⑺冠履転倒

「マズローの欲求五段階説って知ってる?」




 西棟の玄関口で、湊が訊いた。

 昼休みを終えた生徒達が、慌ただしく校舎に駆けて行く。明瞭学園は生徒の自主性を育む為にチャイムが無い。翔太にその良し悪しは分からないが、味気無く感じられた。




「人間には、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求の五段階の欲求があると言われている。この五つの欲求はピラミッド状の序列があって、低次の欲求が満たされると、より高次の欲求を持つようになるんだ」




 湊は硝子の扉を押し開けた。

 西棟の玄関は教員や外来専用で、生徒の立ち入りは無い。壁一面に並べられた靴箱は全て埋まっており、外来用のスリッパが陳列している。


 靴はその場に脱いで行った。長居するつもりは無いし、咎められるなら怒鳴り返してやる。もう我慢する必要は無いのだ。そう思うと、気持ちが軽くなった。




「飢えが満たされると、安全な家が欲しくなり、仲間を作りたくなる。友達が出来ると自分を認めてもらいたいと願い、それが叶うと自己実現を目指す」

「自己実現って何?」

「自分の可能性を信じて、より完全な自分になることさ。聞いたことあるでしょ、個性って奴だよ」




 聞いたことはある。

 みんな、個性は良いものだと言う。だけど、翔太にはそれが一体何なのかよく分からないし、説明も出来ない。表社会の人々は、スローガンのように何かとその言葉を口にする。




「この国の教育は、個性を伸ばすことを重視している。だけど、それが何なのか説明出来る人は少ないだろうね。この国の教育はね、大人が分かっていないものを子供に教えようとしているんだ。変な話さ」

「……」

「自己実現は、ピラミッドの頂点だ。いきなり個性のある人間になんてなれやしない。人間の精神は段階的に成長して行く」




 湊が何を言っているのかは良く分からないが、この国の教育は、必要な段階をすっ飛ばして、結論を急いでいるらしい。




「あのクラスで起きているのは、他者承認欲求の肥大化だよ。先生も生徒も、みんな誰かに認めて欲しいと願ってるんだ」




 誰かに認めて欲しい。

 それは、翔太にも分かる気がした。




「この国の教育は未熟だし、社会が寛容じゃない。大人達自身が育てられて来なかったのに、今の社会は小さなことも過剰反応する」




 可哀想、と湊が言った。

 問題児のレッテルを貼られて、助けを求めても無視されて、それでも湊は教師に同情している。まるで、檻の中の実験動物を観察しているみたいだった。




「この学校の人は、みんな失敗を怖がってる。誰かが褒められると妬んで、痛い目を見ると安心するんだ。それはね、この学校の世界が閉じているからだよ」

「閉じてる?」

「逃げ場が無いんだよ。スクールカウンセラーもいないし」




 湊の国では、何処の学校にもカウンセラーがいたらしい。教師でも友達でもなく、ありのままの自分を相談出来る第三者。情操未発達の子供達の心を支える避難場所。それが、この学校には存在しない。


 湊が言った。




「俺は人に囲まれるのがあんまり好きじゃないんだ。だから、侑のところによく逃げてた。用務員室ってさ、本校舎から随分と離れてるのに、いつも生徒の誰かがいる。なんでかなって思ってたんだよね」

「それは、侑のファンだろ」

「違ぇよ」




 侑がきっぱりと否定した。

 汚れた深緑のツナギ姿も、今日で見納めかと思うと名残惜しかった。草毟りやドブ攫いをする侑の姿なんて、もう一生お目に掛かれないだろう。




「あいつ等はさ、学校の中の部外者と話したいんだよ。先生でも生徒でもない、情報漏洩のリスクの低い他人とさ」




 相談ではなく、愚痴を、弱音を聞いて欲しかった。

 他者承認欲求を満たしてくれる誰かが。

 そして、それこそが、エンジェル・リードの探す証人だった。




「俺だってあんなガキ共とお喋りなんざしたくなかったんだが、用務員の爺さんがさ、いつも言うんだよ。生徒の話を聞いてやれ、泣いてる子供を放って置くなって。俺は教師でも何でも無いのにな。……あの爺さんが、生徒のカウンセラーだったんだ」




