2.十字架の所在

⑴小さな箱庭

 A child is not a vase to be filled, but a fire to be lit.

(子供というのは満たされるべき壺ではなく、灯されるべき火である)


 François Rabelais






 ベランダに並べた植木鉢に、淡い桃色のシクラメンが咲き誇る。御伽噺に出て来そうなプリムラ・ポリアンサは、市場にでも出荷出来そうな見事な出来栄えだった。


 航は握っていた小振りのスコップを植木鉢の土に突き刺し、額から滲む汗を拭った。一月の寒空の下、ガーデニングに夢中になるなんて母国の友人には死んでも見せられない姿である。


 ガーデニングは、母の趣味だった。

 ニューヨークにある父の購入した赤い屋根の一軒家は、いつも美しい花に囲まれていた。母は季節ごとに花を入れ替え、肥料を遣り、手入れをしていた。生育の難しい花も母の手に掛かれば魔法のように美しく開花し、庭先を鮮やかに彩っていた。


 懐かしいな、と胸の内に呟き、航は空を見上げた。

 母国から遠く離れた極東の島国は、両親の母国だった。生まれ育ったアメリカに比べ、この国の空は青く見える。


 伽藍堂がらんどう殺風景さっぷうけいだったベランダを改装し、航は手を洗う為に水盤へ向かった。部屋の中を泥で汚すのは嫌だった。掃除したてのリビングを抜け、風呂場の洗面台で手を洗う。冬の冷えた水は鈍った神経を醒ましてくれる。


 鏡を見ると、頬に泥が付いていた。汗を拭った時に付いてしまったのだろう。ついでに顔を洗い、タオルで拭いた。柔軟剤の甘い匂いがした。


 蜂谷航はちや わたるは、19歳になったばかりの大学生二年生だった。

 アメリカで飛び級制度を利用して進学し、今は丁度冬休みの時期なので日本で兄の仕事を手伝っている。普段は大学に通い、バスケットボールクラブで活動し、空いた時間はアルバイトするような普通の男子大学生だった。


 趣味はあるが、仕事にしたいと思う程に関心のあるものは無く、人に自慢出来る程の特技も無い。ただ、細かな作業を丁寧にこなしたり、体を動かしたりするのは好きだった。


 将来の夢はバスケットボール選手だなんて言える程、体格にも恵まれなかった。苦手なものは殆ど無いが、好きなものも少ない。自分はつまらない人間なのかなと悲観しては、その考えを打ち払う毎日だった。


 顔を洗い終えてリビングに行くと、兄の湊がキッチンに立っていた。銀色のボウルに黄色い液体と野菜を混ぜて、ぐちゃぐちゃと汚い音を立てている。




「やあ、航」




 エプロンを着けた兄が、頬に小麦粉を着けて振り向いた。

 年齢を感じさせない中性的な顔に浮かぶ笑顔は無邪気だが、その手元から聞こえる音がどうしようもなく気になって、腹立たしかった。




「……またお好み焼きか?」

「何で分かるの?」




 湊が、びっくりしたみたいに目を丸めた。


 航には双子の兄がいて、名前を湊と言う。

 産まれる前から一緒に育った己の半身とも呼ぶべき存在であるが、航には時々、兄が人間ではない別の知的生命体のように思えるのだ。


 湊はお好み焼きのタネを掻き混ぜながら、昼食だと微笑んだ。航は溜息を吐いた。




「夕食は俺が作るから」

「せっかくの冬休みだろ? 休んで行けよ」

「お前の料理は飽きるんだよ」

「残したことない癖に」




 湊が笑った。

 出された料理は残さない。それは両親による幼少期からのしつけだった。勿論、食べ切れない程の料理を出されたことは無い。


 双子なのに、全然似てないね。

 今まで何度、言われたことか。航は真面目で几帳面だが、湊は何かと適当な性格だった。そのせいで、家事の殆どは航が行い、湊が手伝うのが定着していた。


 フライパンの上でお好み焼きの生地が焼けて行く。芳ばしい匂いがリビングに漂って、自然と腹の虫が鳴った。航は誤魔化すようにリビングチェアに座った。


 テーブルには、付箋ふせんの付けられた美術雑誌が数冊置かれていた。湊は大抵のものは一度見たら暗記してしまうので、これは侑のものだろう。


 侑は、湊の友達で、ビジネスパートナーである。

 兄が個人投資家として若い芸術家に資金援助を始めたのは、凡そ一年前。エンジェル・リードと名乗り、彼方此方にコネクションを築きながら、順調に資産を増やしているらしい。


