⑵後顧之憂

 事務所は霧の中みたいな濃密な紫煙に包まれている。

 翔太が扉を開けると煙が一気に噴き出して、冬の澄んだ空気を瞬く間に汚して行った。両手を塞ぐ大荷物を抱え直すと、事務所の奥から不機嫌そうな低い声がした。




「寒いから早く閉めろ」

「そりゃ悪かったな」




 翔太は扉を蹴った。

 安っぽい扉が音を立てて閉じる。其処等中に染み付いた煙草の臭いが懐かしく感じた。


 事務所の奥では、スーツ姿の男がいた。

 机の上に足を乗せて、新聞を読みながら煙草を吹かしている。猛禽類のような金色の瞳は鋭く、愛想の欠片も無い仏頂面である。機嫌が悪いのではなく、この男はいつもこういう顔なのだ。


 翔太がテーブルに参考書を置くと、立花が顔を上げた。右目に装着した医療用の眼帯が異様な存在感を放ち、堅気の人間でないことは即座に分かるだろう。




「なんだそれ」

「高校の参考書」

「学校行くのか?」

「潜入調査でね」




 翔太がソファに座ると、立花は一人納得したみたいに頷いた。興味が無いらしく、それ以上は追及しなかったし、話を広げようともしなかった。


 立花蓮治は、翔太の師匠に当たる。現役の殺し屋で、裏社会ではハヤブサと呼ばれる最速のヒットマンである。悪人であることは間違いないが、プライドを持って仕事をしていると言う点に於いては尊敬に値する人間である。


 以前、湊はこの事務所の事務員だった。行き場を失くして街を彷徨っていた翔太は湊に拾われて、それから一年くらい一緒に過ごした。


 立花は、翔太の師匠であり、湊の元保護者だ。あまり顔や態度に出る性質ではないが、それなりに自分達を気に掛けてくれていることは知っている。立花は、あの暴走機関車みたいな湊を叱れる数少ない大人である。


 湊は巣立って行ったが、窮地にあれば翔太は助けに行くし、立花も協力する。翔太の家族はもうこの世にいないが、立花と湊は第二の家族みたいなものだった。




「湊が薬を取りに来いって行ってたぞ」

「あいつが届けに来りゃ良いだろ」




 立花は面倒臭そうに言って、また新聞を広げた。


 立花と侑は、或る犯罪組織の人体実験で薬物を投与されていた。それは脳を破壊して、人間を操り人形にする悪魔の薬だった。湊は薬剤の効果を打ち消す緩和剤を開発して、定期的に二人に処方している。


 一度破壊された脳は、元に戻らない。

 侑の弟である新は、その被害者だった。湊は彼を助けたくて彼方此方走り回り、幾つもの危ない橋を渡ったのに、薬が完成した時には間に合わなかった。


 この世は理不尽と不条理で溢れている。

 善行が他人を救うとは限らないし、悪行が自分を貶めるとも限らない。誰かが幸福な平穏を享受する傍らで、誰かに不幸な悲劇が降り注ぐ。


 社会と言う歯車が正常に回り続ける為に、誰かが報いを受ける。翔太は、悲しい負の連鎖を背負い込んだ人間を何人も見て来た。


 けれど、彼等はとても強い。雑草が踏まれる程に強くなるように、日陰でも花を咲かせることが出来る。

 翔太は彼等のそういう強さが好きだし、尊敬もしている。決して表舞台に立てるような綺麗な仕事ではないけれど、プライドを持っている。




「お前、大丈夫か」




 不意に立花が言った。

 何のことか分からない。翔太が見遣ると、立花が眉間に皺を寄せて言った。




「学校に良い思い出があるようには見えねぇが」

「ああ、まあ、平気だよ。俺は教育実習生で、湊が生徒なんだ。侑は用務員で」

「ふうん。ミイラ取りがミイラにならないようにな」




 立花はそれだけ言うと、新聞を閉じた。

 そのまま欠伸をして、事務所を出て行った。仕事なのかも知れないし、寝るのかも知れない。翔太は立花の全てを知っている訳ではない。


 ただ、心配してくれていると言うことは、分かる。




「ミイラ取りがミイラか……」




 翔太はソファに凭れ掛かり、呟いた。

 手持ち無沙汰に参考書へ手を伸ばす。因数定理に恒等式の証明。習ったような気もするが、さっぱり覚えていない。


 学校って不思議だ。社会に出ても使わないような専門知識を詰め込まれて、将来のことなんて学校は何の責任も取ってくれない。それなのに、社会は学歴を重視しているし、みんな高い学費を払いたがる。


