5.誰が駒鳥殺したの
⑴予定調和
Most subject is the fattest soil to weeds.
(肥えた土ほど雑草が蔓延る)
Shakespeare
繁華街の夜は、今日もお祭り騒ぎだ。
神谷翔太はモッズコートに顎を埋め、着膨れした人々の間を早足に擦り抜けて行く。酒精と紫煙、香水と腐臭が複雑に混じり合い、まるで一つの巨大な波みたいに街を飲み込んでいる。
この街はいつも忙しなくて、騒がしい。
何かが起こると虫のように集まって、風が吹けば風見鶏のように向きを変える。ドブに落ちる犬がいれば指を差して笑い、ヒーローが現れたら諸手を挙げて歓迎する。物言わぬ多数派は、時として下世話で無粋で無礼である。
都会の明るい夜空に、星は見えなかった。
若い女の下品な笑い声が聞こえる。流行りの陳腐なラブソングが何処からか響き、翔太は白い息を吐き出した。
丁度、午後九時を過ぎた頃だった。
ポケットに入れた携帯電話が震えて、翔太はディスプレイを確認した。表示されている番号は、翔太にとっての119であり、110だった。着信に応じると、柔らかなボーイソプラノが自分の名を呼んだ。
前方から酔っ払った大学生の群れがやって来る。翔太はそっと進行方向をずらして、彼等を避けた。振り返る者も、知覚する者もいない。
「もうすぐ着くよ」
翔太が言うと、スピーカーの向こうで微睡んだ声が返って来た。そのまま携帯電話をポケットに戻して、路地裏に足を踏み入れる。
左右から迫るような混凝土の壁に、毒々しい色合いのイラストが描かれていた。何を描いたのかは全く分からない。割れたポリバケツの影から野良猫が顔を出し、翔太を見ると身を潜めた。
路地裏を抜け、寂れた住宅地に入る。治安が悪いので、集合住宅は空室が目立ち、商店は早々とシャッターを下ろす。空気の温度がぐっと下がったような気がした。
少し歩くと、三階建のビルが見えた。
一階と二階はテナントになっており、最上階だけ明かりが点いている。隣のビルは入口に監視カメラがあったので、ヤクザの事務所だろう。こんな所に好んで事務所を構えるのは、相当な変人か相応の危険人物である。
狭い階段を三階まで上がると、鉄製の扉が見えた。針金の入った曇り硝子に、暖かなオレンジの光が透けていた。チャイムを鳴らしたが、うんともすんとも言わないので、ノックをしようと拳を握る。その時、いきなり扉が開いた。
「待っていたよ、翔太」
天使のような笑顔で、湊が言った。
変な服を着ていた。真っ赤なセーターで、ジェラシックパークみたいな恐竜が威嚇している。最近、湊はダサいセーターに嵌っているらしい。
エンジェル・リードの事務所の中は、暖かかった。玄関先にも暖房が付いていて、室内灯はセンサーで作動するらしい。壁には見たことの無い青い絵が飾られていた。
「航が香港のアートバーゼルで買って来たんだ。綺麗だろ?」
「ああ。お前には無い繊細なセンスだ」
翔太が言うと、何故か湊は誇らしげに笑った。
湊は不思議な青年で、大抵のことは受け流してしまうくらい度量が深い。見た目は美少女なのに青年で、東洋の顔立ちをしているのにニューヨーカーなのである。翔太にとっては恩人で、大切な友達だった。
廊下を進みながら、翔太は思い出して言った。
「そういや、立花が今度、メシ食いに来いって言ってたぜ」
「へえ、楽しみだな。侑も連れて行って良いんだよね?」
「それは二人に確認しないとダメだな」
翔太は笑った。
立花とは、翔太の師匠である。この国の裏社会の英雄、ハヤブサと言う殺し屋の三代目に当たる。自分が後継者の立ち位置に相応しいのかは分からないが、師事していると言う点に於いては師匠と言って良いだろう。
