⑽真夜中の狂想曲

「ヒントはあげない。答え合わせもしない」




 厳かなピアノのメロディがダンスフロアを包み込む。室内灯は徐々に明度を落とし、これから何が始まるのかと客は期待に胸を躍らせる。

 だが、早戸の周囲だけは切り取られたかのような静寂に包まれ、まるで世界が死に絶えたかのようだった。




「真実なんてものは無いし、現実は頭蓋骨の中にしか存在しない。貴方はただ、選べば良い」




 どうぞ、お好きな地獄を。

 早戸はそう言うと、椅子を回転させた。鈴の音が聞こえる。

 カウンターの向こうには天神の代わりのバーテンダーが現れ、注文を訊ねる。早戸はグラスに残った炭酸水を掲げて断った。


 その時、一人の女が現れた。

 黒のタフタ生地で出来たドレスに、黒いショール。煌びやかな社交界の中、たった一人だけ葬式にでも来たかのような装いだった。その女は長い黒髪を重力のままに下ろし、野暮ったい黒縁眼鏡を掛けていた。銀色のハンドバッグばかりが眩く光っている。


 ショールで隠された両手首には、包帯が巻かれていた。それは明らかに異質な存在だった。航はその女を見据え、早戸は微笑んで席へ促した。


 エンジェル・リードの抱える若い芸術家、来栖凪沙。

 連続銃殺事件の容疑者。坂田は平静を繕うのに精一杯だった。包帯の巻かれた手首は細く、とても人を殺せるとは思えない。


 人目を避けるように女は俯いているが、分厚いレンズの奥に潜む胡乱な眼差しはまるで腐った沼のようだった。表情に覇気は無く、まるで児童虐待の被害者のような印象を受ける。


 心細そうにハンドバッグを抱え、来栖は静かにカウンターチェアに座った。早戸が何かを言おうとしたのを遮って、航がカウンターに手を突いた。




「アンタが実行犯だな?」




 その口調は否定を許していない。

 来栖は気の弱そうな女で、航の強い口調に肩を跳ねさせた。




「アンタの目的は何だ。俺達を踏み台にしてまで、何を成し遂げようとしている」




 航の声には、怒りがあった。

 当然だ。彼等は、彼女を救う為、社会の未来の為に資金援助して来た。それが連続殺人なんて犯罪者になってしまっただなんて、とんでもない裏切り行為である。




「嘘や誤魔化しは通じないぜ。うちにはそれを見抜く手札がある」




 航が言った、その時だった。

 柑橘系のコロンの匂いが漂った。航と早戸が勢いよく振り返る。気配も足音も無く、その女は金色の髪を靡かせて、来栖の隣に堂々と座った。


 胸元の大きく開いた赤いドレス。深いスリットから艶かしい大腿部が覗き、思わず生唾を呑む。匂い立つような迫力のある美女だった。長い睫毛の下でヘーゼルの瞳が、新しい玩具を見付けた子供のように煌々こうこうと輝く。




「何でお前が此処に――……」




 それは、坂田の子飼いの情報屋、藍村だった。

 繁華街の風俗店で生計を立てる不憫な女。そんな彼女がどうしてこんな場所にいるのか。


 早戸は藍村を見て、薄く笑った。




「会いたかったよ、Arms dealer」




 Arms dealer ――武器商人。

 まさか、藍村が?

 エンジェル・リードは坂田の持つ情報を欲しがっていた。それは子飼いの情報屋、藍村晴子のことだったのか?

 しかも、彼女は武器商人だと言う。つまり、内部情報を流したのも、青龍界の武器密売も、連続銃殺事件も、彼女の手の内だったということか?




「あたしの商売の邪魔をしてるのは、アンタ達だね?」

「そりゃ、お互い様だ」




 航は藍村を睨み、今にも飛び掛かりそうに身構えている。

 一触即発の緊張の最中、藍村は妖艶に笑った。そして、次の瞬間、ダンスホールは突如として真っ暗な闇に包まれた。


 動揺した客の悲鳴が響き渡る。非常灯の微かな光を反射し、銀色のナイフが振り上げられるのが見えた。坂田は咄嗟に早戸に手を伸ばした。けれど、その手は空を掴み、ナイフは勢いよく振り下ろされる。


