⑼嘲笑

 捜査会議の後、坂田は本部長の姿を探した。

 ヤニ臭い刑事達に埋もれそうな背の低い男である。眼鏡を掛けているせいか神経質そうな印象を受けるが、性格は中々に強烈で、兎に角不器用な正義感のある男だった。


 巽千弥たつみ せんやは、坂田が最も信頼する警察官僚だった。

 喫煙所に行くかと思いきや、巽はそのまま真っ直ぐに駐車場へと降りて行く。エンジェル・リードのことを伝えなければならなかった。電話ではなく、出来れば生の言葉で。


 だだっ広い駐車場にはパンダみたいなパトカーの他に、覆面パトカーが何台か止まっていた。巽は駐車場奥の銀色のセダンに向かっている。坂田が慌てて追い掛けた時、一人の刑事が話し掛けるのが見えた。


 知らない顔だった。

 人懐こそうな顔立ちは柴犬に似ている。上背は無いが、鍛えていると一目で分かる。坂田は咄嗟に車の影に隠れた。柴犬のような男は巽に近付くと、囁くように一言だけ言った。




「ハヤブサが動くぞ」




 ハヤブサ?

 坂田は耳を疑った。

 裏社会の抑止力、最速のヒットマン、ハヤブサ。

 天神や航からも話には聞いていたが、坂田は半信半疑だった。だが、その名をこんな場面で聞くことになるとは思いもしなかった。




「――誰だ?」




 柴犬のような男が振り向いた。坂田は身を伏せたが、すぐに隠れる必要は無いことを思い出した。坂田が姿を現すと巽が目を眇めた。柴犬のような男が声を潜める。




「何者だ?」

「俺の部下だ。エンジェル・リードの所に通わせてる」

「ああ、ペリドットの所か」




 二人の会話の意味は分からない。

 柴犬のような男は警察手帳を取り出して、開いて見せた。

 羽柴綾はしば りょう。警察官であることは確かなようだが、坂田はこの男を見たことが無かった。




「……私は貴方を知りません。失礼とは、思いますが」

「巽は、本当に部下に恵まれてるなァ」




 羽柴は嬉しそうに笑うと、警察手帳をしまった。

 巽は不機嫌そうな仏頂面で、口を尖らせた。




「こいつが公安のスパイだよ」

「おい!」




 羽柴が声を荒げた。

 公安? スパイ? まさか、本当にいたのか?

 しかも、巽は知っていたというのか?


 羽柴はばつが悪そうに目を逸らし、頭を掻いた。見た目は何処にでもいそうな優男で、とても公安警察とは思えない。


 巽と羽柴は警察学校時代の同期らしい。キャリアを積んで出世して行った巽と、公安警察として闇に身を隠した羽柴。彼等の間にも、坂田が知り得ないドラマがあったことだろう。


 坂田は腹に力を込めた。

 巽がこうして話しているということは、信頼出来る人間なのだろう。だが、目的も分からない相手を同じように信頼することは出来なかった。




「公安は何を探っているのですか? まさか、本当に犯人は警察内部に……」

「いやいや、別件さ」




 羽柴はあっさりと否定した。

 何だよ。それじゃあ、今までの俺達の不安は何だったんだ。あの疑心暗鬼は無駄だったのか。


 坂田が肩を落とすと、羽柴が言った。




「今回の事件に関しては、警察内部に敵はいない。それだけは確かさ」

「貴方は、犯人が分かっているんですか?」

「そりゃ、君達の仕事だろ?」




 飄々ひょうひょうとして掴み所の無い男である。

 羽柴は「じゃあな」と軽く手を振って、何事も無かったかのように警視庁に消えて行った。残された坂田は呆気に取られていたが、巽に呼び掛けられて我に帰った。




「あの人は一体、何を調べているんですか」




 坂田が訊ねると、巽は辺りに目配せをして、声を落とした。




「……最近、中国の青龍会の動きが怪しい。代替わりして落ち着いたかと思ったら、そうでも無いらしいな」

「公安は青龍会を追ってる?」

「みたいだな。だが、青龍会にコネクションを持つ人間なんて、今のこの国には一人しかいない」

「……それは」




 中国マフィアの総本山、青龍会。

 一年前には武器密輸を公安が摘発し、先代総帥の右腕が暗殺されるなんて血腥ちなまぐさい事件もあった。そんな奴等が日本で何かをしようとしているだなんて、考えるだけで恐ろしかった。




