見ればお前も航もガキだ。どんな理由があったとしても、ガキがそういう覚悟しながら生きてるのを見るのは、少し、しんどい」




 湊は目を伏せた。

 侑はハーブティーを美味そうに啜った。




「お前が間違ったことしてるとは思わねぇ。だが、心配する家族の言葉すら受け止められないで、お前のやろうとしてることに意味はあるのか?」




 湊は黙っていた。

 口達者な湊が何も言い返せずに黙り込むのは、珍しい光景だった。そして、侑のような言葉選びが出来ないことが、自分の未熟さだと痛感した。


 自分達の父は、反戦運動の第一人者だった。中東の紛争地で医療援助し、平和なんて大義名分の下で馬車馬みたいに働いて、最期はよく分からないテロリズムに巻き込まれて死んだ。


 父が間違ったことをしていたとは思わない。だけど、今の湊を見ていると、いつか父のように消えてしまうのではないかと怖くなる。


 湊は暫く沈黙すると、マグカップを持って立ち上がった。そのまま逃げるみたいに寝室に向かった。侑が声を上げる。




「もう一回言うが、俺は反対してる訳じゃねぇぞ。ただ、弟の気持ちも少しは汲んでやれ」




 湊は答えなかった。寝室の扉が閉じる音が、まるで深いトンネルの中みたいに反響する。侑は悠々とハーブティーを飲みながら、また雑誌に目を落とした。


 なんだかな。

 時計を見上げると午後三時を過ぎた所だった。夕食の支度に取り掛かるにはまだ早い。手持ち無沙汰に携帯電話を取り出すと、母国の友人から近況報告のメッセージが来ていた。




「あんまり、虐めてやるなよな」




 航が適当に返信している時、侑が言った。


 分かっている。湊が間違っていないことも、必死にやってることも、色んなことを背負っていることも分かってる。だけど、対等に意見出来る身内がいなくなってしまったら、湊は独りぼっちだ。




「これが俺達のコミニュケーションだよ」

「そりゃ、流血沙汰の喧嘩にもなる訳だ」




 侑が笑った。











 2.十字架の所在

 ⑶家族











 子供の頃、大人は自由で何でも出来る存在だと思っていた。


 だけど、サンタクロースを信じなくなるように、いつの間にかそれが幻想であることを知った。彼等はいつも何かに囚われていて、とても窮屈な世界で生きている。


 寝室を覗くと、二段ベッドの下で湊が眠っていた。航は部屋を突っ切ってベランダに出た。東の空が白んで来て、朝焼けに染まる街が広がっている。何処かで鳩の鳴き声が聞こえたが、すぐに止んだ。

 片隅に置いていたブリキの如雨露を手に取って戻ると、寝室に侑が立っていた。




「おはよう、航」

「ああ、おはよう」




 航はそのままキッチンに行き、蛇口を捻った。水道水で満たされて行く如雨露を眺めていたら、背中で侑が言った。




「履歴書、貰ったぞ。航も見るか?」




 面接するという新しい事務員のことだ。

 航は蛇口を捻り、水を止めた。




「いらねぇ」

「へぇ」




 侑は適当な返事をして、リビングテーブルに一枚の書類を滑らせた。別に見たくない。航は室内の観葉植物とベランダの植木鉢に水を遣って回った。


 寝室では湊が起床し、大きく背伸びをしていた。

 基本的に怒りを引き摺らない男なので、昨日の言い合いの後も青椒肉絲で白米を大盛り三杯食べて、機嫌が良かった。




「Good morning, Wataru」

「Good morning」




 湊は大欠伸をして、脱皮するみたいに布団から出た。地味なグレーのスウェットが捲れて、薄っぺらい腹筋が覗く。脇腹にケロイドみたいな銃創があった。曰く、昔、侑に撃たれたらしい。湊と侑の間ではもう解決しているそうなので、部外者である航が口を出すことではなかった。


