⑶掌

 四件目の殺人事件が起きた。

 それは正月気分の抜けやらぬ新年最初の日曜日の夜だった。五反田駅の女子トイレから若い女性の遺体が見付かった。


 第一発見者は駅員。終電間近の駅を見回っている時に、半開きになった個室に気付いた。扉を開けてみると血塗れの女性が蹲るように倒れていたのである。


 恐怖で全身の血が凍るようだった。五反田、若い女性。先日、ラーメン屋で会ったばかりの早戸ちなみの顔が脳裏を過ぎる。


 焦燥感を押し殺して被害者の写真を見た。其処に映っていたのは、二十代前半くらいの若い会社員の女だった。


 早戸でなかったことに安堵して、けれど事件を未然に防ぐことが出来なかった自分が悔しかった。捜査が足踏みしている間、殺人犯は獲物を探して彷徨い、今も誰かが命の危機に晒されている。


 殺害の凶器はニューナンブM60で、線条痕はそれまでのものと一致した。四件目の殺人事件である。犯人についての手掛かりは無く、防犯カメラに怪しい人物は映っていない。


 政治的圧力と世論のバッシングを受けながら、警察は早急な対応を求められた。捜査本部はマスコミに向けて記者会見を行い、犯人の目撃情報を集めた。


 話題が大きくなるに連れて、目撃情報も多く寄せられる。けれど、不確かな情報に悪戯電話も増えた。その対応に追われ、捜査は更なる遅れを取る。


 エンジェル・リードから連絡が来たのは、そんな頃だった。













 1.水底のマグマ

 ⑶掌












 エンジェル・リードの天神から連絡を受け、坂田はわらにも縋る思いで雑居ビルを訪れた。繁華街は相変わらず騒がしく、ビルの辺りばかりが異世界のように静まり返っている。


 坂田が扉を叩くと、航が顔を出した。

 航は猫のような目を真ん丸にして、驚いたみたいに瞬いた。




「死人みてぇな顔色だぞ」




 坂田には、笑う余裕も無かった。

 捜査は進展せず、上層部には圧力が掛かり、世論からはバッシングを受け、殺人犯の手掛かりは一つも掴めない。


 四人目の被害者が出た時、不謹慎ながら、早戸ではなくて良かったと思った。けれど、それも最早時間の問題だった。銃を所持した連続殺人犯が近くに住んでいる無防備な女子高生を狙わないとは限らない。そして、その魔の手がいつか自分の家族さえも奪って行くのではないかと思うと、冷静ではいられなかった。


 エンジェル・リードの事務所は、以前と同じく整頓され、微かに甘い匂いがした。何処かで嗅いだことがある筈なのに、思い出せない。


 航は落ち着いていた。嵐の前の静けさみたいな穏やかさで、坂田を応接室に案内した。応接室のソファには既に天神が座って待っていた。




「こっちから話すか? それとも、先に聞こうか」




 天神が言った。

 坂田はソファに座り、拳を握った。天神のエメラルドの瞳は凪いだ水面のようだった。




「……四件目の事件が起きた」




 坂田が言うと、天神は顎を引いた。

 航が緑茶と羊羹ようかんを運んで来て、テーブルに置いた。けれど、坂田には手を伸ばす気力も無かった。




「凶器はニューナンブで、足の裏に火傷があったか?」




 天神が尋ねた。

 坂田は奥歯を噛み締めて、頷いた。

 同一犯による連続殺人事件であることは間違い無いのに、犯人の手掛かりが一つも掴めない。素人による無差別殺人ではない。認めたくはないが、これは恐らく、玄人による犯行だ。


 ハヤブサと呼ばれる殺し屋。

 坂田にはそれを笑い飛ばすことが出来なかった。天神は短く息を吐いた。




「うちのボスから伝言だ。……被害者は資産家で、或るコミュニティに所属していた」

「コミュニティ?」




 捜査では、被害者の共通点は見付けられなかった。富裕層という共通点も、四人目の犯行で崩れた。だが、このエンジェル・リードは警察にも掴めなかった情報を手に入れている。