 侑は客用のスリッパを勝手に出して、翔太と湊の足元に投げて寄越した。礼も受け取らず、侑はさっさと歩き出してしまう。足の長さが違うので、翔太も湊も駆け足だった。


 侑は用務員室の前に立ち、その扉を勢い良く引き開けた。




「よぉ、爺さん。お喋りしようぜ」




 部屋の中には、老眼鏡を掛けたあの爺さんがいた。

 侑の乱暴な物言いに溜息を吐き、何かを言い返そうと口を開く。けれど、その後ろに翔太と湊の姿を見付けて口を噤んでしまった。


 石油ストーブがじりじりと音を立てる。

 隙間風でも吹き込んでいるのか、室内は肌寒かった。

 侑は構わず椅子を引っ張り出して、爺さんを囲むようにして椅子を並べた。こんな遣り方で、証言が得られるとは到底思えない。


 室内の沈黙を、隙間風の虚しい音が埋めて行く。侑は爺さんを睨んだまま黙り込んでいた。誰かが話を切り出すべきだ。

 その時、湊が言った。




「俺の話を聞いてくれますか?」

「……君は、留学生だったかな」

「吉田と言います」




 湊は丁寧に頭を下げて、微笑んだ。




「柊木愛梨さんのいた、二年一組にいます」




 その瞬間、爺さんが目を眇めた。

 この人は何かを知っている。確証は無いが、確信はある。湊は老眼鏡の奥をじっと見据えて、滔々と言った。




「あのクラスには、とても恐ろしいものが棲み着いています。目には見えないのに、機嫌を損ねないように、いつもみんなが様子を窺ってる。……俺には、その正体が分かります」




 どういうことだ。あのクラスには、先導者がいたと言うことか?

 誰だ。担任の清水智子か。バスケ部の深山遼平か。取り巻きの長谷部旬か。インフルエンサーの藤井芽衣か。ミジンコの話をしていた内田利麻か。


 マザーグースのあの歌が聞こえる。

 誰が駒鳥殺したの?




「それは、です」




 湊が言った。

 爺さんも、ぽかんと口を開けている。




「空気?」




 翔太が訊ねると、湊は頷いた。




「イジメというのはね、空気なんだよ。こいつなら攻撃しても構わない、反撃されても怖くない。不満の吐け口、サンドバッグ、生贄。……名前は何でも良いけど、みんなそういう存在が欲しいんだ。誰かを攻撃している間は、自分が優位に立てていると思えるからね」

「空気が、あの子を死なせたのか……?」




 爺さんが、ぽつりと呟いた。

 それは、まるで憑物が落ちたかのような顔だった。

 湊は下から覗き込むようにして、爺さんを見遣った。




「柊木愛梨さんは、偶々その矛先になった。綺麗な子だったみたいですね。いつも笑顔で、溌剌として、成績も良くて、みんなの中心で……」




 なんだ、それは。

 まるで、それは、湊みたいじゃないか。


 翔太は、すぐにそれを否定した。違う。そうじゃない。

 湊は演じていたのだ。自殺した柊木愛梨と言う生徒の人格を。――だから、ターゲットになった。




「あのクラスには、イジメがあります。俺が今受けているのが、正にそれだ」

「……君が?」




 爺さんは、痛ましげに見詰めた。老眼鏡の奥の瞳が、とても澄んでいることに気付く。深い皺と垂れ下がった瞼の奥に、確かな光が見える。


 侑は椅子の上で偉そうに踏ん反り返って、不機嫌を隠しもせずに言った。




「こいつ、上履きを盗まれたんだ。教師は校則違反になるからってスリッパも貸してくれねぇ。教室では机が引っ繰り返ってて、教科書は破かれて落書きされて、放課後は一人きりで掃除。何かあれば、教師は根性が足りないとか、問題のある生徒だとか、好き勝手言いやがる」