立花は、無愛想で仏頂面の朴念仁の仕事人間である。ついでに口が悪くて、すぐに手が出る気難しい男だった。善悪を問うならば間違い無く悪人だが、それなりに良い所もある。
エンジェル・リードの天神侑とは犬猿の仲である。顔を合わせる度に銃撃戦をする程度には相入れない性質らしい。
「侑はいないのか?」
翔太が問うと、湊が応接室の扉を開いた。
真っ先に目に飛び込んで来たのは、青々と茂る幾つもの観葉植物である。小さな鉢植えには、雪のような白い花がこんもりと咲いていた。まるで、デザイナー事務所である。
室内の細やかな装飾やインテリアの数々は、青を基調として美しく整頓されている。足元にはラベンダーの鉢植えがあり、ほっとするような甘い匂いが漂っていた。
「航はすごいな」
こういうセンスは湊には無いので、彼の弟の仕事だろう。
翔太が言えば、湊は自分が褒められたみたいに笑う。兄弟仲は良好のようで、安心した。彼等は理性的で賢いのに、互いのことになると瞬間湯沸かし器みたいにかっとなって喧嘩する。
「よお、番犬」
応接室のソファに腰を下ろしていたのは、侑だった。
一見するとモデルみたいに整った容姿をしているけれど、元国家公認の殺し屋というとんでもない経歴の男である。この場で殺し合いになったら、確実に負ける。
湊に促されて、翔太はソファに座った。皮張りのソファは見た目よりも柔らかく、座り心地が良かった。その内、湊がハーブティーを運んで来て、翔太の前に置いた。
「この前の蛇退治では、力を貸してくれてありがとう」
「いや、良いよ。立花も鬱陶しいってずっと言ってたから、良いタイミングだった」
スネークと呼ばれる殺し屋の組織が壊滅したのは、ほんの一週間前のことだった。生き残った者はいない。その殲滅戦を垣間見た裏社会の住人は、或る教訓を語った。
命が惜しければ、エンジェル・リードには手を出すな。
そして、それこそがエンジェル・リードの本当の狙いだった。彼等は邪魔者をきっちりと始末し、裏社会の住人を震え上がらせる恐怖と権威を示したのである。
余りの手際の良さに、翔太も感嘆の息を漏らした。侑の化物染みた戦闘能力も、予定調和のように丸く納めた湊も、見事だった。裏社会で生き抜くには、金と権力、それから武力が必要だ。この界隈でエンジェル・リードに手を出す命知らずは、もういないだろう。
「そっちは順調? 蓮治と喧嘩してない?」
湊がマグカップを両手に包み込み、小首を傾げた。
少女でないことが悔やまれるくらい可愛らしい姿だった。彼はニューヨーカーだからか、パーソナルスペースの問題なのか、親しい相手は年齢問わず下の名前で呼ぶ。
翔太は少し考えて、答えた。
「まあまあだよ。それより、世間話する為に呼んだ訳じゃねえだろ?」
湊が頷いて、壁に凭れ掛かった。
座れば良いのにな、と思ったが、彼のことだから何か理由があるのだろう。痔になったとか、そういうどうしようもない理由が。
「単刀直入に言うと、翔太に仕事を頼みたいんだ」
「俺に? 立花じゃなくて?」
翔太は目を瞬いた。
自分は殺し屋としては見習いで、そんなに戦力にはなれないと思う。湊のように頭が回る訳でもないし、航のように感性が豊かでもない。
湊は意味深な笑顔を浮かべていた。
ろくな仕事じゃないことは確かだった。断るなら、話を聞く前にするべきだ。湊に頼まれると、まるで直接脳から指令を受けたみたいに断ることが出来ないのだ。
断れ、断れ。
頭ではそう思うのに、湊の顔を見るともう不可能だった。
湊には、翔太が一生掛かっても返し切れないくらいの恩がある。しかも、彼はそれを一切口にしない。翔太は兎に角、湊に弱かった。
「翔太にしか頼めないんだ」
弱ったみたいな顔で言われては、もう何も言えない。湊と言う青年は、無抵抗と無防備で相手を懐柔する天性の人誑しである。