 壁に寄り掛かっていた航が、冷めた目で言った。




「芸術品の売買を行うコミュニティだ。俺達は直接取引したことは無いけどな」




 エンジェル・リードは若い芸術家に資金援助する個人投資家。彼等はエンジェル投資家と呼ばれ、投資の見返りとして株式や転換社債を受け取る。エンジェル同士でコミュニティを形成し、情報の共有や共同出資を行うこともあると言う。


 彼等には独自の情報のパイプがある。

 天神は両手を組むと、忌々しげに言った。




「中々胡散臭い連中だったみたいだな。贋作を売り捌いたり、若手の作品を安く買い叩いたり、やりたい放題だ」

「……だが、最後の被害者は資産家じゃねぇ。一人暮らしの会社員だ」

「資産家の定義にもよるが、コミュニティに所属してたのは確かだよ。IPアドレスも一致するし、本人だ」

「おい、それって」




 ハッキングじゃないか。

 彼等が何者なのかよく分からないが、ハッキングは犯罪である。坂田が睨むと、航は肩を竦めた。




「やったのは俺じゃねぇよ。大体、これって司法取引って奴だろ?」

「……まあ、良い」




 彼等のやったことに関しては追及しても仕方が無い。それよりも、犯人を逮捕することが先決だ。

 天神は身を乗り出した。




「さて、此処からはビジネスの時間だ。俺達はアンタの欲しい情報を与えた。これで貸し借りは無しだ。だが、うちのボスはまだ手を貸してやっても良いと考えている」




 天神の瞳が怪しく光る。

 坂田は身構えていた。何故だろう。この男は武器も持たず、語調も荒げず、穏やかに語っている。だが、相対するとまるで首元に刃を突き付けられているかのような戦慄を感じるのだ。




「俺達は、そいつ等のコミュニティと接触する術がある」

「……見返りは?」

「アンタの持っている情報さ」

「何のことだ?」

「それを教えることは、まだ出来ないな。アンタは腹芸が上手くなさそうだ」




 航が言った。

 確かに、得意ではないけれど。


 天神は長い足を組むと、ゆったりと言った。




「心配すんな。何も犯罪に手を貸せって言ってる訳じゃねぇ。死ぬな、殺すな。それがうちのボスの口癖だ」

「お前等のボスって、一体何者なんだ?」




 未だに姿を見せないエンジェル・リードのボス。

 年齢、性別、国籍。凡ゆる情報が秘匿されながら、裏社会の情報を獲得する術を持つ。

 天神は人差し指を口に当て、笑った。




「真実というものは隠されているからこそ、美しいのさ。アンタはただ選べば良い。この取引に応じるか、否か」




 坂田は唇を噛んだ。


 エンジェル・リード、及び天神達の目的は不明。その正体すら分からない。だが、確かなことがある。彼等にはこの連続殺人事件を解決する手段があるということだ。


 前すら見えない暗闇の中、一筋の光が差し込むのが見える。それはか細く頼りない灯火で、やがて闇に消える夕陽の残光なのかも知れない。けれど、此処で二の足を踏んでいたら、また誰かが殺される。そしてそれは、自分の大切な人かも知れない。




「取引しよう、エンジェル・リード」




 崖に身を投じる覚悟で、坂田は言った。

 天神と航は嬉しそうに口角を吊り上げて笑った。




「契約成立だな」




 天神は笑って、左手を差し出した。

 殆ど自棄っぱちで、坂田はその手を取った。天神の掌は温かかった。血の通った掌だ。坂田は、微かな違和感を覚えた。

 天神はすぐに手を離してしまったが、坂田は掌に残る感触に既視感を抱いた。


 天神の左手の親指に、胼胝たこがあった。

 現代日本では有り得ない筈のものだった。

 しかし、証拠は無い。追及する術も無い。だが、恐らくそれは、慢性的に銃器を扱う者に出来る。


 連続殺人事件の凶器は拳銃である。

 まさか、こいつ――?