 羅列されると、確かにそれは間違いなくイジメである。湊が平然としているので悲壮感は無いが、思春期の少女が受けるには余りに酷い仕打ちだった。




「あれはもっとエスカレートするぞ、絶対にな」




 苦々しく、侑が言った。




「こいつは誰に助けを求めたら良いんだ? 死んだ子は誰が救ってくれるんだ? 愚痴ってすっきりして終わる話じゃねぇだろ。なあ、おい、どうなんだよ」




 ヤクザかよ。

 翔太は内心でぼやきつつ、爺さんの様子を伺った。




「また、子供が死ぬぞ。アンタは墓を増やしたいのか?」




 墓――。

 裏庭に建てられた小さな手作りの墓。あれは、柊木愛梨の墓だった?

 この学校の人間は、自殺した生徒を悼まなかったし、振り向きもしなかった。だけど、この人は違う。この人だけが、違った。




「柳瀬さん」




 湊が呼んだ。その時初めて、翔太はこの用務員の爺さんが、柳瀬と言う名前であることを知った。

 柳瀬は湊を見詰めて、まるで泣き出しそうな顔をしていた。




「俺は生きてる。でも、柊木愛梨さんは亡くなった。あと何人死ねば良い? 何人死んだら、止まると思う?」

「……」

「あれは、一人や二人の力じゃ止められない。学校だけでもまだ足りない。彼処に蔓延する空気は、そんな生温い方法じゃ変えられないんだ」




 柳瀬さん、と。

 縋るような声で湊が訴え掛ける。柳瀬は膝の上で拳を握っていた。まるで何かを堪えるみたいに、その拳は震えている。




「裁判になったら、子供達の未来は失われてしまう……!」




 柳瀬は背中を丸めて、頭を抱えた。

 翔太には、掛ける言葉が見付けられなかった。この人はイジメを知っていた。だが、声を上げられなかった。用務員と言う透明人間だったからだ。


 侑は椅子に片足を突いて、唸るように言った。




「死んだ子供の未来は、もう失くなっちまったんだぞ」




 エメラルドの瞳が、まるで灯火のように揺れている。

 俺達は殺し屋だ。人の命を金に替えて、それで生きてる。だけど、人の死を望んでいる訳じゃない。


 命は尊いものだ。そんなことは知ってる。だけど、それでも誰かが手を汚さなければならない現実がある。




「柊木愛梨の命の落とし前は、誰が付けてくれるんだ?」




 命は命でしか償えない。

 それは、侑の中にあるイデオロギーだった。


 全てがそうだとは思わない。人は更生出来る。だけど、この世には救い難い悪人もいる。このままじゃ、あいつ等はクラスメイトの死の責任も取らず、同じ過ちを繰り返す。


 誰かが、歯止めを掛けなければ。




「証言して下さい、柳瀬さん。それは、貴方にしか出来ないんだ。貴方が本当に子供達の未来を思うのなら、このままにしちゃいけない……」




 イジメと言う陰湿な問題は、社会の其処此処に芽吹いている。それを完全に失くすことは難しいと思う。だが、止めることは出来る筈だ。そうじゃなきゃ、教育とは何の為にあると言うのか。


 柳瀬の掠れた嗚咽が、室内に響き渡る。

 室内の湿度はカラカラに乾いている筈なのに、結露が発生しそうに湿っぽい。翔太は鼻を啜った。













 5.誰が駒鳥殺したの

 ⑺冠履転倒かんりてんとう












 午後の授業は、サボった。


 三人でエンジェル・リードの事務所に戻り、湊は依頼人に提出する資料を纏めていた。柊木愛梨の遺品、其処に残された筆跡と犯人、湊が受けた仕打ち、教師の言葉。湊は全てを事細かに記録へ残していた。


