⑻一罰百戒

「Who killed Cock Robin? ..."I," said the Sparrow」




 木曜日の朝、閑静な住宅地に湊の歌声が静かに響く。

 ぞっとする程に美しく、伸びやかな歌声だった。それはまるで冬の日差しのように細く柔らかに降り注ぐ。




「"With my bow and arrow...I killed Cock Robin."」




 誰が駒鳥殺したの。

 湊と侑が時々口ずさんでいたマザーグース。


 住宅街に人気は無かった。湊の声は賛美歌のように厳かに続いて行く。翔太は、その歌をすっかり耳で覚えていた。


 誰が駒鳥殺したの?

 私だ、と雀が言った。

 私の矢と弓で、私が駒鳥を殺したのさ。


 歌全体は明るいテンポで進んで行くのに、歌詞は不穏で、まるで駒鳥の死を喜んでいるみたいに感じられた。

 歌を止めた湊が振り向く。濃褐色の瞳は透き通るような眼差しで、翔太を鏡のように映していた。


 住宅街を十五分程歩くと、他を圧倒するが如き豪邸が見えた。白い箱を積み重ねたような貫禄のある邸宅は、大きな塀に囲まれ、まるで精神病棟のような異質な空気を持っている。


 エンジェル・リードの依頼人、柊木隼雄。

 最高裁判所の裁判官である。


 インターホンを鳴らすと、まるで骨と皮みたいな夫人が暗い顔を覗かせた。一人娘を喪ったばかりの母親は、悲しみのどん底にいた。シンプルなツーピースは喪服のように真っ黒で、薄暗い室内に溶け込む影のようだった。


 侑が自己紹介をすると、夫人は無表情で室内に促した。魂を無くした死骸のようだった。彼女は未だに娘の死に囚われ、自責の念に駆られている。


 屋敷は広いのに、使用人の一人もいない。線香の匂いが漂っている。三人は夫人に促され、応接間に座った。壁一面は本棚で、司法書と判例集で埋まっている。黒い革張りのソファは、まるで死体のように固かった。


 五分と立たない内に、柊木隼雄氏はやって来た。

 平日の朝から真っ黒なスーツを着て、これから葬式でも行くのだろうか。湊と侑が立ち上がって会釈をしたので、翔太もそれに倣った。


 柊木愛梨が自殺したのは、先月の十二月半ばのことだった。愛梨は芯の強い正義感に溢れた娘で、間違ったことや困っている人を放って置けない子だった。柊木隼雄氏は、クラスにイジメがあることを娘の口から聞いていたと言う。けれど、娘はそれを糾弾し、収束させた。――だから、まさか娘が次のターゲットになってしまっていただなんて、思いもしなかった。


 家では笑顔を絶やさず、真面目に勉強し、家事の手伝いを進んで行った。父親を労り、母親と一緒に夕飯を作り、休日には趣味のピアノを弾いて聞かせた。


 けれど、その穏やかな日常は突然崩れ去った。

 いつも早寝早起きの娘が中々起きて来ないので母親が心配して、自室を訪れた。其処には、変わり果てた娘の姿があった。


 勉強机の上に、便箋に手書きの遺書が残されていた。

 お父さん、お母さん、ごめんね。


 棚に収められた参考書や、鞄の中にあった傷だらけの上履き。愛梨は両親に心配を掛けたくないが為に沈黙して堪え続け、最後には自ら命を絶った。


 依頼人は裁判官だ。――だが、彼等は身内の裁判には参加出来ない。警察は自殺だと断定し、学校側はイジメは無かったと訴える。子供同士の喧嘩、いき過ぎたイタズラ、彼女にも非はあった、と。




「あのクラスに、イジメはありましたか?」




 柊木氏は、感情を押し殺したような低い声で言った。膝の上に握った拳が震え、骨の形が浮き出している。この人は制御の出来る立派な人だと、翔太は思った。


 湊は柊木氏の顔をじっと見据え、断言した。




「あのクラスには、イジメがあります。俺達はその証拠と証人を確保しています」

「そうか……」




 柊木氏は俯いた。

 力無い返事とは裏腹に、彼の体から言いようのない怒りが迸り出るのを感じた。




「証拠と言うのは、何だ?」

「携帯電話の動画です。あのクラスメイトは、愛梨さんを撮影していました。今、お見せすることも出来ますが」

「いや、後にしよう。……今は、冷静に見られる自信が無い」




 分かりました、と湊はパソコンを鞄に入れた。

 代わりにシンプルなUSBメモリを取り出して、机の上に置いた。




「此処には、愛梨さんの受けて来たイジメの記録が残っています。……それから、俺の体験記録もね」




 湊は苦笑した。柊木氏が同情的な目を向ける。

 娘の為に潜入調査した青年が、娘と同じ仕打ちを受けた。湊は生きているが、娘は死んでいる。父親の怒りは何処へ向かうのか。


 裁判で勝ったとしても、裁きは平等ではない。

 槍玉に挙げられるのは、学校という組織だ。娘は自殺するまで追い詰められたのに、加害者は軽微な罪で済まされて、笑いながら生きて行く。


 柊木氏は、深く項垂れていた。




「……娘の体にね、傷があったんですよ。青痣や切り傷、それから、……」




 ぽたぽたと、柊木氏の目から透明な滴が落ちる。


 柊木愛梨の受けて来たイジメがどんなものであったのか、翔太も映像を見た。それは人間の尊厳を踏み躙る、非道なものだった。携帯電話の写真には、少女の泣き顔や裸、陵辱される様が克明に残されていた。




