⑹雄材大略
多分それは、小さな
取るに足らない僅かな綻び。それは蟻が壁に穴を開けるように、金属が錆びるように、少しずつだが確かに、何かを侵食して行った。
翔太がそれに気付いたのは、翌週の月曜日だった。
教育実習生として最後の一週間。給料も出ないのに毎日のように残業し、年下の生徒からタメ口で話し掛けられ、雑用係みたいにこき使われて、ヘトヘトになったまま迎えた月曜日の朝だった。
朝のホームルームで、湊が上履きを履いていなかったのだ。
真冬の廊下を靴下一枚で、酷く不機嫌そうな顔をしていた。先週までは教室で友達に囲まれていたのに、今朝は誰も話し掛けず、近付かない。
担任は、気付いていないみたいだった。
得体の知れない緊張感みたいなものが教室を包んでいる。ホームルーム中、湊はずっと窓の外を眺めていて、翔太とは一度も目が合わなかった。
ホームルームが終わった後、湊が教室を出て行った。生徒達が何かを囁き合っている。嫌な、とても嫌な空気だった。
教室を出て行った湊を追い掛けると、西棟の用務員室に向かっているようだった。呼び止めると湊が明るい顔で振り向いて、柔らかに微笑んだ。
「上履き、どうしたんだ」
「無かったんだ」
「なんで」
「知らないよ。先生にスリッパを貸してって言ったら、校則違反だからダメなんだってさ」
なんだよ、それ。
翔太は困惑した。リノリウムの床は、靴を履いていても冷たかった。こんな場所で裸足で過ごしたら、凍傷になってしまう。
湊は、侑に代用品を借りるつもりらしかった。
裸足でいるよりは、ずっと良い。
用務員室に行くと、何人かの女子生徒が集まっていた。侑のファンらしい。学校では余り見掛けないタイプの男なので、新鮮に映るのだろう。
侑は面倒臭そうに対応していたが、湊がやって来たことに気付くと女子生徒を追い払った。
「靴、どうしたんだ?」
「失くしちゃった」
「……」
侑も何かに勘付いたようだった。
エメラルドの瞳に冷たい光が宿る。彼は、湊が傷の一つでも作ったら、サブマシンガンで暴れてやると豪語していた。この状況をどのように捉えたのか、訊くのも怖かった。
部屋の奥から視線を感じた。用務員の爺さんが、何かを堪えるみたいに見詰めている。侑は湊の頭をさらりと撫でて、ぞっとするような低い声で言った。
「なあ、湊。お前のお許しが出たら、俺はいつでもそいつ等の喉笛を噛み千切ってやる。あの時に言った言葉は嘘じゃねぇぞ。……俺は待つのは得意じゃねぇからな?」
激励と言うよりも、恫喝だった。侑の目は微塵も笑っておらず、その言葉が嘘偽りの無い本心だと分かる。
湊は紙のようにへらりと笑っていた。
用務員室で真新しい上履きを貰って、湊は教室に向かって歩き出した。翔太はその横に並びながら、問い掛けずにはいられなかった。
「何があったんだ?」
「俺がアクセサリーにならないから、気に入らないのさ」
湊が鼻で笑った。
翔太は知らなかったが、湊はクラスメイトと昼休みにバスケをしていたらしい。その時にバスケ部に誘われて、断ったそうだ。編入生は部活動に所属するまで二週間の猶予期間がある。自分達は今週いっぱいで引き上げるつもりだったからだ。
土日に、遊びに誘われたこともあったらしい。
しかし、湊自身がエンジェル・リードと言う投資家で、今回の依頼で業務が滞っていたので断ったそうだ。
そういう小さな不信感が少しずつ積み重なって、今朝、上履きが隠されると言う幼稚な仕返しに行き着いた。真相は分からないが、湊はそう推察していた。
翔太は、不安だった。
湊が狂人のような精神力を持っていることは知っているが、此処は自分達のホームではない。武器を持っているなら立ち向かうが、相手は不特定多数の子供である。眉間に風穴を開けて解決する訳ではないのだ。
湊が上履きを履いて教室に戻ると、生徒達がまた囁き合った。目に見えない悪意と害意が、積乱雲のように膨らんで行く。湊は気にしないのだろう。だけど、見ていて気分の良いものではなかった。
翔太は現代文を専攻していることになっているが、時々、他の教科にも駆り出される。荷物運びであったり、機材の準備であったり、部屋の掃除であったり、殆ど便利な雑用係だった。
月曜日の昼前に、二年一組は体育の授業があった。
授業内容はテニスで、二人組でラリーを行うことになっていた。予想はしていたが、二人組を作ることになると湊がぽつんと取り残されてしまった。
体育教師の元に行って、自分が一人余ったことを報告する湊は、全くの真顔だった。何を考えているのか、この状況をどのように考えているのかも分からない。
