⑷春風駘蕩
学校は奇妙な空間だ。
社会に出ると有り得ないようなルールが平然と
翔太は教室の後ろに立って、退屈な授業風景を眺めていた。生徒達は真面目に板書を写し、教科書を読み上げ、教師の指示に従って軍隊みたいに集団で行動する。
外側から観察していると、生徒それぞれに性格や個性があり、人間関係があることが分かる。世間の流行、アイドルの話題、人気のアニメや塾で習った内容を情報交換しながら、互いの立ち位置を確認しているみたいだった。
現在の二年一組の話題は、今朝やって来た留学生一色だった。休み時間になると、角砂糖に群がる蟻みたいに湊の席に生徒が集まる。特に熱心に通っているのは三名の生徒だった。
一人目は、一発芸を強要した女子生徒。
名前は
二人目は、
背が高く筋肉質で、顔立ちのきりっとした男子生徒だった。湊に最初に質問をぶつけた生徒で、気怠そうな態度をしているが授業態度は真面目で、成績もそれなりに良いらしかった。
三人目は、
クラスのムードメーカーで、お調子者。深山の取り巻きであり、悪ノリもする。けれど、何処か憎めないマスコットみたいな生徒だった。
悪い子供達には、見えない。
湊の机の周りに集まって、あれこれと詮索する様は無礼だが、留学生というものがそれなりに珍しく、彼等の関心を引く存在だということは分かる。
湊自身は変人だが、根っからの悪人ではない。
窓辺の席で談笑している姿を見ていると、湊にもこんな未来があったんじゃないかと、彼の選べなかった選択肢に胸が苦しくなる。
午前中の授業を終えて、昼食の時間がやって来た。
明瞭学園には学生食堂があり、生徒達は食券を購入したり、持参した弁当を食べたりするらしい。食事の場所は厳密に指定されておらず、教室や中庭で食べる生徒もいた。
翔太も空腹を感じたので、学食に向かった。
渡り廊下を歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「斎藤先生、これからお昼ご飯ですか?」
担任の清水だった。
一緒に食べましょう、と有無を言わさぬ圧力で誘われて、翔太も二つ返事で受け入れた。他人と食事をすること自体には何も感じないが、昼休みの間に用務員として潜入している筈の侑の様子を見に行きたかった。
食堂には白い長机が整然と並べられ、腹を空かせた生徒達で賑わっていた。教員の姿もある。生徒と友達みたいに接する教師もいれば、誰も近付けない教師もいた。清水智子は比較的親しみ易い教師のようで、擦れ違う生徒から声を掛けられることもあった。
清水が弁当だと言うので、翔太は彼女を席に待たせて食券機に向かった。その時、食堂の入口から賑やかな声がした。目を向けると、二年一組の生徒達が塊になってやって来た所だった。いつの間に仲良くなったのか、湊は深山に肩を組まれて苦笑いをしている。
目が合ったが、互いに声は掛けなかった。
出来立てのラーメンを受け取って席に着くと、清水が手を合わせた。彼女の弁当は手作りらしかった。全体的に茶色っぽくて、冷凍食品みたいなおかずも見掛けられる。教師は忙しいと聞いたことがあるので、そのせいかも知れない。
「どうですか、うちのクラスは」
ウインナーを飲み込んで、清水が言った。
翔太は割り箸でラーメンを掻き混ぜながら、答えた。
「素直な良い子達ですね」
生意気なクソガキの一面もあるが、翔太から見る限りは問題のあるクラスとは思えなかった。クラスでイジメが起きて、自殺した生徒がいるとはとても思えないくらい、明るい。
清水は誇らしげに微笑んだ。
「あの子達は、少しやんちゃな所もありますが、決して悪い子ではありません。斎藤先生や留学生が溶け込めると良いのですが」
「……お気遣いありがとうございます」
礼を言いつつ、翔太はラーメンを啜った。深みのない醤油スープが喉の奥に落ちて行く。
留学生と呼ぶのが、少し気になった。
食堂の片隅で、どっと笑い声がした。目を向けると、やはりあの二年一組の生徒達だった。賑やかで楽しそうだ。――とても、クラスメイトが自殺したばかりとは思えない。
