⑹掃き溜め

 首都にそびえ立つロイヤル・ホテルは、夜の闇の中で一際輝いて見えた。結婚式以来利用したことの無かった高級ホテルは、平日の夜にも関わらず美しく着飾った富裕層の人間で溢れている。


 坂田はクリーニングから戻って来たばかりのスリーピースのスーツに身を纏い、そわそわと待ち人の姿を探し続けた。


 本部長の巽に事情を話して捜査会議を抜け、箪笥たんすの肥やしとなっていた一丁羅を引っ張り出し、中々現れない待ち人を探す自分を俯瞰ふかんしては情けなくなる。生涯縁の無さそうな高級ホテルに富裕層のパーティ。自分は本当に此処にいて良いのだろうか。


 入口で何度も時計を睨んでいたら、ドアマンが精錬された動作で中へ促した。立っていられるのも迷惑だろうと思い、坂田は案内されるままホールに足を踏み入れた。


 受付ホールは、沢山の利用客がいた。ホテルマンが仮面のような笑顔で一人ずつ丁寧に案内して行く。坂田は目を盗むように入口近くのソファに座り、膝の上で手を組んだ。


 先日の作戦会議では、天神は先に潜入することになっていた。坂田は航と入口で合流し、パーティの参加者として出席する。


 これで航が来なかったら、自分はとんだピエロである。

 コーヒーの一杯でも飲んで帰ろうかとメニューを見れば、ぼったくりのような高額で驚いた。どれだけ高級な豆で、水なのか。最後にカップを持ち帰らせてくれるのだろうか。


 気が遠くなる。

 坂田がメニューから目を上げたその時、煌びやかな受付ホールがぱっと照らされたような気がした。


 入口から、一人の青年がやって来る。まるで彼にだけスポットライトが当てられているかのようだ。ドアマンが動作を躊躇ちゅうちょする。利用客が振り返る。時計の針すら動きを止めたような無音の瞬間が空間を支配する。


 その青年は、ダークグレーの細身のスーツに身を包み、堂々と入口を潜った。ピカピカに磨かれた革靴と、銀色のタイピンが美しい。栗色の短髪をワックスで軽く立たせ、精悍な顔を晒し、意志の強そうな眼差しで前方を見据えている。


 その美しい青年は、坂田の方を見て足を止めた。

 辺りの人間が此方を振り返る。坂田は、何処かに隠れたいような逃げ出したいような気持ちだった。




「坂田さん」




 航が、坂田を呼んだ。

 立ち振る舞いだけで、映画のワンシーンを見せられているかのように感じさせる。




「待たせたな」




 一人だけ高画質の世界にいるみたいだった。

 それは航という青年が、自分とは違う世界の住人であることを痛感させるには十分過ぎる程の存在感だった。




「さあ、行こうか」




 航は不敵に笑って、ホテルの奥を睨んだ。

 裏社会の社交場。魔窟。敵の本陣を見据える航の瞳はぞっとする程に美しく透き通っていた。















 1.水底のマグマ

 ⑹掃き溜め












 シャンデリアは氷の柱のようだった。

 降り注ぐ細かな光の粒子がホールを眩く照らし出す。着飾った紳士淑女が談笑し、正しく上流階級の社交場のようだった。


 先導する航は、まるで舞台の主役のような存在感を放っている。擦れ違う人々が振り返り、はっと息を呑むのが小気味良かった。坂田はその後ろを影のように歩き、参加者の顔触れを観察した。


 参加者の中には、政財界で名を馳せる大御所の姿も見掛けられた。大手企業の幹部、銀行の役員、鉄道会社の社長。錚々そうそうたる顔触れである。


 航が凛と背筋を伸ばして歩いて行く。その先は自然と開けて、まるで無人の帯のようだった。航はウェイターからカクテルグラスを受け取ると、颯爽と社交場に溶け込んで行く。


 こいつは、何者なんだ?

 航はエンジェル・リードのアルバイト。しかし、裏社会の重鎮の集まるこの社交場に混ざる姿は、堅気の人間には見えなかった。


 航は自然な動きで奥のバーカウンターに行くと、高級感漂う椅子に座った。すぐ様、バーテンダーが現れ、要望を訊ねた。


 航はカウンターに肘を突き、揶揄うみたいに笑った。




「馬子にも衣装だな」

「うるせぇよ」




 苦笑混じりに返って来た声に、坂田は驚いた。

 黒縁眼鏡の奥で、エメラルドの瞳が光った。見た目はバーテンダーだが、中身はエンジェル・リードの天神だった。糊の効いたシャツに格式高い黒のベスト。すっと伸びた背筋に端正な顔立ちが目を惹く。


