⑷深淵

 無秩序と思われていた被害者に共通点が見付かったのは、大きな進展だった。それは捜査という航海に於いて羅針盤を手に入れたも同然だった。


 しかし、これが秘匿性の高いコミュニティで、政財界の大御所が絡んでいるということから事態は混迷を極めた。厄介なことに、思わぬ政治的圧力が上層部に掛かり、公安警察が介入することになったのだ。


 連続殺人事件の凶器が警察官の支給品であることから、公安警察は早い段階で内部調査を行なっていたらしい。捜査本部は不協和音を生じ、糸が張り詰めるような緊張に包まれていた。


 息が詰まるような会議を終えた後、坂田は本部長を追った。巽は喫煙所に入ったので、坂田も煙草を取り出した。息子が産まれてから禁煙していたのだが、仕方が無い。喫煙所で得られる情報というものが大きいことも、身を以て知っていた。


 巽は坂田を見ると、得心したかのように「ああ」と言った。

 坂田が側に寄ると煙草に火を点けた。




「……どうだ、あいつ等は」




 エンジェル・リードと坂田を繋げたのは、巽である。

 彼等が裏社会に精通した集団であることは分かったが、何故、態々自分に仲介させたのか坂田には分からなかった。




「胡散臭い奴等ですが、俺達に必要な情報を持っています」

「そうだろうな」

「……本部長は何故、俺に仲介させたのですか?」




 巽は旨そうに煙草を咥え、ゆっくりと煙を吐き出した。柔らかな紫煙が空中に湧き上がり、天井の換気扇に吸い込まれて行く。巽は紫煙をぼんやりと眺めながら、訊ねた。




「お前は、正義というものを信じるか?」

「は?」

「俺は、正義というものを信じている。だが、あいつ等はそれを信じていない。……だからだよ」




 そう言ったきり、巽は黙ってしまった。

 意味は分からなかった。けれど、坂田もまた、巽と同じように正義を信じていた。道徳的な正しさや、公平な救済、或いは刑罰。罪には罰が下るように、社会の秩序を守る意志。


 エンジェル・リードは、正義を信じていない。

 それは一体、どういう意味か。坂田には、想像することも出来なかった。


 喫煙所を出た時、妻からメッセージが届いていた。一張羅の礼服をクリーニングに出したから、帰りに受け取って欲しいとのことだった。坂田は感謝の言葉と共に了承の返事を送った。


 携帯電話をポケットに入れようとした時、待ち受け画面で息子がポーズを決めているのが見えた。最近、流行っている戦隊ヒーローの決めポーズだと言う。


 正義が何たるかなんてことは、分からない。けれど、家族に幸せでいて欲しい、安全でいて欲しいと思う。その為には秩序というものが必要で、坂田はそれを守る番人だった。

 それが正義ではないと言うのならば、最早そんな言葉に意味なんて無いと思った。


 駅前に差し掛かった時、見覚えのある人間がいた。

 寝巻きのような地味なグレーのパーカーを着ているのに、目を奪われるような可愛らしい少女である。

 早戸ちなみは坂田を見付けると、まるで子犬のように懐っこく駆け寄って来た。




「坂田さん。仕事帰り?」

「いいや、まだだよ。そっちは?」

「これからデート!」




 早戸は嬉しそうに言った。

 件の彼氏か。坂田は苦く笑った。


 駅前の喫茶店から芳ばしい珈琲の匂いがした。待ち合わせをしているのかも知れないが、彼女の地元は五反田である。デートスポットも無いし、どうしてこんな所にいるのだろう?


 訊いてみたいような気もしたが、詮索する必要も無かった。もしかしたら、彼氏の家がこの近辺なのかも知れない。


 愛想良く笑う早戸を見ていると、不思議と活力が湧いて来る。四件目の事件が起きたのは彼女の地元だった。事件は解決していないが、あの時は生きた心地がしなかった。


 無事で良かった。そして、彼女のような一般市民が健やかに安全に暮らして行ける社会を守ってやりたいと思う。




「この前、お前の家の方で事件があったろ。あんまり遅くまで出歩くんじゃないぞ」

「坂田さんって、お父さんみたい」




 早戸が笑った。




「あれって、ニュースでやってる連続殺人事件なんだよね? お父さんから聞いたんだけど、被害者の中に議員の元秘書の人がいたでしょ」

「ああ」

「あの人って、結構悪いことやって来たみたいだね。……なんだっけ。ゼネコンだか、賄賂だか、癒着だか」

「お前のお父さん、何者だよ」




 坂田が笑うと、早戸も笑った。




「普通のサラリーマンだよ。噂の議員先生と高校の同級生だったって」

「……」




 坂田は早戸に向き直った。癖で懐から手帳を出しそうになり、寸前で堪えた。早戸は情報提供ではなく、世間話のつもりで言っている。信憑性は低い。




「難しい話は忘れちゃったな。……お父さんにもう一度聞いた方が良い?」




 早戸が不安そうに言った。坂田が真剣に聞き入っていることに気付いたのだ。

 坂田は慌てて首を振った。




「いや、大丈夫だ。それより、彼氏と仲良くな」




 坂田が言うと、早戸は微笑んだ。

 その時、早戸がぱっと表情を明るくして坂田の後方を見た。釣られるように振り返ると、其処には見間違う筈のない青年が立っていた。


 エンジェル・リードのアルバイト、航。

 男から見ても惚れ惚れする程の美青年である。航は坂田を見ると嫌そうに顔を歪めた。早戸が駆け寄って行くのを坂田は愕然と見ていた。


 娘に彼氏が出来た時はこんな気持ちなんだろう。

 坂田には息子しかいないが、何となく寂しくて、腹立たしい気持ちになる。航は居心地悪そうに目を逸らし、早戸は輝くような笑顔で手を振った。並び立つと、確かにお似合いの二人に見えた。