 翔太は、自分の学生時代を思い出そうとした。しかし、それはまるで靄の中みたいにぼんやりとしていて、具体的なことは何も分からなかった。誰と何を学んだのか、何も分からない。


 きっと、その程度だったのだろう。

 自分はあの世界では透明人間だった。


 翔太は携帯電話を取り出して、メールを作った。

 時刻は午後十時。湊はきっと寝ている。だけど、メールを見たら返信をくれるだろう。













 5.誰が駒鳥殺したの

 ⑵後顧之憂こうこのうれい












「日本の学校は、本当にこんな英語を教えてるの?」




 翔太がエンジェル・リードの事務所を訪れたのは、翌日だった。参考書を読んだが、内容が全く理解出来ず、一冊も読み終わらない内に気付いたら朝だった。数学や現代文は兎も角として、英語が意味不明だった。


 湊は生まれも育ちもニューヨークで、四ヵ国語が堪能なスーパーエリート様である。早々に根を上げた翔太が助けを求めると、参考書を流し読んだ湊が呆れたみたいに言った。




「She is a girl who lives in my neighbourhoodだって。She lives in my neighbourhoodで良いでしょ。どうしてこんなにややこしく言う必要があるの」




 教科書を読み上げて、湊が流暢な英語で指摘する。

 彼が言うには、日本の学校で習う英語は実用的でなく、不自然らしい。参考書に添付されていたリスニングのCDを聞いた時には頭を抱えてしまった。




「こんな英語を身に付けたって、笑われるだけだよ」

「お前が寄越した参考書だろうが」

「柊木愛梨さんの遺品なんだよ」




 翔太はぎょっとした。

 イジメで自殺したと思われる女子高生だ。そんなものを持ち出して良かったのだろうか。湊があんまり酷評するので、ソファで雑誌を読んでいた侑が覗き込んで来た。




「なんだこれ、目が滑る」

「分かる」




 翔太は全力で同意した。

 湊は頭を抱えながら参考書を眺めている。




「日本の教育の闇を見た気がする」

「なんだそれ」

「知識は使わないと忘れるんだよ。この国の教育は使いもしない知識を詰め込ませるだけで、無駄なんだ」




 湊はぞんざいに参考書を机へ放って、溜息を吐いた。




「教育は未来への投資だろ。こんな保守的な遣り方じゃ優秀な人材は育たないよ」




 吐き捨てるように湊が言った、その時だった。

 虚を突かれたみたいに湊が肩を竦ませて、動きを止めた。緊張感が静電気のように走り、侑がエメラルドの目を眇めた。




「どうした」




 侑が低く問い掛けると、湊が信じられないものを見たような顔をした。濃褐色の瞳には驚愕と嫌悪が複雑に入り混じっている。


 湊は手にしていた参考書を机の上に広げた。

 其処にあったのは、十代の子供が持つ剥き出しの悪意だった。呪詛のように書き殴られた罵詈雑言、不自然に破かれたページ、踏み躙るかのような足跡。余りの悍ましさに寒気がした。




「……靴の大きさを考えると、男性だね。愛梨さんじゃない誰かが、これをやった」




 湊が言った。




「この字は、左利き。でも、こっちの人はとてもせっかちな女性だろう。頁を破いたのは右利きの人だから、全部別人だね」




 参考書に残された悪意を一つずつ指差して、湊が冷静に言った。その度に、階段を下るみたいに空気が重く張り詰めて行く。


 他の参考書にも同様の落書きを見付けた。背表紙が歪んでいるものも、鋭利な刃で切り裂かれただろうものもあった。


 死ね、気持ち悪い、学校に来るな、消えろ。

 そんな陳腐な言葉が何度も何度も、刻み付けるみたいに。


 頭の芯が冷たくなるような感覚がした。耳鳴りがして、翔太は目を逸らした。遠い昔に置いて来た筈の記憶が悪夢みたいに蘇る。


 湊は参考書を閉じて、立ち上がった。




「柊木さんにもう一度会おう。真実が知りたい」

「……真実?」

「事実と言うものは捏造出来るんだ。これが書かれたのが愛梨さんの生前なのか、死後なのか。この場では分からない」




 湊はさっさと奥の事務室からコートを持って来た。紺色のピーコートは、クリーニングから持ち帰ったばかりみたいに糊が効いている。湊は無機質な顔で白いマフラーを首に巻いていた。


