エンジェル・リード

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1.水底のマグマ

⑴蛇の道

 Art is not made to decorate rooms. It is an offensive weapon in the defense aganist the enemy.

(芸術は部屋を飾る為のものではない。それは、敵に対する防御の為の凶器なのである)


 Pablo Picasso






 それは、除夜の鐘の鳴り響く大晦日の夜だった。


 首都圏某所の神社は、初詣に訪れた参拝客で賑わっていた。濃紺の夜空を焚き火が照らし出す。浮かれた若者が缶ビールを片手に暖を取りながら、燃え盛る紅蓮の炎を眺めていた時、その奥に奇妙なものを見た。


 それは、人形のようだった。

 黒く焼け焦げたそれは、鼻を突くような異臭を放ちながら炭化して行く。若者は暫し呆然とした。そして、次の瞬間、除夜の鐘を掻き消すような悲鳴を上げた。


 声は言葉にならなかった。転げるように焚き火から離れ、ビールが辺りに散乱する。酒精を漂わせた仲間は笑いながら何事かと尋ねる。野次馬と化した参拝客が集まり、神社関係者が駆けて来る。けれど、若者は言葉を失くしたまま、顔面を蒼白にして焚き火を指差した。


 誰もがその指先を見た。

 音を立てて爆ぜる薪、真っ赤な炎。そして、その炎の奥に一体の人形が倒れている。頭髪や衣服は燃え滓となり、表皮は青白くふやけていた。地面に頭を擦り付けるような姿勢で硬直したそれは、――正しく、だったのである。


 肉の焼ける嫌な臭い、炭化して割れる骨、崩れ落ちる肉体。恐怖に逃げ惑う人々で辺りはパニック状態となった。焚き火の中に突如として現れた謎の遺体は、パトカーが到着するまでの15分間燃え続けたのである。











 1.水底のマグマ

 ⑴蛇の道











 冬の日差しは、脆く透き通る硝子に似ている。

 箒となった街路樹を眺めながら、坂田冬馬さかた とうまは歩いていた。気温は10℃を下回り、乾燥した風が臓腑に染みた。


『大晦日に現れた焼死体』

『警察は事件性のあるものとして捜査本部を設立』


 大晦日の夜に現れた死体は、多くの一般市民に目撃されていたことから世間の関心を引いた。暇を持て余した若者はオカルト染みた憶測をSNSに投稿し、捜査の怠慢を責めては惰眠を貪る。


 新年に見合わない血腥い事件である。

 捜査本部が立てられたのは事件発覚から数時間後。しかし、それは界隈で起きるを引き継ぐ形となっていた。


 そう、連続殺人事件。

 大晦日に起きた事件は、同一犯による連続殺人事件だった。

 警視庁捜査一課の坂田は招集を受け、捜査に加わった。その時には既に二人もの尊い命が奪われていたのである。


 捜査本部が連続殺人事件と断定したのは、二人目の被害者が見付かった十月だった。


 最初の被害者は外資系企業に勤める会社員で、自宅で眉間を銃弾で撃ち抜かれて即死。次の被害者は開業医で、勤務先である内科クリニックの更衣室で腹部を数発撃ち抜かれて出血死していた。


 そして、三人目の被害者は大晦日の夜、神社の焚き火の中から焼死体として見付かった。司法解剖の結果、死因は銃弾で顳顬こめかみを撃ち抜かれたことによるショック死だった。被害者が元参議院議員の秘書であったことから、上層部には政治的圧力も掛かっている。


 銃器による連続殺人事件に、暴力団関係者も疑われたが、目ぼしい情報は出て来ない。被害者同士には今の所、接点は無く、共通するのは富裕層の人間であるということだけだった。


 捜査は膠着している。だが、警察には、マスコミには伏せている情報が二つあった。


 司法解剖の際、遺体の足の裏に印が見付かった。それは焼鏝やきごてを押し当てたような火傷の痕で、殺害後に犯人が残したものだろうと考えられている。


 また、殺害に使われた銃弾は.38スペシャル弾、サーティーエイトスペシャルとも呼ばれる。遺体から摘出された銃弾には施条が残っており、凶器となった銃はニューナンブM60だろうと判明した。