 何のきっかけだったのかよく分からないが、兄なりの理由はあるようだった。語られないことは、訊かない。聞いて欲しければ、その内、自分から言うだろう。


 部屋には冬の夕焼けを描いた油絵が飾られていた。航とて素人なので詳しくはないが、見ていると気が安まるような優しい絵だった。


 この絵の作者を、航は知っている。一度だけ会ったが、もう二度と会うことは無い。湊の友達で、侑の。或る事件で命を落とし、帰らぬ人となったのだ。


 その縁で侑は湊の仕事を手伝うようになったらしいが、其方も詳しくは聞いていない。湊の感性はゴミなので、仕事の殆どは侑と航が引き受けている。


 雑誌をパラパラと捲っていると、一番下から求人雑誌が出て来た。まさか、侑のものだろうか。転職先を探している?


 緊張しながらページを捲るが、付箋や折り目は付いていない。侑に抜けられると困る。エンジェル・リードが回らなくなるし、暴走する湊のストッパーがいなくなってしまう。


 冷や冷やしながら求人雑誌を見ていたら、フライパンサイズのお好み焼きを完成させた湊がやって来た。




「バイトでもするの?」




 湊はテーブルに皿を並べながら、呑気に言った。

 航は首を振った。




「此処に置いてあったんだよ。……侑、転職でもするのか?」




 恐る恐ると問い掛ければ、湊は合点行ったかのように手を打った。




「それ、俺の」

「バイトするのか?」

「そんな暇そうに見える?」




 質問を質問で返されると、腹が立つ。

 航が睨むと、湊は肩を竦めた。




「事務員を雇おうと思ったんだよ」

「事務員?」

「そう。お前も冬休みが終わったら、向こうに帰っちゃうだろ? そうしたら、侑の負担が増えちゃうから」




 ビジネスパートナーを気遣う精神は素晴らしいが、自分が手伝うという発想は無いらしい。

 エンジェル・リードの名が売れる程、仕事は増える。そして、その負担は侑に伸し掛かる。航は顎に指を添え、考え込んだ。


 別に金儲けがしたい訳ではないし、名誉にも興味は無い。

 負担になるなら仕事を減らせば良いだろうが、そうはいかないのがビジネスの難しい所である。


 湊の美的感覚は壊滅的だ。しかも、本人も諦めてしまっている。侑の負担が減るならば良案だが、事務のような細かな作業はこれまで通り湊が片手間に出来る筈だ。


 頭の中で審議する。

 事務員は本当に必要か?

 無駄なコストを掛けて、情報漏洩のリスクを負ってまでやることか?


 航が腕を組んで思案していると、玄関から扉の開く音がした。湊がエプロンで手を拭きながら、新妻のように駆け付ける。




「侑、おかえり」

「ああ、ただいま」




 侑は、はにかんだように笑った。


 航はテーブルに置かれた昼食を見下ろした。柔らかな湯気の立ち昇るお好み焼きに食欲が唆られ、自然とよだれが口の中に溜まる。箸と取り皿でも用意するかと腰を浮かせた時、航はお好み焼きの乗った皿に見覚えがあることに気付いた。


 ジノリのベッキオホワイト。

 ブランド品である。皿にこだわりなんてものは無いが、なんで敢えてこの皿を使った?


 兄のデリカシーの無さに呆れて、航は雑誌を閉じた。














 2.十字架の所在

 ⑴小さな箱庭














「ソムチャイと遊んだ時のことなんだけどさ」




 お好み焼きを箸で切り分けながら、湊が言った。

 ジノリのベッキオホワイトはソース塗れになっていた。


 これを洗うのは誰だろう。湊なら良いが、侑に洗わせるのは悪いな。航はそんなことを思いながら、お好み焼きをかじった。


 湊はリアクションが無いにも関わらず、まるで独り言みたいに滔々と話し続けている。




「向こうだとお酒の販売時間が決まってるらしくて、この国はいつでも何処でもお酒が買えるから天国だって喜んでたよ。ハチ公前でシンハービールをラッパ飲みしてたらお巡りさんが来て」