「今の青龍会と対等に渡り合えるのは、エンジェル・リードだけだ」




 エンジェル・リード。

 まさか、此処でもその名を聞くことになるとは。




「あいつ等、本当に何者なんですか」

「なんだろうな、あいつ等は……。俺にもよく分からんが、差し詰め、大人のヒーローごっこみたいなもんなのかもな」




 そう言って、巽はエンジンを掛けた。













 1.水底のマグマ

 ⑼嘲笑ちょうしょう












 きらびやかなダンスホールは、裏社会の住人達の社交場だった。

 グラスのぶつかる軽やかな男、シェイクする男。ライターの着火音に客達の談笑。紫煙の漂う豪華絢爛な社交場は何処か現実離れして見えた。


 坂田はクリーニングから戻って来たばかりの一丁羅を着て、バーカウンターの椅子に座っていた。カウンターの向こうでは、バーテンダーにふんした天神が甘いマスクでシェイカーを振っている。


 一目で高級品と分かるドレスに身を包んだ夫人と、政財界に名を馳せる大御所。何処を見ても有名人ばかりで、坂田は居心地が悪く、どんどん背中が丸くなるような気がした。


 元の食材が分からないような豪勢な食事と、この世の天国かのように踊る人々。見ているだけで胸焼けがしそうだった。


 エンジェル・リードのボスからの指令を受けて三日。

 坂田は、山元努元参議院議員の主催するパーティーに潜入した。次のターゲットは山元氏だろうというのが、エンジェル・リードのボスの見立てだった。


 此処で決着を付ける。

 エンジェル・リードのボスはそう言っているらしい。

 坂田は未だ、その人物に会えていない。




「此処は場末のスナックじゃねぇんだよ。もっと堂々としてろ」




 天神が厳しく指摘する。

 この男の正体はよく分からないが、初対面では猫を被っていたのだろうと思う。




「こんな場所に一人放り込まれた俺の気持ちが分かるか?」

「知らねぇよ。やることやれよ」




 天神は溜息混じりに言った。

 坂田は青いカクテルの注がれたグラスを揺らしながら、フロアを見渡した。光に包まれたダンスホールでは、山元が夫人と社交ダンスをしていた。老人の素人ダンスなんて見ていて楽しいものじゃない。


 けれど、彼方此方で見掛ける有名人達がこうして接点を持っていることを知れたというのは、収穫でもある。何か事件となった時に芋蔓式に引っ張れるかも知れない。どうせ、此処にいるのは何らかの犯罪に関わっている人間だ。


 この情報が、いつか何処かで活きるかも知れない。

 坂田がダンスホールを見渡していた時、入口の扉が開いた。それは何か特別な演出がされていたのではない。ただ、ドアマンが扉を開けて、遅れて来た客人を招き入れた。それだけのことなのに、坂田は絶句して目が離せなかった。


 エンジェル・リードのアルバイト、航。

 今日はシックなスーツを着て、大人っぽく見えた。女性客が振り返って頬を紅潮させる。まるで漫画みたいだ。だが、坂田が驚いたのは隣に並んだ少女である。


 黒いクラシックなドレスに白いレースを合わせた装いは、まるで天使が舞い降りたのかと思う程に美しかった。長い睫毛に彩られた双眸には柔和な光が宿り、端正な顔立ちと相まってこの世のものとは思えない。


 華奢だが、彼女は弾けそうな肌の色をしていた。ストラップの付いた黒いハイヒールに、きゅっと締まった脚首。アンクレットには小さな鈴が付いていて、歩く度に風鈴のような涼やかな音が鳴る。