 ニューナンブM60は、警察の主力拳銃である。つまり、一連の事件が警察関係者による犯行である可能性が出て来たのだ。

 遺体に残されたメッセージ、警察の主力拳銃。政治的圧力に組織内の疑心暗鬼。捜査と関わりの無い外的要因が進歩を阻害している。犯人が見付からない以上、犯行は続くだろう。犯人像も目的も不明瞭な現在の状況は、羅針盤も無くいかだで夜の海に乗り出すような状態であった。


 坂田は独自に捜査を進め、子飼いの情報屋から或る話を聞いた。それは現代社会では到底理解不能の御伽話のような与太話であった。


 この国の裏社会には、抑止力と呼ばれる殺し屋がいる。

 最速のヒットマンと称されるそいつは、ハヤブサと呼ばれ恐れられていると言う。


 坂田は都市伝説の類だと笑ったが、遺体の足の裏に残された印を思い出していた。それはアルファベットのVの形で、丁度、翼を広げた鳥に似ていたのである。


 捜査会議に取り上げる程の情報とは思えなかったので、坂田は本部長であるたつみに直接伝えた。すると、巽は苦い顔をして、秘密裏に坂田へ或る指令を出したのだった。


 蛇の道は蛇。

 そう言って巽が差し出したのは一枚の銀色の名刺だった。其処には素性を示す情報は無く、電話番号と共に聞いたことのない名前が記されていた。




「エンジェル・リード……」




 胸の内に呟いた言葉は、声となっていた。

 道行く人は振り向きもせず、目的地に向かって歩き続ける。坂田は悴む両手をトレンチコートのポケットに突っ込み、拳を握った。


 巽の話では、エンジェル・リードは若い芸術家に資金援助する投資家らしい。本名も年齢も性別も分からない。だが、そいつは裏社会に精通し、凡ゆる情報を獲得する術を持っている。


 エンジェル・リードについて坂田も調べてみたが、情報は見付からなかった。目に見えず、質量も無く、活動も実績も不明の投資家はまるで幽霊のように薄気味悪かった。


 警視庁のある桜田門から電車を乗り換えて凡そ30分。

 眠らぬ街と呼ばれる歌舞伎町の片隅に、廃ビルのような寂れた雑居ビルがあった。繁華街の喧騒に溶け込まない建物は、まるで墓場を訪れたかのような静寂と居心地の悪さを持っていた。


 坂田は覚悟を決め、ビルの入口を潜った。

 建物は地上三階建ての雑居ビルで、どんな会社がどんな風に仕事をしているのか全く分からないが、表札の類は一つも出ていなかった。叩けば幾らでも埃が出て来るような連中が、この街にはボウフラのように湧き出している。


 寂れた雑居ビルの最上階。其処が彼等の事務所である。

 巽の話を思い返す。彼ではなく、彼等と言った。つまり、此処には正体不明の裏社会の人間が複数いるのである。


 鉄の扉は赤く錆び、針金の入った磨り硝子はまるで雨に打たれる水面のようだった。真鍮の取手は鈍く光り、蛍光灯を淡く照り返している。


 まさか、いきなり発砲なんてことはないだろう。

 坂田は、扉の向こうにいる裏社会の住人を想像した。岩のような大男か、それとも胡散臭い優男か。日本語が通じる相手であることを祈り、坂田は扉を叩いた。


 乾いたノックの音が響く。

 扉の向こうから微かな物音が聞こえた。坂田は扉が開く前に姿勢を正し、軽く咳払いをした。


 蝶番が軋んだ。

 冷や汗が滲む掌を握る。扉がゆっくりと開かれ、坂田の前には一人の色白な青年が立っていた。




「アンタが坂田さん?」




 ぱっと火花が散ったようだった。

 室内灯の淡い光を見事な金色の髪が反射する。宝石のようなエメラルドグリーンの瞳が坂田を見る。それはまるで、映画俳優のように整った顔立ちをした男だった。


 日本語は、通じそうだ。

 内心で胸を撫で下ろし、坂田は肯定した。男は子供みたいに無邪気に笑っていた。




「話は聞いてるよ」




 包み込むような柔らかな声で、その男は扉を大きく開けた。ブラインドカーテンの隙間から零れ落ちる日差しが、飴色の机の上に縞模様を作る。青々とした観葉植物と整頓された家具、木目調の床には埃一つ無く、清潔感に溢れている。