 坂田が天神を凝視していると、航が言った。




「Strike while the iron is hot!! 足踏みしてる時間は無いぜ」




 坂田ははっとした。

 天神という男は、堅気の人間ではない。余り信じたくないが、銃器を慢性的に扱う裏社会の住人である可能性もある。それでも、事件を解決するという一点に於いては味方だった。


 航は天神の座るソファに回り込み、背凭れに座った。




「来週、そいつ等のコミュニティのパーティがある。俺達は其処に乗り込んで情報収集をする」

「怪しまれないのか?」

「俺達は投資家だぜ? 金になりそうなパーティに顔を出して何がおかしい」

「それって、俺も行くんだよな?」

「……アンタって、御人好しだよな」




 航が呆れたように言った。

 褒められていないことは分かる。




「俺等の情報が真実かどうか、アンタはどうやって確かめるつもりなんだ? 与えられた情報を鵜呑みにしてるだけじゃ、真実には辿り着けないぜ」




 返す言葉も無かった。

 航という青年は言葉も態度も尊大だが、本質的には賢く、慎重な人間なのだろう。年齢以上に成熟し、肝も据わっている。


 天神は背凭れに寄り掛かり、面倒臭そうに言った。




「しかし、パーティか。俺はそう言う堅苦しいのは御免だぜ? 大体、男三人で行ったら目立つぞ」

「侑は裏方で良いよ。俺の予想では、多分ハズレだ」




 何のことか分からないが、二人はまるで悪戯を思い付いた悪童のように笑っている。航は坂田を見遣り、揶揄からかうみたいに言った。




「詳細は改めて連絡するよ。アンタはパーティで悪目立ちしない一張羅いっちょうらを用意しておいてくれ」

「マジかよ……」




 作戦会議というものは、それでお終いだった。

 終始、彼等の思い通りに進んでいるように感じられた。それは、見えない糸で四肢を繋がれ、誰かに操られているかのような気味の悪さだった。


 航は少し困ったような顔をして、声を落とした。




「そういやさ、あの絵なんだけど」

「ああ」

「俺はやっぱり嫌な感じがするんだよ。あいつにも話したんだけど、連絡取れないし……」

「学生時代の友達に会うって言ってたからな。大体、もう決めたことだろ? 恨むなら、自分の勘を恨むんだな」




 何の話か分からないが、彼等は説明する気も無さそうだった。

 坂田が席を立つと、航が手付かずの茶菓子を残念そうに見下ろしていた。野良猫が餌を前にお預けを食らっているみたいで、良心が痛む。




「茶菓子、悪かったな。良かったら食べてくれ」

「俺は甘いものは好きじゃない」




 厚意で言ったのに、きっぱりと断られて唖然とした。

 航は羊羹を天神に押し付け、坂田の見送りに来てくれた。


 扉を開けた時、目の前に人が立っていた。

 坂田が驚いて声を上げると、向こうからも悲鳴が上がった。弾みで倒れそうになるのを、航がさっと支える。坂田は慌てて謝罪した。




「悪かった。大丈夫か?」




 髪の長い、陰気な女性だった。

 二十代前半か、後半か。長い前髪に分厚い眼鏡、野暮ったい服装のせいか年齢がはっきりしない。坂田が声を掛けると、その女性は視線を落としたまま曖昧に頷いた。


 不安そうに胸の前で両手を握り、視線は下の方を彷徨う。前髪と眼鏡のせいで表情もよく分からない。折れそうな程に華奢な両手首に包帯が巻かれているのが見えた。怪我だろうか?


 航は女性から離れると、短く謝罪した。意外と女性に優しいのかも知れない。




「じゃあな、坂田さん」




 航はまるで厄介払いをするみたいに、手を振った。

 此処に居座る必要も無い。捜査本部に挙げるべき情報もある。坂田は家にある礼服を思い浮かべながら、警視庁までの道を急いだ。

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