「……あいつ等は、悪魔だ。娘は、あいつ等の玩具にされた……!」

「酷ェ……!」




 余りの惨さに、翔太は悔し涙が溢れそうだった。


 こんなのは人間のすることじゃない。

 下品で、卑劣で、外道だ。そんな地獄の中で、17歳の少女は助けを求めることも、逃げ出すことも出来なかった。――脅されていたからだ。


 この人は、どうするだろう。

 野放しになったあの悪魔達を、どんな目で見るだろう。


 もしも、俺なら。

 翔太は思った。


 俺なら、自分の手で殺す。家族の無念は自分で晴らす。例え復讐が不毛で何を生み出さないとしても、誰かが裁いてくれなければ、被害者の魂を誰が救ってくれると言うのか。


 柊木氏の目には、炎がある。

 それは司法の裁きなんて生温い方法では消し止めることの出来ない深い怨嗟の炎だ。彼が刃を握って加害者を殺害したとしても、翔太はそれを責められないと思った。




「君なら、どうする……?」




 柊木氏が、縋るみたいに問い掛けた。

 仄暗い水底で、狂気の炎が踊っている。湊は静かにゆっくりと、発音を確かめるみたいに言った。




「あいつ等は法律によって裁かれ、法律によって守られる。法律は秩序を守る為のルールだ。復讐の道具ではない。……だけど、俺達はそのルールの外に生きている」




 空気という名の群衆心理の怪物。

 それは目に見えないのに、恰も君臨者のように社会の中に息衝いている。


 湊は落ち着き払って、けれどはっきりと言った。




「あいつ等は、俺にとっては何の価値も無い、路傍の石ころだった。だけど、俺が貴方の立場ならば絶対に許さない」

「……復讐すると言うのか? それが一体、何になる……。娘はもう、帰って来ない……!」




 酸素を失ってしまったかのような真っ赤な顔で黙り込み、両膝を握った。一人娘を奪われた父親の怨嗟が、激怒が湯気のように立ち昇る。けれど、柊木氏は司法の番人で、この国の碩学の一人だ。復讐を肯定しては、司法はお終いだ。


 湊は台本を読み上げるかのように淀みなく、言った。




つまずいた小石を蹴ることが復讐ならば、それでも良い。俺はその小石を拾ってドブに捨てることも出来るし、無視して置いて行くことも出来る」




 貫くような鋭さで、湊が言った。




「赦しも復讐もただのエゴだ。其処に貴賎なんてものは無いし、どちらを選んでも傷と痛みを伴う。人が死ぬというのは、そういうことなんだ」




 湊は鞄から、何枚もの写真を取り出した。

 柊木愛梨じゃない。それは、湊自身が受けた怪物の噛み跡だった。破かれ落書きされた教科書、ゴミ箱に捨てられた上履き、荒らされた机、悪意のメッセージ。




「……でも、貴方は俺じゃない。貴方は自分で選べば良い」




 湊はトランプでも扱うみたいにして、写真を並べた。




「どうぞ、お好きな地獄を」




 学校側は、イジメは無かったと主張している。

 だが、提示された証拠の数々がそれを否定する。


 イジメは、あった。

 柊木愛梨は殺された。




「エンジェル・リードの調査報告は、以上です」




 湊は、深く頭を下げた。












 5.誰が駒鳥殺したの

 ⑻一罰百戒いちばつひゃっかい












「線香をあげてぇんだが」




 帰り際、躊躇うみたいに侑が言った。

 喫煙を求める時と同じ言い方だった。柊木氏は夫人に声を掛け、三人は促されてリビングに向かった。

 広々としたリビングは整然と片付いており、線香の匂いが染み付いている。窓辺に大きな仏壇があり、柊木愛梨の遺影が立てられていた。


 柊木愛梨は遺影の中で、明瞭学園の制服を着て笑っていた。大きな目は意志が強そうで、幸せに満ち溢れた輝くような笑顔を浮かべている。


 侑は慣れた動作で線香に火を点けると、静かに手を合わせた。翔太もそれに倣って手を合わせたが、湊はリビングをぐるりと見渡していた。


 翔太が咎めると、湊が申し訳無さそうに言った。




「宗教上の理由で手を合わせることが出来ません」




 嘘吐け!