自殺した生徒についても訊いてみたかったが、切り出すのが難しかった。怪しまれて予防線を張られるのも厄介なので、翔太は他愛の無い話をして、早々に清水と別れた。
昼休みは残り三十分。
丁度良かったので、西校舎の隅にある用務員室を訪ねることにした。本校舎に比べると薄暗く、埃っぽい。教室のあるフロアは改築されたかのように綺麗なのに、其処だけは忘れ去られた物置みたいだった。
リノリウムの廊下に足音が反響する。途中、何人かの女子生徒と擦れ違った。上履きの色で学年が分かる。翔太とは全く面識の無い三年生らしかった。
用務員室は工具や掃除用具が雑多に置かれ、煙草の臭いがした。八畳程の空間に灰色の机が二つあり、一つは無人だった。
気難しそうな爺さんが机で書類仕事をしていた。用務員と言うものがどういう仕事をするのか知らないが、肉体労働なら、彼にはきつそうだ。
翔太が扉をノックすると、老眼鏡を掛けた男が険しい顔をした。
「何かありましたかね、先生」
「いえ……」
翔太が室内を見渡していると、何かを察したみたいに爺さんが言った。
「あの若造なら、裏庭ですよ。また何かやらかしましたか?」
「いや、そういう訳では。顔見知りに似てたので、ちょっと会ってみたかったんです」
するっと出任せが出て来たので、翔太は自分で驚いた。
爺さんは翔太の嘘を特に気にする風も無く、溜息を漏らした。
「すぐサボるんで、煙草吸ってたら、注意してやって下さいね」
「はあ……」
侑は一体、何をやっているんだろうか。
翔太は曖昧に返事をして、記憶を頼りに裏庭へ向かった。
5.誰が駒鳥殺したの
⑷
裏庭は西棟の裏にあった。砂利の敷き詰められた細道に雑草が生い茂り、常緑樹がトンネルのように空を覆っている。何処となく湿気っぽくて、陰鬱な雰囲気があった。
仄かにバニラのような甘い匂いがした。
何かを洗うような水の音もする。
翔太が歩み寄ると、見慣れた金髪の男が鼻歌混じりに長靴を洗っている。背後に立たれて気付かない男ではない筈だが、侑は機嫌良さそうに歌を口ずさみ、振り返る素振りも無かった。
「Who killed Cock Robin..."I," said the Sparrow...」
何となく聞き覚えのある歌だった。
ノスタルジーな英語の歌は、静かな裏庭に不気味に響いている。
「With my bow and arrow...I killed Cock Robin...」
「何の歌だっけ、それ」
翔太が訊ねると、侑が手を止めた。
用務員の制服なのか、深緑の汚れたツナギを着ている。アメリカの収容所にいる囚人みたいだった。侑は蛇口を閉めると、長靴の水を切って振り返った。
「Who Killed Cock Robin」
「クックロビン?」
「マザーグースだよ」
マザーグースは、イギリスの童謡みたいなものらしい。
侑は濡れた手をツナギで拭いて、ポケットから煙草を取り出した。玩具みたいな蛍光色の使い捨てライターが、小さな火を灯す。侑は煙草の先端を炙ると、旨そうに煙を吸い込んだ。
「煙草吸ってんの、久しぶりに見たよ」
「普段は吸ってねぇよ。未成年のガキがいるからな」
「意外な配慮だな」
「失礼だな」
紫煙を吐き出して、侑が笑った。
「クラスはどうだよ。先生は楽しいか?」
「楽しくねぇよ」
「世の中、楽しんだもん勝ちだぞ」
煙草を咥えて、侑がケタケタと笑う。
「湊はどうだ? 馴染んでるか?」
「人気者だよ。自己紹介で手品を披露してた」
「どんなの?」
「トランプが瞬間移動するヤツ」
「ああ、あれね」
侑は楽しそうだった。
翔太は侑の隣に座った。
「侑は今まで何してたんだ?」
「俺は使いっ走りだよ。用務員の頑固爺がさ、あれこれ命令して来るんだよ。草毟りしろとか、電球替えろとか、煙草吸うなとか」
「お前に命令出来るなんて大物だな」
「そうでもねぇよ。俺はずっとそういう人生だったからな」
侑は紫煙を燻らせて、何処か遠くをぼんやりと眺めていた。煙が細く棚引いて行く。
天神侑という男は、元国家公認の殺し屋である。
国家公認の殺し屋は、立ち位置としては超法規的措置であり、公安の切り札だ。しかし、裏社会では国家の犬と呼ばれ敬遠される存在だった。
