⑾カーテンコール

「今回は俺達の勝ちだな、エンジェル・リード」




 血塗れのナイフを片手で弄び、その男は悪戯が成功した子供のように笑っている。早戸が応急処置に動き、航が警官に身構える。そして、坂田は、燃え盛る屋敷の方から歩いて来る二人の男に気が付いた。


 一人はエンジェル・リードの天神侑だった。その隣には、喪服のような黒いスーツを纏った背の高い男がいた。双眸は満月のように金色に光っている。右目の下に、痣のようなものが見える。距離が近付くに連れて、その形が鮮明になる。


 それは、天空を羽ばたく群青の鳥だった。

 裏社会の抑止力、最速のヒットマン――ハヤブサ。

 まさか、実在するだなんて。


 ナイフを握った警官は、警帽を投げ捨てるとナイフを振って血を切った。既に殺意は無い。流石に、坂田にも彼が偽物の警官だったことは察しが付いた。


 来栖はおびただしい量の血液を流し、冷たくなって行く。早戸の応急処置も虚しく、その体からは既に熱が失われ始めていた。早戸は来栖の開いた瞼を下ろし、黙祷した。そして、顔を上げた時には既に冷静に問い質した。




「侑。あの人はどうなった?」

「逃げられたよ。この木偶でくの坊のせいでな。ついでに、山元も死んでたぜ。腹に三発食らってた」




 天神はハヤブサを睨み、舌を打った。見えない場所でトラブルでもあったのだろう。


 藍村は逃走し、来栖は殺され、山元は死んだ。そして、屋敷は炎に包まれ、証拠も消えた。


 屈辱ではらわたが煮え返るようだった。坂田は拳を握り、アスファルトを叩いた。これでは、何の為の捜査だったのだ。被害者も加害者も死に、事件は立証されない。遺族は苦しみ続け、事件は解決しない。




「……ハヤブサの依頼人は、来栖さんかな?」




 早戸が尋ねた。

 ハヤブサは答えない。偽警官が笑った。




「依頼人の情報は話せねぇ。お前も知ってるだろ?」

「答え合わせはしなくていい。俺が質問したかっただけだ」




 早戸は立ち上がると、ドレスの裾を払った。




「ハヤブサは復讐の依頼を受けない。裏社会の抑止力である以上、武器商人に手を貸す理由は無い。……来栖さんが言っていた。エンジェル・リードの手を取らなかった理由は、自分が芸術家だからだって」




 サイレンの音が喧しい。けれど、それは近付いているのか、遠去かっているのかも分からない。炎に照らされながら、早戸が言った。




「優れた芸術家は、死んでから名をせる。彼女は自分の作品に悲劇という付加価値を求めた。……もう答え合わせは、出来ないけどね」




 来栖の遺体を見下ろす早戸は、途方に暮れた迷子のようだった。航は苛立ったようにその後頭部を叩いた。




「同情してんじゃねぇ。俺達は利用されたんだぞ」

「結構なことじゃないか。俺達はそれを踏み台にするだけさ」




 早戸は溜息を吐いた。つまるところ、エンジェル・リードは来栖の復讐に利用されたのだ。航の怒りも尤もだった。早戸は投げ出された来栖のハンドバッグを拾い上げて中を覗くと、坂田に押し付けた。




「連続銃殺事件の凶器だ。貴方にあげる」

「じゃあ、其処の殺人犯も現行犯逮捕だな」

「止めておけ。二兎を追うものは何とやらだ。死体が増えるだけだ」




 天神が言った。

 偽警官はナイフを捨て、降参を示すみたいに手を上げた。黒い手袋をしていた。指紋は残っていないのだろう。現行犯逮捕も可能だが、銃器を所持した複数人を相手に一人で立ち向かうことは出来なかった。