 布の裂ける音が、鈴の音がする。ナイフを掲げた藍村に航が飛び付いて押さえ付けるのが見えた。早戸の切羽詰った声が轟いた。




「Stop!!」




 薄闇の中、来栖が出口に向かって走って行く。

 早戸は立ち上がろうとして、膝から転倒した。航が早戸に意識を奪われた瞬間、藍村はナイフを放り投げて逃走した。


 早戸はスラングを吐き捨て、忌々しげにパンプスを睨んだ。乱暴に脱ぎ捨てて追い掛けようと起き上がった早戸を、航が冷静に制する。




「一旦退くぞ」

「駄目だ。あいつは此処で捕まえる」

「誰が見てるか分かんねぇこの場所で、お前を表に立たせる訳にはいかねぇんだよ」




 航は苦々しく言った。

 早戸が何かを言おうとしたその時、航が言った。




「油の臭いがする」

「……まずいな。侑とは別行動だ」




 薄闇の中で航と早戸の声がした。

 パーティー会場に悲鳴と喧騒が広がって行く。客はパニックに陥り、出口に向かって押し寄せた。それはまるで一つの巨大な生き物のようだった。


 早戸が言った。




「避難誘導が先か」

「そうだ。……坂田さん」




 闇の中で濃褐色の瞳が光る。

 坂田は頷いた。何が起きているのかは分からないが、非常事態であることは分かる。このままでは大惨事になる。そして、パニックを収めるのに、国家権力というものが絶大な効果を持つことを知っている。




「俺達が退路を確保する。一人でも多く助けるぞ」




 航と早戸は走って行く。

 坂田は大きく息を吸い込み、腹の底から叫んだ。




「動くな、警察だ!!」




 パニックに陥っていた人々が動きを止め、振り返る。坂田は警察手帳を掲げながら、出口に向かった。非常灯の微かな光の中、退路が点々と照らし出されているのが分かる。先に行った航と早戸が誘導してくれているのだろう。


 状況は兎に角、ややこしい。けれど、一人でも多く助ける。

 坂田は怯える人々を引き連れて、出口を潜った。












 1.水底のマグマ

 ⑽真夜中の狂想曲











 パーティー会場となった山元努の邸宅は、高い塀に囲まれた城のような豪邸だった。


 坂田は怯える人々を引き連れ、地下の迷宮を彷徨ったミノタウルスのように出口を目指した。長い回廊を抜け、裏口を潜ったその時、この世の終わりを思わせる爆発音が背後から響き渡った。凄まじい熱波が背中を襲い、坂田は幾人もの客と共に倒れ込んだ。


 屋敷は炎に包まれていた。

 空を舐めるような紅蓮の炎に、辺りは夕焼けのように赤く染まる。何処か遠くで緊急車両のサイレンが鳴り響き、燃え盛る屋敷は音を立てて崩れ始めた。


 坂田は周囲を見渡した。

 航と早戸、天神はいない。無事だろうか。――否、それよりも。山元氏が、いない。


 背中の痛みを堪え、坂田は起き上がった。

 爆風に吹き飛ばされた時に捻ったのか、足首が鈍く痛む。


 屋敷の表に回った時、一人の女が立っていた。

 真っ赤な炎を恍惚に見詰めるその女は、悪魔に魅入られたかのように微笑んでいる。来栖凪沙。エンジェル・リードの抱える若い芸術家。




「アンタの絵を見た時から、ずっと不気味だったんだ」




 来栖の背後から現れたのは、航だった。

 スーツのすすを払い、航は乾いた声で言った。




「強烈な感情が込められているのに、俺にはアンタが何を描こうとしているのか、何を伝えたいのか全く分からなかった。……でも、今、やっと分かった」




 りん、と鈴の音が鳴る。




「貴方が本当に描きたかったのは、だね」




 早戸は、抑揚の無い声で言った。炎に照らされ、長い睫毛が頬に影を落とす。早戸は裸足だった。裂けたドレスが炎の熱に踊る。


 航が言った。




「アンタは燃やしたかったんだ。故郷を、人々を」

「……」

「でも、ダムの建設が始まって、それは叶わなかった。村がダムの底に沈み、村人は散り散りになり、それでも、アンタの憎悪の炎は消えなかった。……アンタは、どうしてそんなにも故郷を憎んだんだ」




