⑼以毒制毒
人間は孤独の生き物だ。
社会という群れを作り、其処に所属することで居場所を守りながらも、心の何処かに孤独を抱え、いつも誰かと繋がりたいと願っている。その反面で他人を恐れ、排除し、自分の立場を確認する。
インターネットは海のように世界中に繋がっているが、人は魚のように群れで泳ぐことは出来ない。人々は海を泳いでいるつもりで、海流に流されているだけだ。
餌が撒かれると、人々は鯉のように一斉に集まって食い散らかす。他人の生活を詮索し、干渉し、下衆な勘繰りをしてはデマを吹聴し、やがて情報は恰も真実のように横行する。
一度拡散された情報は、完全に削除することが難しい。
半永久的に残るデジタルタトゥー。
それは現代の呪いの一種である。
「俺は昔、やらかしたことがあってね」
パソコンを眺めながら、湊が言った。
エンジェル・リードの事務所で、翔太は湊の後姿を見ていた。日差しは既に傾き、あと三十分も経てば夜になるだろう。事務室には暖房の風が轟々と鳴り響く。
侑は一人掛けの椅子に座って、銃の手入れをしている。
その銃の出番が無いことを祈りながら、翔太は湊を見詰めた。湊はキーボードを叩きながら、無味乾燥な顔をしている。
「それをインターネットに流されて、今も何処かで複製され続けてる」
濃褐色の瞳にブルーライトが反射し、まるで水槽を眺めているみたいだった。
数年前、湊は或る犯罪組織と遣り合った。拉致され、暴行され、恫喝され、その姿を撮影した動画がインターネットに拡散したのだ。
犯罪者に殴られ、脅されながらも湊は果敢に立ち向かった。だが、この世界には湊のような子供が暴力を受けて苦しむ姿に興奮する変態が沢山いて、その動画はチャイルドポルノやスナッフビデオと同じように裏社会のド変態共の餌になっている。
それもまた、完全に消し去ることが出来ない。
今もまた何処かで拡散している。
湊は真顔で言った。
「俺は別に気にならないけど、表社会の人はそうじゃないでしょう?」
パソコンに映っているのは、あのクラスに関わる人間の記録だった。彼等が湊に何を言ったのか、何をしたのか。また、柊木愛梨がどうして死んだのか、其処に何があったのか。
詳細な記録は文字だけではなく、写真や動画にも残されていた。
湊は棚に置いていた小さな機材を取り出した。
人差し指くらいの黒い機材には、レンズとマイクが付いている。翔太にも、それが何なのか分かる。
「ネクタイの結び目に仕込んでいたんだ。あいつ等の顔も声も入ってる。俺の声は加工するけど」
湊が吐き捨てるみたいに笑った。
動画の編集をする湊の後ろから、侑が覗き込む。レンズに映る子供達の歪んだ笑顔や嘲笑、教師の冷たい言葉や眼差しが其処には克明に刻まれていた。
侑の目付きが鋭くなって行く。今にも銃を取り出しそうな物騒な空気を漂わせながら、侑は静かにその映像を見ていた。湊はさり気なく様子を窺って、穏やかに言った。
「情報は武器にも、凶器にもなる。あいつ等が玩具だと思っていたそれがどれだけ恐ろしいものだったのか、教えてあげよう」
あのクラスの生徒達は、自殺した少女のイジメを動画に撮っていた。それを脅しの材料にして、自分達の退屈凌ぎの玩具にした。
目には目を、歯には歯を、情報には情報を。
奴等は手を出した相手が何だったのか、分かっていなかった。集団になることで自分達を強者だと思い込んでいたのだ。それは先日殲滅した殺し屋ギルド、スネークと同様だった。
湊は動画の編集を終えると、データを保存した。
「準備は終わった。あとは幕を下ろすだけだ」
仕上げは、あの動物園で。
湊が言った。
5.誰が駒鳥殺したの
⑼
金曜日の朝は、春のような晴天だった。
磨き込まれた鏡のような青空に、金色の太陽が光っている。厚手の上着はいらないだろう。翔太は薄手のコートを羽織って、明瞭学園の校門に向かった。
登校時間は過ぎており、門は硬く閉ざされている。インターホンでも押そうかと思った時、街の向こうからバイクの排気音が聞こえた。殆ど同時に、校舎の向こうから用務員の柳瀬が歩いて来るのが見えた。
バイクの後部座席には湊が座っている。ダウンコートにネックウォーマーを付けて、もこもこに着膨れていた。
その手には黄色い菊の花が握られていた。湊が降りると、フルフェイスのヘルメットを脱いだ侑が校門の前にバイクを停めた。校門の向こうで柳瀬が鍵を開ける。かちゃんと、まるで手錠のような音が鳴った。