 しかし、これでは、余りにも。

 余りにも、救いが無いではないか。

 来栖は復讐の末に望んで自殺した。では、被害者はどうなる。その家族は。司法が裁けなかったら、遺族の気持ちは誰が救ってくれると言うのか。


 早戸も航も天神も、来栖の遺体にはもう見向きもしない。

 彼等にとって、事件はもう終わったのだ。否、そもそも彼等にとっては来栖の復讐なんて些末なことだったのかも知れない。


 偽警官はパトカーのサイドミラーで髪を整えながら、つまらなそうに言った。




「何でもかんでも救える訳じゃねぇよ。納得出来ないなら、納得出来るようにアンタが解釈すれば良いさ」




 行くぞ、とハヤブサが言った。

 裏社会の住人。本物の殺し屋。偽警官は懐っこく笑って、手を振った。残されたのは指紋の無いナイフだけだった。




「パトカーを誘導するのも限界だね。そろそろ撤退しようか」




 早戸が言った。その手には携帯電話がある。

 早戸はスピーカーに向かってパトカーの無線への指示を出していた。どういう絡繰からくりがあるのか、その声はしゃがれた男の声に変換されている。


 早戸ちなみ。航の彼女で、女子高生。

 五反田に住み、都内の高校に通っている。

 父親は普通のサラリーマンで、元議員の同級生だった。


 いや、その情報は真実では無いのだろう。

 嘘は真実に紛れさせる。

 エンジェル・リードのボスの常套手段。

 一体、何処から何処までが彼女の策略で、嘘だったのか。




「一体、何が嘘だったんだ?」




 坂田が問い掛けると、早戸は振り返った。

 そして、弾けるような無邪気な笑顔を浮かべて、高らかに言った。




全てさイッツオール!!」




 早戸は舞台演者のように深く頭を下げると、挑発的に笑ってみせた。言い返す気力は無かった。

 全て、嘘だった。名前も年齢も、住所も職業も、――性別も。


 どんな馬鹿でも真実を語ることは出来るが、上手く嘘を吐くことは、かなり頭の働く人間でなければ出来ない。

 イギリスの小説家、サミュエル・バトラーの名言である。


 真夜中の閑静な住宅地は、山元氏の邸宅の家事によって大騒ぎである。漸く到着した緊急車両が消火活動を始めるが、消し止める頃には朝を迎えているだろう。


 エンジェル・リードの三人の姿はもう何処にも無い。まるで性質の悪い夢を見ていたみたいだった。坂田は現場保存の為、凶器の入ったハンドバッグを抱えたまま、燃え盛る屋敷を眺めていた。













 1.水底のマグマ

 ⑾カーテンコール












 山本努元参議院議員の邸宅が焼け落ちてから一週間。

 世間では連続銃殺事件の真相を追って憶測が飛び交う。

 坂田は警視庁捜査一課のデスクで新聞を広げ、真実には程遠い記事を眺めていた。


 焼け落ちた邸宅からは、山元氏の焼死体が見付かった。また、坂田が提出した凶器は来栖凪沙の犯行を裏付ける決定的な証拠となり、事件は解決したものとされている。


 だが、表沙汰にならない事実を坂田は知っている。

 事件の裏で暗躍したエンジェル・リード、ハヤブサという殺し屋に偽警官。子飼いの情報屋が武器商人であったことや、山元氏が焼死ではなく銃殺されていたこと。全ては闇に葬られ、暴かれることは無い。


 それから、もう一つ。

 早戸ちなみという女子高生であるが、近隣の高校を探してみたが、いなかった。勿論、住んでいると言っていた五反田にも該当する人間はいない。あの時の言葉の通り、全て嘘だったのだ。


 事件は解決した。

 後味は悪くとも、それは事実だ。

 坂田は新聞を畳み、部屋を出た。


 気分転換に喫煙所に行くと、見覚えのある男がいた。

 柴犬に似た人の良さそうな刑事、羽柴綾。その正体は公安警察で、中国マフィアの動きを探っていたらしい。連続殺人事件の凶器が銃であったことから、警察内部も疑っていたらしいが、結果はどうだったのだろう。