「……」

「ソムチャイも酔っ払ってたからさ、お巡りさんに向かって瞼を引っ繰り返して、そのまま逃げたんだ。それで、駅の階段を降りようとしたら足を滑らせてね」

「……?」

「頭から階段を落ちるかと思ったら、ブリッジしたまま駆け下りてさ。サーカスを見てるみたいで感動したよ。人間の体ってあんな動きも出来るんだね」




 航は眉を寄せ、侑を見遣った。

 兄が何を言っているのか全然分からないのだ。

 侑は苦く笑った。




「楽しそうだな。ところで、ソムチャイって誰?」

「タイ料理屋の店員だよ。留学で日本に来てるんだって。ソムチャイはお巡りさんに連行されて、俺も補導されたんだ。丁度、桜田さんが巡回で来ていてね、見逃してもらったの」

「桜田さんは誰なの」

「友達のお巡りさんだよ」




 航が訊くと、湊が平然と答えた。


 どうしてこいつは、あたかも俺達が知っているかのように話すのか。初めて聞く情報ばかりだった。先に登場人物を説明してくれていたら、そこそこ楽しそうな話だったのに勿体無い。




「そういえば、ソムチャイの友達が就職先を探してるらしいよ。元保育士さんで、事務職を希望してるんだって」

「元保育士? どういう繋がりなんだよ」

「ソムチャイは幼稚園の先生を目指してるんだ。ゼミの先輩って言ってたけど」




 ソムチャイの人物像が濃過ぎて、他の情報が全然頭に入って来ない。幼稚園の先生を目指していて、タイ料理屋でアルバイトをしていて、路上で酒を呑んで警官に連行される留学生?


 情報過多で脳が理解を拒否している。航は知らん顔をしてお好み焼きを頬張った。ふわふわの生地は芳ばしく焼けており、野菜の食感が小気味良い。市販のソースも中々美味かった。




「どう? 会ってみない?」




 好奇心に目を輝かせ、湊は侑を見ていた。

 侑は口の端に付いたソースを舐め取りながら、緑柱玉の瞳を向けた。




「女? 男?」

「女の人」

「元保育士だっけ。経験無いんだろ?」

「これから積めば良いさ」




 航は口を挟むべきか迷った。

 事務員を雇うとして、経験の無い人間を選ぶ必要があるだろうか。従業員には給料を支払わなければならないし、教育しなければならない。それは一体、誰が請け負うのか。


 侑は柔らかな口調で問い掛けた。




「事務員って何をしてもらうんだ? 経理も営業も間に合ってる。それ以上の事務作業となると、うちの内部事情に関わって来るぞ?」

「それは上手くやるさ。風通しの悪い組織は腐敗するって言うだろ? 第三者の意見を取り入れながら、円滑な業務運営をして行きたいと思うんだよ」

「何言ってんのか全然分かんねぇんだけど!」




 侑は声を上げて朗らかに笑った。

 楽しそうである。湊が何を言っているのかは、双子の弟である航にも分からない。だが、侑はその意味不明さを楽しめる度量の深い男だった。




「まあ、良いさ。とりあえず、面接でもすりゃ良いのか?」

「話が早くて助かるよ。航とは大違いだ」

「一言多いんだよ、テメー」




 航はテーブルの下で湊のすねを蹴った。

 湊がやり返して来たので、テーブルの下でちょっとした小競り合いになった。侑が象みたいな優しい眼差しをしていたので、航は舌を打った。




「あんまり甘やかすなよ。嫌なことは、はっきり言え。NOを言えないのは日本人の悪い所だぞ」

「別に嫌じゃねぇよ」




 侑は微笑んでいた。




「お前等が楽しそうにしてんのは、見ていて面白いからな」




 大人だな。爪の垢を煎じて湊に飲ませてやりたいくらいだ。

 侑の過去のことは詳しく知らないが、それなりに苦労して来た人間であることは分かる。


 ソムチャイに連絡すると息巻く湊を、侑はまるで子供の我儘を許容する親のように眺めている。


 なんだかな、と航は肩を落とした。

 湊は国境も言語も文化も超えて、自由に楽しく生きている。

 自分も侑も、もっと気楽に我儘に生きられたら良いのにな、と思った。

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