⑵逃げ水

 スコップを突き刺したままだったことを思い出して、航はベランダに出た。一月の風は身を切るように冷たかった。


 都内の閑静な住宅地にある賃貸マンションの一室が、航達の当面の住居だった。エンジェル・リードの事務所やスーパーも近く、比較的治安の良い街だった。家賃や光熱費は湊が支払っているので分からないが、近隣住民の顔触れを見る限り、生活水準は高いようだった。


 ベランダには湊がいた。携帯電話を片手に誰かと通話しているらしい。航は植木鉢に刺したままになっていたスコップを引き抜き、ベランダの隅にある工具入れに戻した。




「シクラメンが綺麗だね」




 通話を終えたらしく、湊が此方を見ていた。

 航は周囲の気配を探り、誰もいないことを確かめてから尋ねた。




「あの女は捕まえたのか?」




 都内で起こった連続銃殺事件。実行犯であった来栖凪沙は、エンジェル・リードの支援する芸術家の一人だった。自分達に落ち度があったとは思わないが、せっかく見付けた才能が消えて行くのは悲しかった。


 彼女の背後には、武器商人と呼ばれる謎の女がいた。事件の裏で、海外から大量の武器を持ち込んだのだ。火事に紛れて逃げられてしまったが、今も何処かで謀略を巡らせている。


 湊は首を振り、ベランダの欄干を撫でた。

 昼下がりの街並みは欠伸あくびが出る程、退屈で平和だった。何処かで料理の匂いがして、散歩中の老夫婦が談笑し、学生が声を上げて笑う。けれど、その影で銃器が蔓延し、平穏は脅かされている。


 自分達は正義の味方ではない。ルールの外に生きている。

 だが、此処は両親の母国だった。例え、この社会が取るに足らない無価値な存在で、愚かな大衆であったとしても、闘う理由がある。




「坂田さんには、藍村晴子って名乗っていたらしい。でも、偽名だ。正体も目的も分からない」




 中国政府の工作員かも知れないね。

 湊はそう言って、うんざりしたみたいに肩を落とした。


 今回、運ばれて来た武器は中国マフィア、青龍会のものだった。湊と青龍会のトップは学生時代の友人で、この国では唯一対等に取引出来る立場にいる。


 その湊でも、武器密輸を完全に止めることは出来ないのだ。それは組織犯罪というものが複雑化し、この国の司法が弱体化していることを意味している。


 自分達は正義なんてものは掲げていないが、他人の不幸を願う程に落ちぶれてもいない。善良な人々が幸福になれるように、少しでもマシな未来を選ぶ。




「これから銃を使った犯罪が増えるよ。この国は自衛の為の武装を許してない。沢山の人が危険に晒される」




 湊が拳を握った。透き通るような眼差しは、街の景色よりも遥か遠くを睨んでいた。




「武器なんて嫌いだ。銃も、爆弾も」




 苦汁が臓腑の奥から滲み出すようだ。

 航は平静の顔を繕うのがやっとだった。


 せ返るような熱風、肉の焼ける嫌な臭い。

 人々の悲鳴と真っ赤な炎、爆弾の破片に貫かれた父の背中、自分に覆い被さって死んだ母の顔。一年前の悪夢が今も瞼の裏に蘇る。


 去年の五月、アメリカの州立記念公園で爆弾テロが起きた。其処では、ストリートバスケのチャリティイベントが行われていた。


 大勢の人が来ていた。そのイベントは人種や国家に囚われず、将来有望な若い選手を見出し、収益は医療や福祉団体に丸ごと寄付される予定にあった。


 企画したのは、父だった。

 イベント自体に後ろ暗いことは何も無い、真っ当な慈善事業だった。だから、航も参加した。けれど、其処に資金援助していた企業の一つが或る宗教団体をSNS上で批判した。


 父が反戦運動の第一人者であったこと、スポンサーである企業が宗教団体を批判したこと。軍事、経済の凡ゆる不幸なタイミングがこのイベントと重なり、テロの矛先となった。


 国境や人種の垣根を越えるスポーツの祭典は、絶望の底にいる大勢の若者を救う受け皿となる筈だった。それが訳の分からない武装組織の為に、大勢の人が巻き込まれ、両親も殺された。


