⑵チルドレン
室内は、時計の音が聞こえる程の静寂に包まれていた。
坂田が話す中、天神は相槌を打って先を促す以外には口を挟まず、腕を組んだままずっと小難しい顔をして聞いていた。メモの一つも取らず、天神は一言「分かった」と言って身を乗り出した。
「アンタの話は必ず伝えておく」
「……ああ、頼んだ」
本当に話して良かったのか。彼は信用に値する人間なのか。
後悔も疑念も尽きないが、この場で出来ることはもう何も無かった。坂田がソファから立つと、天神が言った。
「手ぶらで帰るのも、決まりが悪ィだろ? 手土産をやるよ」
そう言って、天神は口角を吊り上げた。
「犯人はハヤブサじゃねぇ。あいつはそういう馬鹿げたサインは残さねぇ」
「……ハヤブサなんて、都市伝説だろ?」
坂田が苦く笑うと、天神は肩を竦めた。
「殺し屋なんて何処の国にもいるさ。スパイとか工作員とか呼ばれることもあるけどな」
「……本当にいるのか?」
「信じるかどうかは、アンタ次第だ。疑っても良いさ。どうせ、この件にハヤブサは無関係だからな」
天神は真顔で言った。
裏社会の抑止力。最速のヒットマン、ハヤブサ。
まさか、ドラマじゃあるまいし。
坂田は笑い、扉に向かった。天神も引き留めなかった。坂田が取手に手を掛けたその時、勢いよく扉が開いた。
「レタスが一個200円もしたんだけど、ふざけてるよな!!」
テナーの声が静寂を打ち破った。
危うく額を割る所だった。突然現れた青年は、怒りを散らすみたいに床を踏み鳴らし、ビニール袋をテーブルに置いた。
天神は青年を見上げて、まるで子供でも見るみたいな穏やかな目をしていた。
「おかえり、
「ただいま!」
間の抜けた遣り取りに、坂田は帰るタイミングを完全に見失っていた。航と呼ばれた青年は、主婦のように野菜の高騰について怒っていた。ビニール袋に詰めていた野菜や肉の値段を叫びながら並べて行く様は、とても個人投資家の仲間には見えなかった。
航は袋の中を空にすると落ち着いたのか、盛大に舌を打って振り向いた。坂田は、その容貌を見て酷く驚いた。
猫のようなアーモンドアイ、通った鼻梁。航と呼ばれた青年は、坂田がこれまで見て来た人間の中で一際美しく、精悍な顔付きをしていた。何かスポーツでもしていたのか全身は均整の取れた筋肉に覆われ、視線は猛獣のように鋭い。
航は坂田を見ても驚かなかった。
「ああ、アンタが巽さんの言ってた人?」
航は坂田を指差して尋ねた。
無礼。
「警察の捜査は今どうなってんの?」
「俺が後で話すよ」
「Telephone gameは好きじゃねぇ。俺は直接聞きたいね」
坂田は眉を顰めた。
それは航の不遜な態度に対するものではない。流暢な英単語に加えて、この青年の言葉には妙な訛りがある。顔立ちは東洋人で日本名だが、もしかすると出身は異なるのかも知れない。
天神は肩を落とすと、坂田を見た。
面倒だが、仕方が無い。
「……被害者は今の所、三名。全員、銃で殺害されている。凶器となったのはニューナンブM60」
「ニューナンブって日本の警察が使ってる奴だろ?」
「そうだ。これはマスコミには伏せている情報だが、被害者の足の裏に焼鏝を当てたような火傷の痕があった」
「写真は?」
そういえば、見せていなかった。
坂田は懐から写真を取り出して机に並べた。遺体は青白く、まるでゴムのような質感に見える。一人目と二人目は右足に、三人目は焼け焦げていたが、司法解剖で火傷の痕が修復された。
正直、見ていて気持ちの良いものでは無い。航は嫌そうに写真を観察して、顔を上げた。
「何の形だ? Vにも見えるし、歪んだハートにも見える」
「俺は翼を広げた鳥に見えるよ」
「It does. この写真、うちのボスに送っても?」
「それは駄目だ」
「まあ、そうだよな」
航は自嘲するように喉を鳴らした。
「Okay, satisfied. Thanks a lot」
そう言うと、航は写真をさっさと纏めて返して来た。
そのまま鼻歌混じりに食料品をビニール袋に戻して、何処かへ行ってしまった。
まるで、気紛れな猫である。坂田は呆れながら、天神に問い掛けた。
「あいつは何なんだ?」
「あー、あいつは……。うちのバイトくんだな」
アルバイト?