 坂田が促されるまま足を踏み入れると、男は後ろ手に扉を閉めた。擦れ違う時、甘い匂いがした。香水とは違う、まるで新鮮なブーケのような優しい香りだった。


 ああ、何だったっけ。

 この匂い、何処かで嗅いだことがある。

 けれど、思い出せない。


 応接席に促され、坂田は緊張を押し殺して座った。皮張りのソファに体が沈み込む。男は斜め前の一人掛けのソファに腰掛けると、花梨素材のテーブルにあの銀色の名刺を置いた。




「俺は天神侑てんじん たすく。好きなように呼んでくれ」




 そう言って、天神は白い歯を見せて笑った。

 日本人だったのか。坂田はにわかに驚いた。天神侑の容姿は、何処となく異国の雰囲気が感じ取れた。


 坂田が名刺を受け取ると、天神は背凭れに体を預けた。

 名刺には『エンジェル・リード』と電話番号のみ。怪しまない方が不自然だ。坂田が名刺を睨んでいると、天神は鷹揚に言った。




「うちは主に海外から美術品の買い付けや、芸術家への資金投資なんかをやってる」




 芸術品と聞いて、オフィスを見渡した。

 壁に掛けられた抽象画、棚の上の鉢植えには複雑な模様が刻まれ、青色のサイネリアが花を咲かせている。オフィスは木目調に揃えられ、品があった。




「胡散臭く見えるかも知れないが、犯罪には手を出していない。税金も払ってるしな」

「……」

「警察の捜査なんだろ? 協力するよ。アンタの所のボスには借りがあるからな」




 巽と天神は一体、どのような繋がりなのだろう。

 天神は嘘を吐いているようには見えない。だが、エンジェル・リードそのものが余りに胡散臭いので、天神も怪しく見えるのだ。


 まあ、良い。

 エンジェル・リードや天神のことは後程、巽に訊くとして、自分にはやるべきことがある。




「大晦日に見付かった焼死体のことは、知ってるか?」

「銃殺なんだろ?」

「ああ。その事件について捜査しているんだが、状況は膠着している」




 坂田は膝の上で拳を握った。

 腹の底で、怒りに似た炎が燻っている。被害者の苦しみ、遺族の慟哭。そして、犯人を捕まえる為に外部の力を頼らなければならない現状。全てが腹立たしく、悔しかった。




「犯人に繋がる手掛かりが、情報が欲しい」




 天神は困ったように眉を寄せて俯いた。

 金色の長い睫毛が透けて見える。芸術品を取り扱うと言っていたが、坂田には天神自身も芸術品の一つのように見えた。


 天神は金髪を撫で付けて、首を捻った。




「悪ィが、俺はただの連絡係なんだ」

「どういうことだ?」

「俺は、アンタから聞いた話をボスに伝える。うちのボスがアンタの欲しい情報を調べる。そんで、俺がアンタにそれを教える」




 天神は所謂、仲介者らしい。しかも、ボスと呼ばれる人間が別にいて、そいつは裏社会から情報を集める術を持っている。




「そっちのボスに直接会うことは出来ないのか?」

「今の所、その予定は無い」




 きっぱりと、天神が言った。




「だが、協力出来ることはやるぜ? 俺達はアンタ等の敵じゃねぇ。それとも、書類が無いと信用出来ないって性質たちか? 用意してやっても良いが、すぐには出せねぇ」

「……いや、結構だ」




 件のボスに話が通るまでどのくらい掛かるのか、坂田には分からない。手掛かりとなる情報が届くまで犯人が待ってくれる筈も無い。


 坂田は居住まいを正した。

 蛇の道は蛇。巽の言葉を思い出す。エンジェル・リードは、警察組織では獲得出来ない情報を手に入れる術がある。警察の仕事は犯人を捕まえることだ。それは組織の面子ではなく、国民を守る為である。


 これで情報が外部に漏れたら、始末書じゃ済まないだろう。

 坂田は溜息を飲み込み、天神に向き合った。

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