 侑は暫し参考書を睨んでいたが、何事も無かったみたいに言った。




「参考書はうちで預かる。代わりのものは手配しておくから、今日のところは一旦帰れ」

「俺も」

「悪いな。バイクは二人しか乗れないんだ」




 侑はバイクの鍵を見せて、皮肉っぽく笑った。

 このタイミングで蚊帳の外に追い出されて、分かりましたなんて引き下がれる筈が無い。


 イジメはあったのか、自殺の原因は何なのか。

 この場で判断することは出来ない。だけど、あの参考書に刻み付けられた悪意の数々は、とても捏造とは思えなかった。


 湊と侑が外出すると言うので、翔太は仕方無く事務所を出た。まさかこんな展開になるなんて想像もしていなかった。行く宛も無く街をうろうろしていたら、駅前の交番で制服警官に呼び止められた。




「景気の悪そうな顔やな。どないした?」

「桜田さん」




 翔太が名を呼ぶと、桜田は気怠そうに手を振った。

 桜田健斗さくらだ けんとは、繁華街の駅前交番に勤務する巡査で、真冬でもサーファーみたいに黒い男である。いつも親切と無礼の中間くらいの距離感で話し掛けて来る。


 警察官であるが翔太とは友達のような関係で、兄貴風を吹かせて来るが悪い人ではない。雑に扱っても良い程度には親交のある男だった。




「予定が無くなっちまったんだよ。寒いからお茶でも淹れてくれよ」

「交番は喫茶店ちゃうぞ」

「どうせ暇だろ」




 交番の中には石油ストーブが灯されていた。

 エアコンとは違う染み入るような暖かさだった。翔太が手を翳して温めていると、桜田が緑茶を淹れてくれた。


 礼を言って口を付ける。




「薄い」




 白湯みたいだった。

 翔太が言うと、桜田が笑った。


 特に話すことは無かったが、桜田は話題が豊富なのでいつも勝手に喋っている。


 ちなみに桜田は元々、湊の友達だった。この繁華街から去った理由については実家に帰ったことにしていて、日本にいることは教えていない。


 交番の中、石油ストーブが死に掛けの油蝉みたいな音を立てる。桜田は沈黙を埋めるみたいに猛烈な勢いで喋っていたが、翔太はあんまり聞いていなかった。早口でテンポが早いので会話に入れないのだ。




「自分は高校行っとったのか?」

「なんで?」

「最近、ずっとこの学校の話ばっかりやろ?」




 そう言って、桜田がテレビを指差した。

 交番の奥に休憩室の座敷があって、桜田の席から丁度テレビが見えるのだ。真面目そうに制服を着ていても、所詮は給料泥棒である。翔太は税金を払っていないので、糾弾する資格は無い。


 テレビでは、ワイドショーが流れていた。

 名前も知らない関西弁の司会者が、昨今の教育問題について熱く論じている。偉そうな顔をしたコメンテーター達が頷いて同意したり、それは違うと怒ったり、楽しそうだ。




「これって都内の私立高校やろ? 進学校やなかったっけ」

「そうなの?」

「自分は世間の話題をなんも知らへんな。仙人か?」




 桜田が呆れたみたいに言った。

 馬鹿にされたことは分かるが、腹は立たなかった。




「ああ、ほら、明瞭学園やて。イジメで女の子が自殺してん。学校側は否定してるらしいけど、女の子の親が大物やさかい、どないなるかいな」




 イジメで女の子が自殺?

 ついさっき聞いた話じゃないか。

 翔太が改めてテレビを見ると、私立高校の外観が大きく映されていた。それなりに歴史のありそうな学校だった。生徒にインタビューを試みる記者と、それを追い払う教師。真相は闇の中……。


 まさか、エンジェル・リードが調査している事件か?




「思春期の子供は繊細やさかいな。いじったつもりがイジメやったなんてこともあるやろ。こういう事件はマスコミもしつこいし、世間の関心も高い。ああ、怖い怖い」




 桜田が演技掛かった動作で震え上がる。

 学校側を悪と決め付けるマスコミ、流されるだけの生徒、貝のように口を閉ざす教師、不安を愚痴る保護者。両親は厳しかったと囁く他人、真面目な良い子と語る自称友人、モザイクの掛かった母親。


 記者会見の映像では学校側の責任者と弁護士が沈痛な面持ちで故人の冥福を祈り、イジメは無かったと主張している。証拠は無い……。


 イジメと言うセンシティブで、センセーショナルな話題。誰もが真実を知りたがっているのに、何処にも答えが無い。噂だけが徘徊する様は、まるで幽霊のように気味が悪い。


 依頼人は最高裁の裁判官だと言っていた。

 この依頼を達成出来なかったら、どうなってしまうんだ。


 翔太の不安を他所に、桜田ばかりが暢気にしている。




「そういえば、ミナちゃんは元気か? 同い年くらいやろ?」

「……元気そうだったけど」

「そら良かった」




 桜田が快活に笑った。

 ボロが出る前にと、翔太はさっさと緑茶を飲み干した。

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