 航は嫌そうに顔を顰めて、腕を差し出した。

 早戸もまた、じとりと睨め付ける。そうして腕を取って歩き出した二人は、会場中の熱の篭った視線を独占していた。


 早戸ちなみは坂田の姿を見付けると、子供のように大きく手を振った。歩く度に足元の鈴が鳴り、黒いドレスの縁がひるがえる。いつもは下ろしたままの髪も頭頂部で纏められ、伸びた白いうなじがぞっとする程に綺麗だった。


 航と並び立って遜色無いのは、この子くらいだろう。

 坂田は歩いて来る二人を眺めながら、娘の結婚式に出る父親はこんな気持ちなんだろうと夢想した。


 己の意思とは無関係に、目頭が熱くなる。

 酒は飲んでいない筈だが。


 早戸は坂田の前に立つと、柔らかに微笑んだ。

 グラマラスとはお世辞にも言えないが、早戸は瑞々しい色気に満ちていた。肌の色が白いので、黒いドレスがよく似合っている。早戸は薄ピンクの口紅を塗っており、長い睫毛と濃褐色の瞳には迫力があった。


 化粧をすると女は化けるというが、これは。




「見違えたよ、綺麗だ」




 坂田が言うと、早戸は少し困ったように笑った。

 航は早戸を置いてさっさと椅子に座り、炭酸水を頼んだ。




「オークションなら兎も角、社交界に男だけだと目立つだろ。代役もいなかったし、苦肉の策だ」




 確かに、航と早戸が並び立つと絵になる。

 彼方此方から向けられる視線を早戸は微笑みで制して、航はカウンターの向こうにいる天神を見遣った。




「首尾は?」

「上々と言いたい所だが、肝心の奴等が来てねぇ」

「ふうん……」




 早戸の足元で、鈴が鳴る。足を組んだらしい。

 今回の社交界には、エンジェル・リードの抱える芸術家である来栖凪沙も参加することになっている。元々、人間嫌いの変人らしい。だが、作品を売る為だと言って無理矢理引っ張り出したのだ。


 早戸は炭酸水の入ったグラスを受け取ると、可愛らしく微笑んで礼を言った。坂田は不安が拭えなかった。

 代役がいなかったのも、事実だろう。航が早戸を選ぶのも分かる。


 早戸ちなみは、連続銃殺事件に関与している可能性がある。四人目の被害者は五反田で殺された。早戸の自宅の近くだった。坂田は静かに、これから待ち受ける残酷な未来を覚悟した。


 りんりんと、鈴が鳴る。天神はシェイカーを置き、マドラーでグラスの縁を叩いた。




「こういうの苦手だな。堅苦しくて、嫌になっちゃう」

「ドレスは似合ってるぜ?」

「嬉しくないんだけど」




 早戸がぶうぶうと文句を言う。

 どうやら、早戸は天神とも面識があるらしい。それなりに親しそうだが、航は気にしないのだろうか。




「東北の浦賀ダムに行って来たよ」




 早戸が言った。

 そういえば、土産だと言って黒糖饅頭を貰った。浦賀ダムに行っていたのか。――何故?


 嫌な予感が心臓を早鐘のように鳴らす。

 まさか、やはり、早戸は――。




「あんまり深いから、底の方は見えなかったよ。今は観光地みたいだね」

「皮肉な話だな」

「そうだね。優れた芸術家は死んでから名を馳せる。人も街も同じだ」




 早戸は軽く笑った。

 りんりんと、鈴が鳴っている。早戸は椅子を回転させて坂田を見た。その濃褐色の瞳は不思議に透き通り、見ているだけで吸い込まれそうだった。




「あの透明な絵は、豊栄村の風景だね。山の稜線で分かる」

「よくそんな時間あったな。影分身でもしたのか?」

「野暮用があったからついでだよ」




 早戸は、にししと笑った。

 その時、微かに甘い匂いがした。何処かで嗅いだことのあるような懐かしい香り。


 りんりんと、鈴が鳴る。

 早戸は振り向いて、坂田を見た。透き通るようなその眼差しは、まるで心の底まで見抜かれてしまいそうな鋭さがあった。




「坂田さんは、勤勉なウサギだね」




 早戸はカウンターに肘を突き、見上げるようにして坂田に振り向いた。これで惚れる男もいるだろう。早戸ちなみは天使のように微笑んでいる。


 

 その言葉を、最近も何処かで聞いた。

 既視感が鈍痛となって頭を締め付ける。何か大切なことを忘れている。否、思い出そうとしている?