「分かったよ。どんな仕事だ?」
「良いの?」
「良いよ。お前の頼みなら」
翔太は笑った。
侑が可哀想なものを見るような目付きで、溜め息混じりに言った。
「そんなに御人好しだと、人生損するぞ」
違いない。
翔太は同意しつつ、ハーブティーに手を伸ばした。
5.誰が駒鳥殺したの
⑴予定調和
「君が殺したうちの芸術家がいただろ?」
湊が平然と言ったので、翔太はハーブティーを噴き出す所だった。噎せていると侑が感情の死んだ声で「大丈夫か」と言った。社交辞令も此処まで来ると嫌味である。
今年の初めに、ハヤブサの元に自殺の為の依頼が来た。
ハヤブサは復讐を請け負わないが、それ以外は何でもやる。それが例え最低最悪のクソ野郎からのゴミみたいな依頼でも、適切な報酬があれば引き受ける。来栖凪沙の依頼は、それなりに後味の悪いクソみたいな仕事だった。
彼女がエンジェル・リードの抱える若い芸術家であることは知っていたが、仕事をすることに私情は挟まない。翔太は来栖凪沙が逮捕される直前、警官に変装して彼女をナイフで殺したのである。
「俺達は彼女の描いた絵を裏オークションで売ったんだけど、状況が変わってね。それを取り戻さないといけないんだ」
「なんで?」
せっかく売れた絵をどうして取り戻したいのか。
裏オークションなら足も付かない。
翔太が訊ねると、湊は眉を下げた。
「彼女は復讐者で、殺人犯だ。そんな人の絵を売ったとなると、俺達の評判も悪くなる。放って置くのは無責任だ」
翔太は少し、居心地が悪かった。
自分がやったことで、彼等が不利益を被っている。目くそ鼻くそみたいな話なのかも知れないが、湊が困っているのは分かる。
「落札した人を訪ねてみたら、他の人に譲ったって言われちゃったんだよ。今、その絵を持っているのは
「……嘘だろ?」
「なんでそんな嘘吐くの。本当だよ」
最高裁判所の裁判官が、殺人犯の絵画を所有しているなんて、世も末じゃないか。
「事情を打ち明けたら返してくれそうだったんだけどね、その時に或る相談をされたんだ」
なんだか、雲行きが怪しくなって来た。
翔太が目を眇めると、湊は胡散臭いくらいの作り笑顔を浮かべた。
「一月前、柊木さんの一人娘の
イジメ。
腹の底が冷たくなるような嫌な感覚だった。学校は社会の縮図であり、子供は残酷な生き物だ。翔太自身はイジメを受けた経験は無いが、妹がその被害者だった。
嫌な記憶が、まるで波紋のように浮かび上がる。
切り裂かれた教科書、浴びせられる悪意、周囲の白い目。
当事者だけの問題ではない。学校と言う運営団体、システム、周囲の人間、家族。それを本当に無くそうと思うなら、社会を巻き込んで論議して行く必要がある。
「愛梨さんは、自宅で首を吊って死んだ。最初に見付けたのは、お母さんだったそうだ。……自殺した娘の遺体を目の当たりにした親の気持ちなんて想像も出来ないけど」
そう言って、湊は黙った。
この湊と言う青年は、こんな仕事をしているが研ぎ澄まされた正義感を持っている。この世界で生きて行く上で必要なのかどうか分からないが、翔太はそういう不器用な所が嫌いじゃなかった。
絵画を取り戻すとか、イジメの真相を解き明かすとか、それだけが理由ではないのだろう。依頼主は最高裁の裁判官。これを解決すれば恩を売れる。エンジェル・リードとしては断る理由が無かった。
「それで、具体的にはどうするんだ?」
翔太が問い掛けると、湊は仮面みたいな綺麗な笑顔を浮かべた。そして、奥の部屋から両手で抱える程の大量の本を持って戻って来た。
「学校に潜入するのが早いと思ってね。俺は生徒として、侑は用務員として、そして、翔太には教育実習生になってもらう」