 翔太はその言葉をぐっと飲み込んだ。




「愛梨さんのお部屋を見ることは出来ますか?」




 故人に手も合わせず、湊が図々しく強請る。夫人は少し躊躇ったようだったが、根負けしたのか案内してくれた。

 愛梨の部屋は二階の奥にあった。屋敷全体が薄暗く、線香の匂いに包まれている。階段を上がる度にぎしぎしと床板が軋み、まるで誰かが泣いているみたいだった。


 扉には、手作りのネームプレートが掛けられていた。

 丸みを帯びたアルファベットと、ピンク色の兎がポーズを決めている。夫人に促され、湊がドアノブに手を伸ばす。その瞬間、まるで静電気でも走ったみたいに手を止めた。




「どうした?」

「いや……」




 湊は答えなかった。その代わり、ドアの前に立っているように翔太に言付けた。故人とは言え、未成年の娘の部屋に男が入るのは複雑だろう。夫人は遠慮しないで、と言ってくれたが、翔太は断った。


 大きな窓には薄ピンクのカーテンが掛けられている。壁際には本棚、勉強机、ピアノ。一日のスケジュールが円盤状に記されていた。


 湊は少女が首を吊ったという天井を眺めてから、窓の向こうを覗いていた。傍目に見る限りでは気になるものもないが、湊は違うのだろうか。


 窓から離れた湊は、今度は壁を見詰めた。何も無い所を見詰める猫みたいだ。だが、その視線の先には、一枚の油絵が飾られていた。


 黒い海面に燃え盛る炎が映っている。翔太には絵画の良し悪しは分からないが、それは一度見たら忘れられないような気味の悪さを持っている。




「主人が、その絵をお持ち下さいと言っておりました」




 夫人が言った。湊は白々しく笑って、礼を言った。


 湊が額縁ごと絵画を外していると、後ろから足音が聞こえた。侑が立っていた。エメラルドの瞳が、部屋の中の湊と扉を順に見詰める。




「……帰るぞ」




 侑が声を掛けると、湊が素直に部屋から出た。

 夫人に礼を言い、三人で帰路を辿った。エンジェル・リードの目的は果たされた。翔太の役目も終わっている。湊と侑は絵画を取り戻し、依頼人は必要な証拠を手に入れた。


 全部、終わった筈だ。

 俺達に出来ることは、もう、何も無い。


 侑は絵画を抱えていた。

 エンジェル・リードの投資していた若い芸術家、来栖凪沙の油絵だ。彼女はもうこの世にはいない。翔太が殺した。




「子供が死ぬのは、遣り切れねぇな」




 ぽつりと、侑が言った。

 侑は溜息を飲み込んで、絵を抱え直した。いつもは定規でも入ってるみたいな背筋も、何処か丸まって見える。湊ばかりが普段と変わらず、真っ直ぐに歩き続けていた。




「これで、良いのか」




 翔太が訊ねると、湊は目を眇めた。




「罪を裁くのは法だ。誰も復讐なんて望んでない」

「分かってるよ。……ただ、俺が遣り切れないだけだ」




 湊は何も言わなかった。

 俺達は人を殺す仕事をしている。

 復讐屋でも、正義の味方でもない。


 俺達はもう関係者じゃないんだ。被害者を救うことも、加害者を罰することも、ましてや人を裁くことなんて出来やしない。


 侑が、うんざりしたみたいに呟いた。




「明日、爺さんに挨拶して来る」




 侑は結構、律儀な性格だ。きっとその時には、裏庭の墓に供える花も持って行くのだろう。湊は何かを考えるみたいに黙り込んで、言った。




「俺も行く」

「あのクソガキ共にお別れの挨拶でもすんのか?」

「そうだね」




 湊が言った。




「エンジェル・リードの調査は終わった。……だから、此処から先は俺の個人的な憂さ晴らしだ」

「憂さ晴らし?」




 翔太が復唱すると、湊が微笑んだ。




「俺はね、あんな奴等は本当にどうでも良いんだ。道端に転がっている石ころを、わざわざ蹴りに行くなんて馬鹿らしいでしょう。だけど、誰かが転ぶかも知れないと分かっていたら、それを退けるくらいの良識はある」

「良識の話なのかよ」

「そうだよ」




 湊の声は穏やかに凪いでいた。

 頭に血が上っている訳では無さそうだ。

 翔太は腰に手を当てて、問い掛けた。




「何をするつもりなんだ?」

「あいつ等に教えてやるのさ」




 パチンと、湊は指を鳴らした。

 まるで魔法が掛かったみたいに、目の前の青年がきらきらと輝いて見える。翔太は目を擦った。しかし、その存在感は燦然と輝き、惑星のように視線を惹き付ける。


 湊は携帯電話を取り出して、片手でするすると操作している。侑は逡巡するように見詰めて、溜息を吐いた。

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