国家からの指令を受けて、人を殺す。
社会が正常に回って行く為の歯車で、司法で裁けない悪人を殺す報いの一つ。其処に人格は必要ではなく、彼は機械のように生きて来た。
「じゃあ、今は?」
訊いてみたい。首輪を捨てた国家の犬が、今はどんな気持ちで生きているのか。天神侑という人間の本質を知りたい。
翔太が訊くと、侑は足で煙草を踏み消した。
「何だろうな……。俺はずっと走ってたんだなと、思ったよ。でも、今は歩いてる。そんな感じ」
「へえ……」
「歩いてると色んなものが分かる。足元に咲いてる花とか、雲の形とか、自分の呼吸とか、隣を歩いてる奴の顔とかな」
それは何となく、分かるような気がした。
自転車は走っていないと倒れてしまう。侑の今までの人生はそういうものだった。だけど、走らなくても生きて行くことは出来る。守り守られて、支え支えられる。そんな関係性が彼の中にあるのなら、それは何にも替え難いものではないだろうか。
「なあ、番犬。俺は学校がどういうものなのかよく知らねぇが、此処からは腐ったドブの臭いがする」
「どういう意味だ?」
「空気が淀んでんだよ。学校ってのは、何処もそうなのか?」
そんなこと、翔太にも分からない。
しかし、裏社会の住人の嗅覚というものは馬鹿に出来ない。
侑は濡れた長靴を持って立ち上がった。
「そういや、湊から伝言預かってたよ。テストの回答用紙があったら、写真撮って送ってくれってさ」
「カンニングじゃねぇか」
「違ぇよ。筆跡が見たいんだってさ」
ああ、なるほど。
自殺した少女の参考書に残っていた落書きと、見比べるのだろう。しかし、回答用紙を撮影するチャンスなんてそうあるものじゃない。
「あんまり期待しないで待っててくれって、伝えてくれ」
侑を仲介するのも何か理由があるのだろう。
翔太が言うと、侑が「承った」と笑った。金髪碧眼にすっと伸びた背筋が、まるで美しい絵画みたいだった。
天神侑は、不思議な魅力を持った男である。
汚れた裏社会に生きているのに、まるで夜目が利くみたいに進むべき道を見失わない。
翔太は、侑の亡くなった弟を知っている。
侑を見ていると、新がいないこの世界が余りにも悲しく映る。彼は弟を守る為に手を汚し、泥沼を這い回り、地獄の底でも進み続けた。
弟を失った時の侑は、どれ程、この世を恨んだだろう。己を責めただろう。翔太には、その胸中を推し量ることは出来ない。
ふと顔を上げると、裏庭の奥に石が立てられているのが見えた。黄色い花が置いてあった。雑草ではなく、花屋に売っているような一輪花である。
「あれ、なに?」
翔太が指を差すと、侑が目を遣った。
「ああ、墓だってさ。何の墓か知らねぇが、爺さんに触るなって言われてる」
「へえ。何の墓なんだろうな……」
萌える草木の奥に、ひっそりと息を殺すみたいにして建てられた墓標。何か動物でも飼っていたのだろうか。
侑は欠伸を噛み殺した。
「じゃあ、俺は仕事に戻るからな。湊のこと、頼んだぞ」
そう言って、侑は颯爽と去って行った。
時計を見ると、授業開始の十分前だった。翔太は慌てて本校舎まで走って戻った。途中、用務員室の前を通ったら、何人かの女子生徒がいた。どうやら、侑に用事があったらしいが、当の本人は鬱陶しそうに追い払っていた。
モテる奴は大変だな、と内心同情しつつ翔太は道を急いだ。
職員室に戻ると、清水が「遅いですよ」と言った。午後の現代文の授業を見学することになっている。
高校教師というのは、それぞれに専門分野があるらしい。
翔太が専攻しているのは現代文ということになっているらしかった。事前に教えて欲しかった情報である。
昼休みを終えた生徒達は、まるで腹を満たした肉食獣みたいに静かだった。机に突っ伏して微睡んでいる生徒もいる。
二年一組の教室の前を通ると、開け放たれた扉の向こうに湊が見えた。相変わらず、クラスメイトに囲まれている。
ずっとにこにこして、疲れないのだろうか。
そんなことが気になった。
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