「やあ、お疲れさん。大変だったな」

「いえ、俺は何も……」




 坂田は拳を握った。

 自分は何も出来なかった。犯人を目の前に逮捕することも出来ず、殺人の現行犯すら逃してしまった。

 世間では、来栖凪沙は自刃したと報道されている。司法解剖すれば他殺であることは明白な筈なのに、真実は報道されない。




「ペリドットは元気だったか?」

「ペリドットって誰ですか?」

「エンジェル・リードにいただろ? 金髪碧眼の優男」

「ああ、天神ですか」




 あれから、エンジェル・リードの元には行っていない。会った所で出来ることも無い。




「元気そうでしたよ。あの男は、何者なんですか?」

「敢えて言うなら、元同僚かな」




 羽柴は煙草を加えると、使い捨てライターで火を付けた。蛍光緑のライターは玩具みたいだった。




「あと、あのガキ共は? みなとと航」

「……湊?」




 航は、知っている。エンジェル・リードのアルバイトで、苛烈な性格の美青年だった。

 羽柴は喉の奥で笑っていた。




「二人いたろ? 気の強そうなのが航。もう一人、顔だけは天使みたいなガキがさ」




 天使のような子供――。

 坂田は少し考えて、稲妻に打たれたかのような衝撃に襲われた。まさか、湊というのは、早戸ちなみのことか?




「双子のなんだってな。似てないよなあ」




 羽柴は紫煙を吹かせながら、呑気に言った。

 早戸ちなみ――やはり、偽名か。それどころか、性別すらも。

 双子ということは航とは同い年になる。当然、彼氏彼女の関係でもない。




「今度、会うことがあったら、礼を言っておいてくれよ。あいつのお蔭で武器密輸ルートが一つ潰せたからな」

「どういうことですか?」

「中国マフィアの青龍会が、利益誘導の為に武器密輸しようとしてんだよ。今回の連続銃殺事件もその一端だ。武器商人がヘマしたみたいでな、密売ルートが割れて摘発出来たんだ」




 坂田は絶句した。

 羽柴は他人事みたいに楽天的に笑っている。公安警察が介入するなんて、とんでもない事態だったのだ。これは、テロに等しい大事件である。




「青龍会は、中国の黒社会を牛耳ぎゅうじる一大勢力だ。下手に手を出せば火傷じゃ済まない。潰したら潰したで、向こうの治安は一気に悪化して、日本経済も影響を受ける」




 凄惨な殺人事件の裏で、とんでもない陰謀が動いていたらしい。其処で暗躍したのが、エンジェル・リードだと言う。




「エンジェル・リードは武器密売の仲介者――、武器商人を探していたんだろう。そいつを潰すのが一番合理的だからな」




 エンジェル・リードが捜査に協力したのは、その為だったのか。彼等が本当に手を組んでいたのは、捜査本部ではなく、公安警察だった。


 青龍会は五反田で会合をしていたと聞く。

 思えば、早戸ちなみ――湊が住所を偽っていたのも五反田だった。もしも、坂田が彼を五反田で見掛けたとしても、不審には思わなかっただろう。




「どうして、そんなことを……」




 天神は兎も角、航と湊は未成年に見えた。裏社会ではなくとも、日の当たる道を歩き、明るい未来を掴める筈だ。それなのに、どうして日の当たらない危険な道を行こうと言うのか。


 羽柴は煙草を灰皿に叩き、ぽつりと言った。




「この国は、両親の母国らしいぜ」




 両親の母国。

 その為に、その為だけに危ない橋を渡ったと言うのか。




「あいつ等のイデオロギーはよく分からない。今度会ったら訊いてみろよ」




 羽柴は煙草を灰皿に落として、スーツの襟を正した。

 またな、と言って振り返りもせずに羽柴は消えて行く。また会うことがあるのか、坂田には疑問だった。


 珍しく仕事が早く片付いたので、坂田は真っ直ぐ帰路に着いた。待ち惚けばかりさせている家族に早く会いたかった。

 外は雪が降っていた。手袋を忘れたせいで、両手がかじかんで感覚が無い。


 警視庁から出て桜田門駅に向かう途中、芳ばしいコーヒーの匂いがした。自然と足が止まった。視線が吸い寄せられたのは無意識だった。


 ガードレールに腰掛けた二人の青年が、控えめに手を振っていた。ニット帽にマフラーを巻き、もこもこに厚着した湊が笑っている。航はシンプルなダウンジャケットにホットコーヒーを持っていた。二人の肩には薄く雪が積もっていた。


 待ち合わせか?