些か疑問は残るが、追及することではない。坂田は今度こそソファから立ち上がり、扉に向かって歩き出した。
扉を開け放った時、冬の澄んだ風が吹き抜けた。部屋の中では航が換気の為か窓を開けた所だった。寒風に煽られたブラインドカーテンが微かな音を立てる。
「この前、買った油絵のことなんだけどさ……」
航の声がする。
「俺はあんまり……好きじゃねぇんだよな……」
エンジェル・リードは芸術分野の投資家。
一介のアルバイトでも意見出来る程度には、風通しの良い組織らしい。警察組織よりはずっと身軽で、自由で、居心地が良さそうだった。
坂田は扉を閉じた。
丁度、腹の虫が鳴いたので、ラーメン屋にでも寄って帰るかとポケットに手を突っ込んだ。
1.水底のマグマ
⑵チルドレン
駅前の大通りから道を一本外れると、寂れた商店街の奥に黄色い看板のラーメン屋がある。
『来々軒』は量に対して値段が安く、力仕事を生業とする男達が挙って通う人気の店だった。坂田自身、収入の少なかった独身時代は毎日のように足を運んだ。全体的に値段が安い上に、ライスのお代わりが無料なのだ。
店内を見渡すと、見覚えのある後ろ姿が見えた。
カウンター席に一人の若い女の子が座っている。黒いカットソーにダメージジーンズを穿いたシンプルな出で立ちで、何かに急き立てられているみたいに一心不乱にラーメンを啜っている。
カウンターには、空になった餃子の皿が二枚、丼が二つ。大量の料理を吸い込むみたいにあっという間に平らげて行く。気持ちの良い食べっぷりだが、胸焼けしそうだった。坂田はコートを脱いで小脇に抱えると、夢中で食事する背中に声を掛けた。
「よぉ」
坂田が言うと、少女は手を止めた。
箸を持ったまま振り向いた少女は、坂田を見ると花が綻ぶようにして微笑んだ。
「坂田さん、久しぶり」
坂田は苦笑して、隣に座った。
彼女は五反田にある私立高校に通う女子高生で、
早戸はラーメンライスを汁まで啜り、空になった丼をカウンターに置いた。グラスを煽って一気に水を飲み干す姿は、見ていて気持ちが良かった。
彼女は非行歴も前科も無い極普通の女子高生で、偶に来々軒にやって来るらしい。家は高校の近くの五反田にあり、両親は共働きで、大食いの自覚があるらしく、友達と食事に行くと物足りないし、お代わりをすると
今時の女子高生にしては珍しく化粧気も無く、流行に疎い為に衣服に頓着が無い。素直で気さくな良い子なのだが、何処か寂しげに笑う。何となく、放って置けない少女だった。
「また喧嘩したのか?」
坂田はラーメン大盛りと餃子を注文し、早戸に尋ねた。
詳細に聞いたことは無いが、どうやら早戸には同い年の彼氏がいるらしく、よく喧嘩をする。話を聞く限りでは、早戸の彼氏は気性が荒く、デリカシーが無い。早戸はたまに愚痴を零すが、所謂ベタ惚れという奴で、どんなに冷たく
「痩せっぽちだから、もっと食えってさ。沢山食べたら大きくなるとは限らないのにね!」
坂田は目を逸らした。
何を言ってもセクハラになるような気がした。早戸は空になったグラスに水を注ぎ、肩を落とした。
餃子が運ばれて来る。坂田は醤油と酢、ラー油を混ぜながら隣を窺った。
早戸という少女は、黙っていれば兎に角、可愛らしい女の子だった。肌は雪のように白く、睫毛は爪楊枝が載りそうな程に長い。濃褐色の瞳は美しく澄み渡っていて、まるで春の蒼穹のようだった。
早戸と話していると、胸の中に小さな火が灯ったみたいに温かな気持ちになる。そして、その度に頭の奥に沈めて来た苦い記憶が滲み出すのだ。
忘れたいとは思わない。忘れてはならない。
いつでも胸に留めて、戒める。警視庁捜査一課に赴任したばかりの頃の馬鹿だった自分。助けられなかった少女。先輩刑事の教えを思い出す。
捜査で犯人を追い詰めて死なせてしまったら、刑事も殺人犯と変わらない。
意識は螺旋階段を下って行く。その時、思考に
「そういえばこの前、坂田さんが女の人と話してるの見たよ」
彼女?
悪戯っぽく早戸が尋ねた。
坂田には何のことか分からなかった。
「長い金髪の綺麗な人だよ」
「ああ……」
坂田は相槌を打ちながら、内心、驚いた。
早戸の言う金髪の女は、恐らく子飼いの情報屋のことだ。他人に見られる程に長話をしていたつもりは無いが、何処で誰が見ているのか分からないものだ。
坂田は餃子に
慌てて水を飲み下すと、早戸が鈴を転がすように笑った。
「もしかして、密会って奴だった?」
「いや、違ぇよ。仕事上の付き合いって奴だ」
「なるほどね」
早戸はカウンターに肘を突き、坂田を見た。その視線は左手の薬指に嵌められた結婚指輪を注視している。
「奥さんを大事にね」
「分かってるよ」
「お子さんは?」
「息子が一人。今年で五歳になる」
「へえ。写真とか無いの?」
坂田は
「可愛いねぇ」
蕩けるような笑顔で、早戸が言った。
写真の中の冬夜は、戦隊モノのポーズを決めて笑っている。仕事が多忙で中々会えないが、妻が時々写真を送ってくれるのだ。息子の成長を見るのが何よりの楽しみだった。
早戸は短く礼を言うと、携帯電話を返した。同時に早戸の携帯電話が震えた。メッセージが届いたらしい。
「彼氏か?」
「まあ、そんなとこ」
早戸は、はにかむように笑った。
そのままポケットに携帯電話を入れて、オレンジ色の財布を取り出した。帰るらしい。
「またね、坂田さん」
「ああ。……暗くなる前に気を付けて帰れよ」
「分かってるよ」
じゃあね、と早戸が手を振った。
小さな後ろ姿が暖簾の向こうに消えて行く。坂田は苦笑し、食事を再開した。
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