 犯行声明を出したのは、中東にある宗教団体だった。

 しかし、宗教とは名ばかりで、その実態は先進国に対してテロを繰り返し、国連からも警戒されている武装組織だった。


 宗教上の対立から爆弾テロを仕掛けたものとされているが、その本質は中東地域の利権や武器密輸などの経済的な動機が主とされ、周辺国の代理戦争の側面を持っていた。


 航は、渦中にいながらも、事件の経緯や概要を全て後から聞いた。両親を亡くし、頼るべきものを失った航に手を差し伸べたのは、湊だった。


 どんな魔法を使ったのかは知らない。けれど、兄は自分を助ける為に手を汚し、幾つもの危ない橋を渡り、明るい未来を投げ捨てた。


 航が保護されてから数ヶ月後、湊は侑の弟と共に爆弾を仕掛けた犯罪者を捕らえ、司法の場に突き出した。死刑は速やかに執行されたが、航も湊も見届けなかった。


 誰が俺達の親を殺したのか。

 虚栄心に突き動かされた犯罪者か、利己的な政治家か、無責任で無機質な大衆か、戦争というシステムを終わらせられない社会か。航には、よく分からない。


 何を憎めば、何を恨めば、何を責めれば救われる?

 きっと、答えなんて無い。司法はそれを裁けないし、自分は両親の仇も討てない。そういう儘ならないことがこの世には山程あって、幾ら後悔しても時間は後戻りしない。


 父は中東の紛争地で医療援助するMSFの外科医で、反戦運動の第一人者だった。航は時々、そんな父の言葉を思い出す。


 何かすごいことをしようぜ。人々はそれを真似るかも知れない。


 善悪なんてものは、航にはよく分からない。だが、成すべきことを成し、最期の一瞬まで生き抜いた両親の為に出来ることがあるのならば、自己満足であろうともやりたいと思う。


 兄が自分に手を差し伸べたように、自分も力を貸してやりたい。過去を生きることは出来ないのだ。だから、進み続けるしかない。例え、それが茨の道であっても。













 2.十字架の所在

 ⑵逃げ水












 俺に何か出来ることあるか、と航は尋ねた。

 湊は顎に指を添えて、少し考えるような素振りをした。そして、青椒肉絲チンジャオロースが食べたいと笑った。細やかな我儘だった。


 そのくらいならば、と航は財布を持って家を出た。

 太陽は中天を過ぎ、マンションの住民も買い物や洗濯物を取り込む為に忙しなく活動を始めていた。途中、隣人に会ったので軽く頭を下げた。引っ越して来た時に侑が挨拶に行ったが、それ以来、交流は無かった。


 マンションから少し歩くと、小さなスーパーマーケットがあった。魚や肉は輸入物が多いが、比較的値段が安く、主婦らしき女性客が今晩の夕飯の為に品物を吟味している。


 航は籠の中に青椒肉絲の材料と、付け合わせの胡瓜や豆腐を放り込んだ。店内を一周してから会計を済ませ、エコバッグに移し替える。大した荷物では無かった。


 マンションの下には、滑り台と鉄棒だけの公園があった。子供達が楽しそうに駆け回っていたので、ただのオブジェじゃなかったことに少し驚いた。


 公園のベンチに、見覚えのある男が座っていた。モッズコートに洒落たTシャツ、ダメージジーンズを合わせたラフな服装は、大学生くらいの若者に見えた。その周囲には小学生くらいの子供達が集まり、その目を期待に輝かせていた。


 侑は、掌にコインを乗せて、袖をまくり上げた。




「さあ、此処にあるコインが消えちまうぞ」




 よく見ておけよ、と侑は不敵に笑った。

 子供達が生唾を呑む。侑は両手を広げ、タネも仕掛けも無いと説明した。確かに、その両手には何も隠されてはいないようだった。袖は捲られて、隠す場所も無い。


 侑は右手の上のコインを見せながら、左手をその上でゆらゆらと振った。そして、その左手が退いた時、右手にあった筈のコインは見事に消え失せていた。


 わっと歓声が上がった。

 インチキだと怒る悪ガキもいた。

 けれど、誰もタネを見破れなかったし、夢中だった。


 もう一回!