柳瀬は校門を開けて、一人分くらいの隙間を作った。お邪魔します、と湊が会釈する。校門の端に監視カメラがあるが、事前に湊がハッキングしている。自分達の存在は、人の記憶にしか残らない。
侑は湊から供花を受け取ると、口を尖らせた。
「爺さん、これ」
やるよ、と侑が言った。
「あの墓に供えてやってくれ」
侑は、多くを語らない。
柳瀬もまた、何も言わずに受け取った。
自分達は調査の為に此処へ来た。この学校の人間と交流する必要は無かったし、関係性も構築して来なかった。けれど、侑はきっと、違ったのだろう。
「俺達はこれから、良くないことをする。それは爺さんが大事にして来たガキ共から未来を奪うことになるかも知れない」
「……」
「でも、俺達はそれをやる。子供の失敗を許し、見守ることも必要だろうが、叱ってやることも大人の仕事だと思うから」
「若造が、偉そうなことを言いおって」
柳瀬が力無く笑った。
「じゃあな、爺さん。楽しかったぜ」
柳瀬の肩を叩き、侑が歩き出した。
西棟の玄関から校舎内に入り、職員室を迂回して二年一組の教室を目指す。どんな魔法を使ったのか、誰とも出会さなかった。
教室ではホームルームが行われていた。
担任の清水が教壇の上でアナウンサーのように一方的に喋り、生徒達は虚な眼差しをしている。湊がいた席は伽藍堂で、誰も見向きしない。
彼等は吉田悟と言う架空の人間をターゲットにしたが、存在しない人間を攻撃することは出来ない。以前、湊はこのクラスを指して動物園だと言った。彼等は教室という檻で権力闘争に忙しない猿と同じだった。
湊の無関心の意味が、その時になって分かった。
この檻の中に価値のある人間はいない。復讐の為に手を汚す価値すら無い。俺達が此処を訪れたのは、ただの憂さ晴らしだった。
湊が教室の扉を開け放った瞬間、幾つもの視線が一斉に振り向いた。清水の話が途中で遮られ、誰も口を開かない無音の時間があった。緊張と高揚が肌の上を撫でる。湊は凛と背筋を伸ばし、清水へと微笑んだ。
「ご挨拶に参りました」
柔らかな物言いに反して、その眼光は研ぎ澄まされた刃のように鋭い。
「其処を退いて頂けますか?」
湊は教壇を指して、小首を捻った。
清水の表情に困惑と怒りが走る。その瞬間、ドスの効いた低い声が後ろから飛んで来た。
「退けって言ってんのが、聞こえねぇのか」
恫喝するように、侑が教室の扉を叩く。翔太は咄嗟に廊下を見遣った。他のクラスの教師や生徒がやって来たら面倒だと思った。
清水が喚き、生徒達がざわめく寸前、湊は颯爽と教壇に上がった。ぱっと、スポットライトが当てられたような気がした。
「君達に見せたいものがあるんだ」
湊はそう言って、鞄からあのカメラを取り出した。
生徒達が騒めき、視線を向ける。野次を飛ばす余地が無い。湊は教卓にパソコンを開きながら、滔々と話し始めた。
「俺はフィールドワークが好きでね、特に生態調査をする時は念入りに準備をするんだ。人間は嘘を吐き、誤魔化し、都合良く記憶を
ノートパソコンの画面いっぱいに映し出されたのは、湊が見て来た生徒達の姿だった。新しいものに媚び諂い、気に入らなければ排除する。幼稚で陰湿で残酷な剥き出しの悪意が其処此処から溢れている。
此処からはドブの臭いがする。
以前、侑が言っていた。今なら、分かる。
此処は腐った風の吹き溜まりだ。
「君達は、悪戯のつもりだったんだよね。弄ってやってる、揶揄ってやってる、仲間に入れてやってる。ずっとそう思っていて、みんながやってるから良いと思っていたんだよね?」
破かれた教科書、隠された上履き、荒らされた机、投げ付けられた悪意。誰かがターゲットになっている間は、自分は安全でいられる。攻撃している間は強気でいられる。此処は日和見主義者の苗床だった。
「でもね、君達のやったことには名前が付いて、代償が発生するんだ」
「……嘘だろ、俺達未成年じゃん」
生徒の誰かが言った。
その呟きが波及して、生温い安堵の息が零れ落ちる。
湊はにっこりと笑った。
「君達の言う未成年は二十歳未満のことだね。だけど、罰を逃れられるのは、刑法上では十四歳未満の子供だ。君達は違う」
「ふざけんな! こんなことで逮捕される筈無ぇ!」