 空になった如雨露をベランダに戻し、航はキッチンに向かった。コーヒーの香りが漂っている。インスタントコーヒーの香りは安っぽい。航は棚からドリップコーヒーのバッグを取り出して、自分と湊のマグカップに取り付けた。


 火傷するような熱湯は必要無い。航は電気ケトルに残った湯を、じっくりと染み渡らせるように注いだ。乾いている所が残らないように丁寧に少しずつ。


 適量の湯を注いで出来たレギュラーコーヒーは、香りや酸味、苦味に至る全てのバランスが取れている。出来上がりに満足しながら、何となくリビングテーブルに視線を向けた。




「もう少し待てば、上手いコーヒーが飲めたのになぁ」




 侑が残念そうに言った。

 息をするように誰かを褒め、当たり前のように相手を立てることの出来る侑は、航が見て来たどんな大人よりも立派に見えた。


 少し気分が良くなって、航はテーブルに置かれた履歴書に目を通した。


 南方花みなかた はなと言うのが、新しい事務員の名前らしかった。定型の証明写真は硬い表情の幸薄そうな女が写っている。志望動機と自己PRの欄は当たり障りの無い文章で埋められており、特に印象に残らなかった。


 出身地、学歴、職歴、資格。

 これと言って特筆することも無い。簡単なデータの打ち込みやお茶汲みくらいなら出来そうだ。


 冬休みが終わったら、自分は海の向こうに行ってしまう。その時に、湊と侑とこの女が事務所に残される。仕事は回るのか、支障は無いか、リスクは無いか。自分が気にしても仕方ないようなことばかりが浮かんで、航は溜息をコーヒーと共に呑み込んだ。




「侑は」




 マグカップを揺らしながら、航は訊ねた。




「いざと言う時、湊のことを守ってくれるか?」




 煎れ立てのコーヒーは、深い闇の色をしていた。

 不機嫌そうな自分の顔が映っている。


 海の向こうに行ってしまったら、何もしてやれることが無い。もしも、湊が苦しんでいても、その手を握ってやることも出来ないのだ。


 両親が死んだ時、人間は死ぬという当たり前の事実にぶん殴られたみたいだった。両親はもういない。航には、家族と呼べる相手はもう湊しかいなかった。


 両親が死んで二人きりになった時、湊は明るい未来を捨てて社会の裏側に足を踏み入れた。そして、航に言ったのだ。


 定時連絡が無い時は、死んだと思え。

 航はその時になって初めて、湊が死ぬかも知れない世界に行ってしまったことを実感した。湊は顔が見られない時は定時連絡を欠かさなかったし、今はこうして一つ屋根の下で生きている。だけど、当たり前に見える日常というものが砂上の楼閣であることを、航はもう知っている。




「湊しかいないんだ」




 知らず両手を握り込んでいた。コーヒーの湯気が鼻先を掠め、航は誤魔化すようにマグカップに口を付けた。

 ふと視線を上げると、侑のエメラルドの瞳が真っ直ぐに見詰めていた。




「命に替えても守るよ」




 嘘偽りの無い真摯な声だった。

 まるで傷口に薬を塗って貰ったみたいな奇妙な安心感が胸を温かくする。それ以上の答えは、きっとこの世の何処を探したって見付からないだろう。


 その時、寝室の扉が開いた。

 寝惚け眼を擦りながら、すっかり着替え終えた湊が洗面所に向かう。リビングの湿っぽい雰囲気に気付いたのか、湊が不思議そうに訊ねた。




「何の話?」




 侑が笑った。




「お前の為なら死ねるよって話」

「なんだそりゃ」




 湊は不愉快そうに鼻を鳴らした。




「俺の為に死ぬくらいなら、俺の為に生きていてくれよ。その方が有意義だ」




 湊はそう言って、そのまま洗面所に向かった。

 情緒の分からない男だ。しかし、お蔭で前に進めそうだった。




「湊のこと、頼んだ」

「勿論ですとも」




 侑は肩を竦めた。

 洗面所に行った湊が戻って来る。航は朝食の用意をする為に、席を立った。

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