見ていられなくて、翔太は体育教師に断りを入れて、湊とペアを組んだ。生徒達の視線が刃のように鋭くなるのが分かった。
湊と言う青年は基本的な能力値がとても高いので、大抵のことは人並み以上に出来る。テニスは初心者だと言っていたが、ミニゲームではテニス部のクラスメイトをあっさりと負かしてしまった。
数学の授業では、先週行った小テストが返却された。湊は満点だった。英語の授業では、教師の発音をさり気なく訂正した。本人の自覚しない小さな綻びが、まるで修復不可能な絶壁のように広がって行く。
湊に悪意が無いことは、分かる。――分かるが、留学生で秀才で、群れに入らない姿は反感を買うのだ。相手を立てることは出来るのに、媚びたり諂ったりは絶対にしないし、無意味に謝らない。
その綻びは、教室を伝播して、職員室まで広がった。
反抗的な態度、問題のある生徒、言うことを聞かない、家庭環境に問題がある。そういう意味不明なレッテルと憶測が行き交って、彼等は共通の敵を憎む一つの軍隊みたいに団結していた。
放課後、茜色に染まる教室に湊がいた。
どうやら掃除をしているらしいが、独りぼっちだった。クラスの掃除は当番制の筈だが、湊は貧乏籤を引く子供だった。
翔太が手伝ってやろうと声を掛けようとした時、女の子の声がした。
「昔、小学校でメダカを飼ってたの」
誰の声が思い出すのに、時間が掛かった。
教室の隅でいつも俯いている女の子だった。頭の出来はそれ程に悪くないが、自己主張が不得手らしく、成績は伸び悩んでいるらしい。
名前は確か、
「校庭に池にミジンコがいてね、昼休みに捕まえて、メダカにあげてた。……いつもの餌より、沢山食べたなぁ」
湊は無言だった。まるで聞こえていないみたいに、箒で床を掃いている。夕陽が窓の向こうで血のように光る。翔太は、声を掛けることを躊躇った。内田は、教壇からは決して見えない冷たい目をしていた。
「貴方は、あのミジンコに似てる」
ざわりと、鳥肌が立つ。
なんだ、何の話をしているんだ。どうして、湊は何も言わないんだ。
湊は埃を集めると、塵取りに載せてゴミ箱に捨てた。校庭からは部活動に励む生徒達の活気に満ちた声がする。教室だけが、切り取られた異世界のように静かだった。
火曜日、翔太は現代文の授業を任された。別に教員免許が欲しい訳ではないので、内容は湊が適当にそれらしく組み立ててくれた。普段の授業と変わりない内容だったが、生徒の一人が声を上げた。
「ねぇ、先生。なんか面白いことしてよ」
教科書の内容を板書している時だった。
翔太が振り返ると、生徒達が頬杖を突いたり、足を組んだり、目を伏せたりして嗤っているのが見えた。まるで、一つの巨大な生き物のようだった。
初めてこの教室を訪れた時のような異様な空気が、目の前に広がっている。怒りとも嫌悪とも付かない感情が頭の中を白く染める。生徒達が囃し立てる。そして、その時。
「君達は、何をしに学校へ来てるの?」
凛と、澄んだボーイソプラノが響き渡った。
「遊びたいなら、帰れば」
それが決定打であったことは、翔太にも分かった。
空気が張り詰めて行く。高い山の上にいるみたいに酸素が薄い。嫌な静寂に包まれる中、湊が「先生、続けて」と言った。翔太はそれ以上何も答えられず、台本通りに授業を続けた。
水曜日の朝、湊の机が引っ繰り返っていた。
中に入れていた教科書が破かれ、踏み躙られている。クラスメイトは遠巻きに囁き合ってるいるだけだった。
教室の後ろから、何かが飛んで来た。
白い紙切れみたいだった。それは湊の机に落下した。
消えろ、と。
端的に書かれていた。
頭にかっと血が上って、翔太は生徒の群れに向かって歩き出した。怒鳴ってやろうと思ったし、殴っても構わないと思った。だが、遮断機のように湊が腕を下ろした。
湊はとてもフラットな顔付きをしていた。怒りも嘆きも無い、まるで風に吹かれているかのような自然な笑顔を浮かべている。その手で紙切れを拾うと、投げ付けたクラスメイトの前に差し出した。
「返すよ」
紙切れが、雪のように音も無く落下する。
クラスメイトが嫌悪と苛立ちに顔を歪めるのを、湊がうっとりと見ている。
「君達は躾のなっていない動物だ」
地獄の底を見て来たかのような仄暗い目付きで、湊が言った。
「此処は動物園みたいだねぇ」
湊は美しく微笑むと、机を片付け始めた。
ホームルームが始まる前に、遅れて清水がやって来る。教室の雰囲気に驚いたみたいに目を丸めて、湊を睨んだ。彼女は、湊が犯人と決め付けているらしかった。
清水が教壇の上で金切り声を上げる。湊は相変わらず天使のように微笑んでいて、まるで諭すみたいに優しく言った。