「逮捕が嫌なら慰謝料を払ってもらう。君達のお財布では話にならないから、お父さんかお母さんに出て来てもらわないと」
家族を引き合いに出された途端、何人かの女子生徒が怯えたように喉を
自分は何もしてない、見ていただけだ、本当は嫌だった。
そんな退屈な言い訳が、まるで正論のように罷り通る。汚くて汚くて、反吐が出そうだった。
生徒達の自己憐憫と責任転嫁を、湊が叩っ斬った。
「弁解も謝罪もいらない。要求があるなら、相応の対価を払え」
余りに一方的なので、翔太はどっちが悪者なのか分からなくなってしまった。湊は相変わらず涼しい顔をして、支配者のように教室を見下ろしている。
「俺は赦しというものを知っているけど、報復することも知っている。君達は、罪には罰が下ることを身を以って知るべきだ」
湊はパソコンを操作すると、無数のSNSを開いた。
世界中に繋がる情報の坩堝。真偽不明の情報が横行し、顔の見えない誰かが獲物を探して常に監視している。
「さあ、清算の時間だ。自分の罪を数えるが良いさ」
湊はキーボードを叩いた。途端、まるで伝染病のように情報が拡散し、下世話な人間がピラニアのように食い付く。その映像は絶え間無く閲覧され、複製され、いつまでもネット上に残り続ける。
「ふざけんな!!」
生徒の一人が声を上げた。机を蹴り飛ばし、教壇の湊へ手を伸ばす。そして、次の瞬間、そいつは教室の後ろまで吹っ飛んで行った。
壁が壊れるような物凄い音に反して、教室内は異様な静けさに包まれる。何処かで唾を飲み下す音がした。教室の後ろでは、体格の良い男子生徒が鼻血を流して倒れている。
死んでないと良いけれど、と翔太は思った。
湊は眉一つ動かさない。
「君達のやったことが何なのかは、社会が教えてくれるよ」
パソコンのディスプレイには、世界中からのメッセージが届いている。彼等は口を揃えてこう言うのだ。――これはイジメだ、処罰しろと。
一度発信した情報は削除することが出来ない。拡散を止めることは容易ではないのだ。それこそが、デジタルタトゥーと呼ばれる呪いである。
メッセージの中には個人を特定しようとする動きが現れる。学校名、所在地、生徒や教師の個人名、写真。そして、彼等は行き着くのだ。此処は、柊木愛梨という少女が自殺した高校だと。
まるで、燃え盛る炎を見ているみたいだった。
湊自身が何もしなくても、誰かが勝手に油を注ぎ、周囲を巻き込んで燃え広がって行く。こうなってしまっては、誰にも、湊にも消し止めることは出来ない。
あっという間に個人名と写真が掲示され、晒される。
「みんなが言うには、これはイジメらしいね」
誰も何も言わなかった。
教室の彼方此方で携帯電話が鳴った。インターネットでの情報拡散は、個人の元にも波及する。そして、それはやがて、彼等の家族や友人さえも餌にするだろう。
「君達の名誉は、地の底に落ちたね。進学や就職、結婚。人生の凡ゆる場所でこの傷が付いて回るだろう」
湊は舞台演者のように高らかと言った。
「君達の人生に意味をあげよう。君達はこれから、罪の意識に苛まれながら後悔し、絶望して生きて行くんだ。――弱い者イジメは好きだろう?」
痛い程の沈黙を、清水の金切り声が引き裂いた。
「どうしてこんなに酷いことが出来るの?! 貴方に良心は無いの?!」
「……どの口が言うんだ」
侑が吐き捨てた。
清水は一瞬口籠ったが、ヒステリーを起こしたみたいに叫んだ。
「こんな遣り方は間違ってる! 話し合うべきだわ!」
「柊木愛梨さんにも、そう言えますか」
清水が緘黙する。
その表情で、翔太も理解した。この人は、知っていたのだ。このクラスで何が起きていて、誰がターゲットになっていたのか。
諦念が胸の中に広がる。
こんな場所にいたら肺が腐ってしまう。
湊はパソコンを閉じた。
「赦しというものは、償うべき相手がいなければ成り立たない。そのことをせいぜい、後悔すれば良いさ」
Have a good one, underdogs!
コミカルに手を振って、湊が教室を出て行く。踊るような足取りで、振り返る素振りも無い。侑は挨拶もせずに出て行った。
ああ、無駄な時間だったな。
翔太は教室を出て、そんなことを思った。
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