 湊は平然としていたが、柊木愛梨は自殺した。それは人一人を死に追い込む程の濃厚な悪意だった。


 孤立、陰湿な嫌がらせ、器物破損、そして、――暴力。


 あのクラスメイト達が行った陰湿で過激なイジメは、泣き叫ぶ柊木愛梨の姿と共に映像に収められていた。湊は、クラスメイトの携帯電話から抜き取った凄惨なイジメの風景を黙って見続けていた。


 彼等は、まるで武勇伝のように彼女へのイジメを語った。

 次は何をする? 何をしたら学校に来なくなる?

 どうしたら、死ぬと思う?

 それは、寒気がする程に無邪気で、濃密に渦巻く悪意だった。


 エスカレートしたイジメは、柊木愛梨と言う一人の少女に向かい、人の尊厳を踏み躙る程に悪化し、最期は命さえ奪った。きっと、何もしなければ、その悪意は湊にも降り注いだ。


 自殺した少女の無念を思う。どんなに辛く、苦しかったことだろう。助けを求める先も無く、未来を諦め、両親に謝罪だけを残してこの世を去った17歳の少女。


 生きていれば、彼女はどんな大人になったのだろう。どんな未来が待っていたのだろう。どんなに願っても、人は生き返らない。


 湊が資料を纏め終えたのは、午後四時を過ぎた頃だった。

 今頃、学校では自分の大学に連絡をしているのだろうか。残念ながら、それは全て偽物で、斎藤敬という人間はもう存在しない。




「あいつ等、更生出来ると思うか?」




 翔太が訊くと、湊は目を瞬いた。




「どうかな。あの人達は、あの遣り方で邪魔者を追い出したと思ってる。だから、俺にも同じことをした。成功体験って言うのは、脳に深く刻まれるからね。更生したように見えても、また同じことを繰り返すだろう」

「……どうすりゃ止まる?」

「裁くことだ。あいつ等の成功体験を、根本から叩き折ってやらなきゃいけない」

「裁判で、それは叶うのか?」

「どうだろうね。この国の司法は生温いから」

「……」




 世の中には、司法では裁けない悪人がいる。そいつ等は他人の大切なものを平気で奪い、今も暢気に笑っている。火の届かない対岸で、もっと燃えろと煽っている。


 俺達の仕事は、そんな世界の報いの一つだ。

 翔太が目を伏せると、湊が柔らかな声で言った。




「翔太は、優し過ぎるよ」




 湊は泣きそうな、悲しい顔をしていた。

 事あるごとに、湊はそう言う。だけど、俺は自分が優しいとは思わないし、非道だとも思う。優しいと言うのなら、湊の方だ。


 その時、侑がパソコンを覗き込んで言った。




「良い出来じゃん」




 侑は資料を楽しそうに眺め、頻りに湊を褒めている。

 彼等は依頼を受けて調査をした。後は依頼人に報告書を提出して、終わりだ。裁判のことまで面倒は見ないだろう。


 翔太は拳を握った。




「なあ、もしも……。もしも裁判で負けたら、どうなっちまうんだ?」




 司法は絶対じゃない。

 教師は社会的制裁を受けるかも知れない。では、生徒達はどうだ?


 クラスメイトが死んでも笑ってる、あの悪魔達はどうなるんだ。更生の余地がある未成年は法律で裁くことが難しい。だけど、それでは被害者の心を誰が救ってくれる?


 翔太が俯いた頭の上で、声がした。




「絶対に勝つよ」




 湊が断言した。

 何故、そんなに自信を持って言い切れる?

 翔太が見詰めると、湊は微笑んだ。




「明日は、一緒に学校を休もう?」




 そうしよう。

 湊はそう言って、またあの歌を口ずさんだ。

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