「怒るだけなら、猿にも出来ますよ」
5.誰が駒鳥殺したの
⑹
「お前、やり過ぎ」
昼休み、西棟の裏庭。
翔太は弁当箱を抱えて、深く溜息を吐いた。今日の弁当は生姜焼きで、端には飾り切りした苺が入っていた。
湊も侑も、何のことと言わんばかりの顔で首を捻った。
侑は兎も角、湊のその反応はおかしいだろう。
「また何かあったか?」
侑が訊ねたので、翔太は湊が何も話していないことを悟った。この場で全て話すと、大事件が起こりそうだった。翔太が言葉を探している間に、湊が事の経緯を正直にそのまま話した。
侑は静かに聞いていたが、周囲の空気がどんどん重く冷えて行くのが分かった。破裂寸前の風船に紙鑢を掛けているみたいだ。侑は弁当を一旦横に置いて、頭を冷やすみたいに深呼吸をした。他人の為にそんな風に怒って、それを抑えられる侑は、翔太が思うよりずっと大人だった。
「ムカつくクソガキ共だな……」
怒りで声が震えていた。
侑が頭を抱えると、湊が初めて困ったみたいな顔をした。状況を俯瞰することは出来るのに、自分が他人からどのように見えるのか全く考えていないのだ。そういう所は、出会った頃からずっと変わらない。
「反省しろ、湊」
侑の大きな掌が湊の頭を撫でた。歳の離れた仲の良い兄弟を見ているみたいだった。
湊は生姜焼きの玉葱を摘みながら、思い出したみたいに言った。
「先生がね、根性が足りないって言うんだよ。俺は根性論が大嫌いだ」
「お前は根性あると思うけどな」
翔太が言うと、湊は玉葱を口の中に放り込んだ。彼が食べていると、どんなものでも美味そうに見える。
湊は口の中を空にすると、眉間に皺を寄せた。
「あいつ等の言う根性ってさ、沈黙して堪えることなんだ。つまんない奴等だよ」
「……大丈夫か?」
堪らなくなって、翔太は訊ねた。それが侑の導火線であると分かっていても、訊かずにはいられなかった。湊が一言でも助けてと言うのなら、何に替えても助けてやるし、何人殺しても構わないと思った。
だが、湊は笑った。
「何が? 俺は調査の為に来てるんだ。願ったり叶ったりの状況じゃないか」
湊は、楽しそうだった。
ずっと、そうだった。湊は彼等を相手にしていないし、眼中にも入れていない。この子供の根底にあるのは、他人に対する諦念と無関心だ。境界線の外側にいる人間は、動物園の猿くらいにしか見えていないのだろう。
そういえば、立花も言っていた。
湊は頭がいかれてる。お前が心配するようなことは、全く気にしていない。
正に、その通りだった。
翔太が笑うと、湊が覗き込んで来た。
濃褐色の瞳は、出会った頃と同じように澄み渡っている。
「ねぇ、翔太。俺は痛い時には痛いって言うし、我慢ならないことには抵抗する。助けて欲しい時には助けてって叫ぶよ。だから、大丈夫」
「……信じて良いんだな、湊」
「All right!」
湊が得意げに言って、胸を張った。
暗雲が霧散して、地平線の向こうから朝日が現れたみたいだった。翔太は深く深呼吸した。色褪せた世界が鮮やかに染め上げられるのが分かる。
湊は弁当を平らげると、立ち上がった。
「さて、そろそろ仕上げをしないとね」
何のことか全然分からない。侑が頷いて、弁当箱を片付けた。彼等は事前に打ち合わせをしていたのか。それとも、阿吽の呼吸なのか。
湊はブレザーの皺を払って、微笑んだ。
「俺達が此処に来たのは、柊木愛梨さんの自殺の真相を確かめることだった」
「ああ」
「学校で何があったのか、大体の検討は付いた。此処がどういう所で、どんな人間がいるのかもね。あと必要なのは、証拠と証人だ」
「……あいつ等が証言するとは思えないんだが」
クラスメイトが自殺していると言うのに、目先に釣られた餌に食い付いて、幼稚で陰湿な行為を繰り返すような奴等だ。大人達はそれを看過し、煽動する。
湊は楽しそうに言った。
「あいつ等は最後だよ。まずは馬を射る必要がある」
「何のことだ?」
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よって言うだろ?」
説明する気があるのか無いのか、よく分からない。
湊と侑が行ってしまいそうだったので、翔太は慌てて追い掛けた。
「午後の授業はどうするんだ?」
「出ない。もう用は無いからね。……翔太は出たい?」
早足に進みながら、湊が訊ねた。
「そんな訳ねぇだろ」
「だよね。じゃあ、一緒に行こう」
湊が笑った。
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