「貴方のお蔭で、ネズミの尻尾が掴めたよ。ありがとう」




 そう言って、早戸は椅子から降りた。その時、何処かで嗅いだあの甘い匂いがした。断片的だった記憶が糸で繋がれているようにして答えを導き出す。


 甘い、――花の匂い。

 これは、ラベンダーだ。

 エンジェル・リードの事務所に漂う甘い匂いと同じ。




「お前、一体、何者だ」




 早戸は答えなかった。鈴の音色が小鳥のさえずりのように微かに響く。坂田が追及しようとした時、天神が遮った。




「そいつはうちのだ。手を出すなら相応の覚悟をしろ」




 振り向き見たその顔は、喜怒哀楽の全てを喪失したかのような無表情だった。殺気が湯気のように立ち昇り、辺りの気温をぐっと下げて行くような感覚さえした。


 早戸は振り向き、にっこりと笑った。




「これはエンジェル・リードに売られた喧嘩なんだよ」

「喧嘩……?」

「そう。今回の事件はね、複数犯による連続殺人事件。厳密には、実行犯と計画犯がいる。警察が逮捕したいのは実行犯。そして、此方が捕まえたいのは計画犯なのさ」




 早戸は諭すように、語り聞かせるようにゆっくりと言った。

 其処に悪意や害意の類は無く、子供がなぞなぞの答え合わせをするかのように得意げに語る。




「去年の秋、或る情報屋が来栖凪沙のことを教えてくれた。エンジェル・リードはその作品を見て、投資することを決めた。それから、銃殺事件が起きた」




 りん、と鈴が鳴った。




「凶器が警察の支給品であったことも、遺体の足の裏に火傷の痕があったことも、捜査を撹乱する為の罠だ。奴はエンジェル・リードを誘き出したかった」




 早戸は子犬のような目を眇め、まるで辺りを睨むかのように視線を鋭くした。隣にいた航が腰を浮かせ、早戸を庇うかのように立ち上がる。


 早戸は天神に耳打ちした。




「ハヤブサが動くよ」

「分かった」




 天神はマドラーを置き、オレンジ色のミモザを作り終えるとバーカウンターで待つ女性客に提供した。鮮やかなカクテルに女性客が歓声を上げる。天神は微笑んで会釈し、そのままバックヤードへと消えて行った。


 何が起きているのか、全く分からない。

 坂田は早戸を見遣った。




「誘き出したいって、どういうことだ。何が起きてるんだ」

「ニュース見てないの? 中国マフィアの青龍会がこの国で悪いことをしようとしてるんだ」




 ニュースなら、見た。

 だが、それと早戸に何の関わりがあると言うのか。




「奴等はこの国に大量の武器を運び入れようとしている。武器商人を仲介して、手始めに警官の支給品であるニューナンブからね。青龍会のボスとは友達でね、本当はそれも止めたかったんだけど」




 早戸は何を言っているんだ?

 青龍会の武器密輸、連続銃殺事件、エンジェル・リード。

 早戸ちなみは、五反田に住むただの女子高生の筈だ。航の彼女で、都内の進学校に通っている――。


 だが、坂田は彼女が制服を着ている所を見たことが無い。ましてや、学校に確認したり、住居を確かめたりなんて。

 待ち合わせと称して、この子は度々桜田門駅に現れた。そして、青龍会の会合が行われていたのは五反田。エンジェル・リードのボスは同級生に会う為に不在だと。


 その時、本部長の言葉が脳裏に過った。

 ――今の青龍会と対等に渡り合えるのは、エンジェル・リードだけだ。


 ――そいつはうちのだ。手を出すなら相応の覚悟をしろ。

 天神の言葉が蘇る。


 まさか、こいつが。

 こんな少女が。




「お前が、エンジェル・リードのボスなのか……?」




 早戸は笑っていた。

 それは、氷のように冷たいだった。

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