 来栖は妖しく笑い、眼鏡を外し、髪を掻き上げた。

 その顔は何処か西洋の雰囲気が漂っている。




「貴方達は、日本人? 田舎に住んだことはある?」

「いや……」

「じゃあ、分からないでしょうね。あの陰湿で排他的な集落で生きるということが、どんなに苦痛だったかなんて……」




 豊栄村は、排他的な田舎の集落だった。

 近所付き合いが盛んと言えば聞こえは良いが、其処にプライバシーというものは存在しない。集落には独自のルールと暗黙の掟があり、余所者はレッテルを貼られ村八分の扱いを受ける。彼等は自分の優位性を保つ為に、無条件に攻撃してもいい他人を探す。閉鎖的な集落に逃げ場は無い。


 来栖凪沙が育ったのは、牢獄のような村だった。




「私の父はアメリカ人でね、小さなレストランを開業していたの。だけど、余所者を受け入れない集落で、異国の人間がやって行ける筈も無かった。……母はノイローゼになって、首を吊って死んだ。父は後を追うように過労死。私が両親の保険金で村を出た頃、ダム建設の話を聞いたの。あの村が消える。なんて素晴らしいことなんだろうって!」




 来栖の瞳は炎を映し、爛々と輝いて見えた。

 けれど、坂田には、それは余りにも悲しく見えた。




「村がダムの底に沈んでからも、私の中にある憎悪は消えなかった。……貴方達には、きっと分からないわね。生きながら業火に焼かれるようなあの苦しみは」




 来栖の目には、確かな狂気の炎があった。

 憎悪の矛先を失ってもまだ、彼女は復讐の炎に焼かれている。




「……俺達は、アンタの絵を評価したんだ。例え、それが憎しみから生み出されたものだとしても」




 航は絞り出すような悲しい声で言った。

 エンジェル・リードは社会の未来に投資する。彼女の絵画がいつか世界を切り開いて行く。そう、信じて。

 来栖は泣きそうに笑った。




「エンジェル・リードから資金援助の申し出があった時、嬉しかった。……本当よ? 等身大の私を受け入れてくれる人がいるって、思えたから」

「じゃあ、なんで!」

「理由が必要なら、教えてあげる。それはね、私がだったから」




 意味が分からない。きっと、航もそうだった。

 早戸ばかりが神妙な顔付きで、来栖を見詰めている。




「貴方の作品は売れる。芸術界の未来を切り開いて行く一作になると思った。……でも、違ったようだ」




 早戸は目を伏せた。




「エンジェル・リードが投資するのは、未来のある芸術家だ。貴方の絵画に、未来は無い」




 早戸の濃褐色の瞳は、乱反射する水面のように輝いている。

 その正体はようとして知れないが、反論を許さぬ威圧感と存在感は、組織のトップに相応しい貫禄を持っている。




「俺は、本当に美しく尊いものを知っている」

「ああ、事務所に掛けられていた絵のことね。あの未熟な油絵」

「芸術が何たるかなんてことは、俺には分からない。だけど、俺にとってはあれこそが至上なんだよ」




 エンジェル・リードの事務所に飾られた繁華街を描いた絵画。ボスの宝物だと、航が言っていた。

 やはり、エンジェル・リードのボスは、早戸ちなみ。しかし、坂田は喉に小骨が引っ掛かるような違和感を覚えた。


 彼女は今、と言った。

 まさか、こいつ――。


 追及は後でも良い。サイレンの音が近付いて来る。

 坂田は応援を誘導する為に屋敷の門扉に向かった。その時、耳を劈くような破裂音が闇の中に木霊した。

 銃声だ。坂田が振り返った時、航が来栖を庇うように覆い被さり、早戸が辺りを見回した。


 破裂音が数回響き渡り、アスファルトを鋭く穿つ。火薬と硝煙の臭いが鼻を突いた。




「坂田さん、パトカー回して!!」




 早戸が叫んだ。

 航が来栖の手を引いて走り出す。銃撃は止まない。銃弾が雨のように降り注ぎ、何処かで破裂音がする。


 門扉を開けると、一台のパトカーが停まっていた。純朴そうな顔をした警官が呑気に敬礼する。説明する時間が惜しかった。坂田は警官を押し退け、後部座席に来栖を押し込もうとした。――その時だった。


 くぐもった呻き声と、液体の滴り落ちる音が聞こえた。

 来栖は体をくの字に曲げ、真っ赤な血液を吐き出した。それはパトカーのシートとアスファルトを黒く染め、辺りに鉄の臭いが充満する。


 警官の手には、大振りのナイフが握られていた。

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