重い音を立てて、机の上に本が積み上げられる。まるで、塔だった。高校の参考書らしい。
「俺に今更、高校生のお勉強をしろってか?」
「俺が教育実習生だと無理があるだろ?」
それは確かにそうだけど。
湊は童顔で小柄なので、せいぜい中学生だ。学生役ならまだしも、教育実習生は無理がある。
「だったら侑が用務員ってのも、無理があるだろ」
「俺は真面に学校に通ったことないぞ」
翔太は歯噛みした。
侑は劣悪な家庭環境で育って来た人間だ。いきなり教育実習生になるのは難しいだろうし、何より、金髪碧眼と言う容姿が目立つのだ。
だから、自分が駆り出されたのか。
断れないことも見越しての選出だったのなら、尽く彼等の掌の上である。翔太は深く溜息を吐いて、ソファに凭れ掛かった。
「……それっていつやるの」
「来週の月曜日だよ。だから、それまでに翔太にはこの参考書を全部暗記して欲しい」
「ふざけんな!」
「なんで! 一日もあれば余裕だろ!」
「お前と一緒にするな!」
湊は米国最高峰の大学を飛び級で卒業した本物の天才なのである。頭の作りが違うのだ。
翔太は高校に通ったことはあるが、卒業した訳ではない。大体、生意気盛りの高校生の教師役なんて寒気がする。馬鹿な教育実習生なんて、それこそイジメのターゲットになるんじゃないだろうか。
「翔太なら出来るよ。君が本当に頼りになる人だってことは、俺が誰より知ってる。何か困ったことがあったら、俺がフォローする。信じてくれ」
「生徒にフォローされんのもおかしいだろうが」
「ぐだぐだぐだぐだ、うるせぇな」
侑の唸るような低音が響き、翔太は咄嗟に腰を浮かせた。
エメラルドの瞳に冷たい光を宿して、刺すような眼光で睨んで来る。普段は気の良い兄ちゃんに見えるが、彼は本物の殺人鬼で、初審で死刑執行が確定するような犯罪者である。
「やるって決めたなら、文句言わずにやれよ! 男だろ!」
性別は関係無いだろ。
胸の内で吐き捨て、翔太は肩を落とした。
最初に断らなかった時点で、逃げ場は無かったのだ。翔太は深く溜息を吐いて、積み重なった参考書を抱えた。
「やれるだけのことはやる。でも、あんまり期待すんなよ。俺はお前と違って勉強は得意じゃねぇ」
参考書の塔は、抱えてみると重石のようだった。
湊がぱっと目を輝かせる。濃褐色の瞳は雨上がりの空のように澄み渡っていた。
「ありがとう、翔太」
花が綻ぶように湊が笑った。
その顔に弱いのだ。分かってやってるなら、相当な腹黒だ。しかし、彼は媚びたり諂ったりするタイプではないと知っている。
「分かんねぇとこあったら、メールするから。馬鹿にも分かるように丁寧に解説してくれよ?」
「勿論。いつでもメールして」
してやられた気もするが、もう投げやりだった。
参考書を抱えて玄関に行くと、湊が見送りをしてくれた。オレンジ色の室内灯の下、湊が天使のように微笑んでいる。
「蓮治に、そろそろ薬を取りに来るように伝えてくれる? 面倒臭いって言って来てくれないんだ」
湊が苦く笑った。
翔太は頷いた。
それは多分、面倒なんじゃなくて、侑と顔を合わせたくないんじゃないかな。
そんなことを思ったが、それを湊に言ってもどうしようも無いので、翔太は事務所を出た。
外は身を切るような寒風が吹き付けている。住宅地はひっそりと静まり返り、まるで墓場のようだった。離れてみると、あの騒がしい繁華街が恋しくなる。それは、何故なんだろう。
事務所の窓から湊が大きく手を振っている。隣では侑が腕を組んで偉そうに見下ろしていた。翔太は両手が塞がっていたので、目一杯笑って、そのまま歩き出した。
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