 尋ねそうになり、坂田は口をつぐんだ。湊はよく此処にいた。双子の兄弟を待っていたのかも知れないし、坂田を見張っていたのかも知れない。今となっては分からない。彼等は答え合わせなんてしない。




「来栖の絵は、どうしたんだ?」




 坂田が訊ねると、航が答えた。




「一番の高値で売ったよ。経済を回さなきゃな」




 航は悪戯っぽく言った。

 それも何処まで本当か分からない。

 湊はマフラーに顎をうずめながら、眦を下げた。




「嘘を吐いてごめんね」

「いや、もういいさ」




 彼等にも事情はあったのだろう。

 嘘を吐かれたのも、欺かれたのも事実。事件解決に貢献したのも、中国マフィアからこの国を守ったのも事実。それ以上の答えなんて必要無かった。




「ねぇ、坂田さん」




 湊が言った。それは耳に馴染むボーイソプラノだった。




「俺は正義も悪も信じてはいない。この世は怠惰たいだな亀で溢れている。だけど、その中には勤勉なウサギが混ざってる」




 怠惰な亀と勤勉なウサギ。

 イソップ童話のウサギと亀だろうか。

 ウサギと亀が競争をする。足の速いウサギは先を行くが、途中で昼寝をしてしまい、真面目に歩いて来た亀に抜かされて負けてしまうのだ。


 坂田は、もう一つのウサギと亀の話を知っている。

 それは、真面目に走って来たウサギを、策略を巡らせた亀が騙して勝つというものだった。怠惰な亀と勤勉なウサギ。湊が指しているのは、どちらか。




「この国は、出るくいは打たれる文化だ。協調性は素晴らしいけれど、それじゃあ報われない努力もあると思わない?」




 何となく、この湊という青年の本質が見えた気がした。

 多分、彼等は凡ゆる困難を努力で乗り越えて来たのだ。だから、他人の努力を評価する。努力に対する正当なる評価。それがエンジェル・リードの理念。


 坂田が答えずにいると、湊は吐息を漏らすように笑った。




「どうか、家族を大切にね」




 湊が言った。その真意は、――踏み込むな。

 好奇心に任せて踏み込めば、家族を巻き込むことになると警告している。


 その時、クラクションが鳴った。薄く雪の積もった道路に、真っ赤なポルシェが停まる。運転席には天神が座っていた。




「さようなら、坂田さん」




 湊と航は声を揃えて、ポルシェに乗り込んで行った。

 滑らかな運転でポルシェは雪夜を走り出す。天神は振り返らない。坂田はテールランプが見えなくなるまで見送り、ポケットに手を入れた。


 嘘もあっただろう、策略もあっただろう。

 けれど、彼等の全てが嘘だったとは思えなかった。


 その時、携帯電話が鳴った。妻からのメールだった。帰宅時間を尋ねるメッセージには、テレビに釘付けになっている息子の横顔が添付されていた。写真を眺めていると、胸の中に火が灯ったかのように温かくなる。


 これから帰るよ、と返信し、坂田はふと思い立った。電話履歴の中からエンジェル・リードの番号を探し出し、一つずつ丁寧に消去して行く。


 深淵を覗き込まなくても、家族がいればそれで良い。そして、帰る場所があるということが、きっと、エンジェル・リードからのだった。


 坂田は携帯電話をポケットに戻し、改札へ向かった。

 帰ろう。

 愛すべき家族の待つ我が家へ。

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