 悪ガキが叫ぶ。侑は穏やかな顔付きで肯定した。そして、おもむろに右肘を擦ると、其処からコインが現れた。

 今度は拍手が起きた。子供達の笑い声と歓声の中、侑は優しい顔をしていた。


 アンコールに応えるように侑がコインを掌に乗せた時、目が合った。




「航!」




 耳慣れた声が航を呼ぶ。子供達のビー玉みたいな目が一斉に向いて、航は軽く手を振って応えた。

 子供達は、航を手品師の仲間だと見做したらしかった。お前も何かやってみせろとはやし立てる悪ガキを無視していると、侑が訊ねた。




「お前も見て行くか?」




 魅力的な提案に思えたけれど、航は断った。

 牛肉や豆腐を早く冷蔵庫にしまいたかったし、洗濯物も取り込みたかった。すると、侑はベンチから立ち上がった。




「今日はこれでお終いだ。次はもっと面白いものを見せてやるよ」




 約束だよ、と小さな女の子が言った。侑が気障きざにウインクすると、女の子の顔がぽっと赤くなる。アンコールと囃し立てる子供達を軽く往なしながら、侑はコートの袖を下ろして航の元までやって来た。




「良いのか?」

「楽しみは取っておいた方が良いんだぜ」




 侑はそんなことを言って笑った。


 天神侑は、エンジェル・リードの一員で、湊の友達で、航にとってはビジネスパートナーだった。信用もしているし、信頼もしている。けれど、航は侑のことを余り知らなかった。彼が何を思い、何を願い、何を好み、何に怒りを感じるのか。


 けれど、知っていることもある。

 この男の左手には、奇妙な胼胝がある。慢性的に銃器を握っている証拠である。侑は歩く時に足音が殆どしない。彼はそういう技術を持っていて、それを磨かなければ生きられなかったことも知っている。


 武器なんて嫌いだ。

 兄の言葉が脳裏を過ぎる。侑は兄の嫌う武器を扱い、その技術を会得しなければならなかった人間だった。




「子供好きだったんだな」




 意外な一面だった。

 手品が出来ることも、子供の扱いが上手いことも。

 航が言うと、侑は照れ臭そうに笑った。




「好きって訳じゃねぇよ。ただ、子供が笑ってると安心する」

「それは、分かる気がするな」




 海の向こうでは爆弾が降り注ぎ、人々が貧困に喘ぎ、親は子供に銃を握らせ、母親は餓死した我が子をいつまでも抱いている。平和とは程遠い世界の話を、航はいつも父から聞いた。だから、そういうものが無い場所にいられる自分はきっと恵まれているのだろうと。


 エレベーターを待っていると、侑が訊いた。




「お前等はあのくらいの頃、どんなことしてたんだ?」

「俺達はずっとバスケだよ。あとは湊と殴り合いの大喧嘩したり、家出したり」




 振り返ると、自分は手の付けられないクソガキだった。

 バスケットボールではチームメイトとよく衝突して、湊とは流血沙汰の喧嘩を何度もして、家出しては母に心配を掛けた。


 侑は楽しそうに笑っていた。

 訊き返すべきだったのだろうか。航は迷った。何となく、訊いて欲しくなさそうだと。


 エレベーターが到着し、乗っていた住民が会釈して通り過ぎて行く。侑は扉を押さえ、航を先に乗せてくれた。

 エレベーターの稼働する音が低く響いて行く。防犯カメラの位置を確認するのは習慣になってしまった。航はカメラに背を向け、消えて行くフロアの景色を見詰めていた。




「夕飯は何だ?」




 侑が訊いたので、航は答えた。




「青椒肉絲。湊が食いたいって言うから」

「へえ。楽しみだな」




 エレベーターは目的階に到着し、機械音と共に扉が開かれる。航が先に降りた。




「侑も、食いたいものがあったら言ってくれて良いぜ」

「おう。その時は宜しくな」




 振り向くと、侑は天井を眺めていた。

 空返事だと、分かる。きっと、侑は要望なんて言わないんだろう。それが何となく、寂しかった。

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