 世間と言うのは、思うよりも狭い。

 坂田は込み上げる可笑しさを呑み込み、駅に向かって歩き出した。













 1.水底のマグマ

 ⑷深淵











 三人目の被害者である那須川芳雄は、元参議院議員の秘書だった。エンジェル・リードの調査で、美術品の買い占めや贋作の売買にも関わっていることが判明している。


 気に掛かることがあった。

 早戸の言っていた、元参議院議員の黒い噂である。ゼネコン、賄賂、癒着。とても女子高生から聞かれるような単語ではない。父親から聞いたと言っていたから、恐らく意味も知らずに話したのだろう。


 歌舞伎町周辺で活動する子飼いの情報屋がいる。

 二年前、坂田が職務質問した時に覚醒剤の所持が認められ、司法取引して情報屋となったのだ。それ以来、金と引き換えに界隈の情報を流して貰っている。


 名前は、藍村晴子あいむら はるこ

 ブロンドの長髪にヘーゼルの瞳をした女である。崩壊した家庭で生まれ育ち、ろくな教育も受けられないまま社会に放り出され、そのまま裏社会に転落した憐れな女だった。薬物の密売や水商売で生計を立てていたようだが、現在は歌舞伎町のスナックで働いているらしい。


 連絡すると、藍村はすぐに呼び出しに応じた。駅から離れた薄暗い路地裏で、藍村は化粧もせずに寝癖頭のまま現れた。真冬だと言うのに下着のようなタンクトップに、モッズコートを一枚羽織っただけだった。


 見ているだけで寒くなる。

 藍村は坂田を見付けると、中華料理店のポリバケツに座ったまま手を上げた。




「何だい、景気の悪そうな顔をして。捜査は進んでいるんだろ?」




 坂田は黙っていた。此方から渡す情報は無い。

 藍村は軽薄に笑っている。坂田はポケットに手を入れた。




「元参議院議員の秘書が殺されたろ」

「ああ。何だっけ。ええと、山元先生の秘書の」

那須川芳雄なすかわ よしお

「そうそう。ニュースでやってた」




 元参議院議員、山元努やまもと つとむ

 現在は引退して、大手ゼネコン企業に天下りしたと言われている。そもそも、早戸のような女子高生が話すような話題ではないのだ。


 エンジェル・リードの調査を疑う訳ではないが、もしかすると、被害者の共通点は資産家のコミュニティだけではないのかも知れない。




「那須川に黒い噂があったことは、知っているか?」




 坂田が訊ねると、藍村は気怠そうに髪を掻き上げた。




「……まァ、良い話はあんまり聞かなかったね」




 藍村は言った。


 山元と那須川は、裏社会では名を馳せた資産家だったらしい。賄賂に賭博。暴力団関係者とも繋がりを持ち、地方の地上げにも関わっていたと言う。


 しかし、彼等はマスコミや司法にコネクションを持ち、その悪事は終に裁かれることは無かった。彼等が私服を肥やしたその影で、一体どのくらいの人が苦しみ、不幸になったのか。




「十年くらい前にね、東北の山奥にダムを造っただろう? 住民の反対を押し切って、強引に建設を進めたんだ。かなり酷い遣り方をしたらしい。立ち退きに反対した住民を自殺に追い込んだって話も聞いてる」

「……」




 その話は、知っている。

 東北の山奥に大型ダムを作る為、辺り一帯の小さな町村が潰された。その中で苛烈な反対運動を起こした村があった。名前は確か、――豊栄村とよさかむら

 今はダムの底に沈み、地図から消えた山村である。




「四人目の被害者、庵原奈津子いはら なつこは豊栄村の出身らしいね。母親は村の役場に勤めていて、ダム建設に賛成して大金貰ったらしいじゃないか」




 坂田はポケットの中で拳を握った。

 山元参議院議員、那須川芳雄、庵原奈津子が繋がった。

 これはもう少し調べてみた方が良いだろう。ダムの底に沈んだ豊栄村。坂田は手帳に簡単にメモを取り、藍村に現金を手渡した。


 藍村は愛想良く手を振って、路地裏の奥へ消えて行った。


 坂田はその足で図書館に向かった。十年前のダム建設に関わる新聞を探すつもりだった。電車に揺られながら携帯電話で検索を掛けるが、大した収穫は無い。情報規制、或いは操作。誰かが意図的に記事を削除している。


 怪物と闘う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気を付けなくてはならない。深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているのだ。


 ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェの名言である。

 ぞっとする言葉だ。都内の図書館に向かう途中、坂田は夢を見た。それは光の届かない深い水底に沈み行く、悲しい村の夢だった。

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