 航は椅子を回転させ、フロアを見渡した。それは遥かな水平線を眺めるかのような遠い眼差しだった。




「此処は掃き溜めだな」




 航が喉の奥で笑った。




「どいつもこいつも、他人の人生を餌にするクソ野郎さ」

「全くだ」




 天神が同意して、カクテルグラスを差し出した。

 淡いエメラルドグリーンのカクテルは、天神の瞳によく似ていた。航は透明な眼差しでカクテルグラスを揺らしていた。




「じゃあ、ちょっと行って来るわ」

「何処に行くんだ?」

「ビジネスだよ」




 航が椅子から降りた。

 いってらっしゃい、と天神が微笑んだ。


 説明もせず、航はフロアを突っ切って消えて行く。

 坂田はバーカウンターに取り残され、疎外感を噛み締めながら天神を見遣った。天神は視線を落としてグラスを磨きながら、声を潜めて言った。




「うちのボスが褒めてたよ。アンタはだって」




 天神は冷めた顔付きでフロアを眺めていた。




「何のことだ?」




 坂田が問い掛けた、その時だった。

 フロアの明かりが消えて、辺りは闇に包まれた。ドラムロールが空気を震わせ、突然、赤い緞帳がライトアップした。

 手前の壇上にスーツの男が現れる。喜劇のようなコミカルな動きで礼をすると、会場がわっと盛り上がった。




「何が始まるんだ?」

「オークションだよ」




 スーツの男は司会者らしかった。舞台役者のような巧みな話術で会場の意識を引き寄せ、オークションの開催を高らかに宣言する。


 暗闇の中で、天神の声がした。




「所謂、闇オークションだよ。美術品や工芸品に限定してるらしいが、リストには盗難品や贋作が幾つも混ざってる」




 司会者が出展品を紹介する。重厚な雰囲気を持つ油絵、白亜の壺、歴史を感じさせる彫刻。その中には、盗難品や贋作が混ざっていると言う。


 天神の言葉が本当ならば、自分は今、とんでもない犯罪を見過ごしていることになる。分かっていたのなら、どうして。


 俺達はビジネスをしている。

 天神の言葉が蘇る。坂田は血の気が引いた。つまり、彼等はビジネスの為に犯罪を看過し、剰え利用しようとしているのである。


 エンジェル・リードは犯罪組織ではない。だが、罪と知りながら見逃しているのでは、犯罪者と変わりないではないか。




「ロットNo.26! なんと此方は、あのエンジェル・リードからの出品です!」




 会場が沸き立つ。エンジェル・リードと呼ばれる投資家が、裏社会でもそれなりの評価と地位を持っていることを感じさせた。


 舞台には一枚の油絵が登場した。厳しい金色の額縁の中、その絵画は一際不気味な空気を纏っている。

 水面、といえばその通りである。けれど、其処には血のように赤い炎が、まるで鬼火のように映り込んでいる。底知れない恐怖が頭の中を塗り潰す。客の中から悲鳴と嘆息が漏れた。




「作者は無名の芸術家ですが、この絵画から滲む狂気は見る者を惹き付け、離しません! エンジェル・リードは、この作者の未来を会場の皆様に委ねたいと仰っております!」




 惨い。余りにも惨い遣り方だ。エンジェル・リードは若い芸術家に資金援助する。そして、優れた芸術家の作品を裏社会で売り捌く。

 こんな遣り方では、芸術家の未来は絶たれてしまう。日の目を見ることは無い。他人の夢を踏み台にして、彼等はビジネスをしている。




「こんな遣り方は卑劣だ……!」




 坂田は拳を握った。振り返る者はいない。

 誰も彼もが目の前の餌に夢中で、他人のことなんてお構い無しだ。




「アンタは何か勘違いしている」




 天神の声は、穏やかに凪いでいた。其処には喜怒哀楽の類は無く、まるで原稿を読み上げているかのようだった。




「本来、芸術と社会的尺度は別の話だ。それなのに、世間は保身や自己利益の為に芸術の価値を変える。キリスト国家でイスラムの宗教画が評価されるか? 殺人鬼の詩を子供達に歌わせるか? 戦時下で敵国の工芸品を飾るか?」




 くだらねぇ。

 天神が吐き捨てる。柔和な光を宿していた筈のエメラルドの瞳は闇の中で鈍く光る。其処にあるのは仄暗い諦念と、身を焦がすような憎悪だった。




「エンジェル・リードは、それを最も正当に評価する相手と取引をする」

「それが、悪人だと分かっていてもか……?!」




 天神はせせら笑った。




「俺は正義も悪も信じない」




 坂田は、足元が抜け落ちるかのような虚無に苛まれた。

 天神という男は、砂漠のように乾き切っている。感情や信念ではなく、論理的で実用的な利益だけを求める冷たい商人だ。




「俺なんかに構ってる暇あんのか? アンタがやるべきことは何だ?」

「……」

「まあ、此処からは肥えた豚の腐臭はするが、火薬と殺意の匂いはしねぇ。ハズレだな」




 どういう意味だ。

 まるで天神には、殺人鬼の気配が感じ取れるみたいじゃないか。


 オークションから歓声が溢れて、司会者の興奮した声が響き渡る。




「ハンマープライス! ロットNo.26! 八千五百万で落札!!」




 薄闇の中で、天神は笑っていた。

 坂田には、目の前にいるのが一体何なのか分からなくなっていた。此処にいるのは、人間なのか。


 エンジェル・リードは正義というものを信じていない。

 巽本部長の言葉が耳に蘇る。俺は、何かとんでもないものに手を出してしまったんじゃないか?


 オークション会場は、割れんばかりの拍手と歓声に包まれている。だが、天神の周囲だけは切り取られたかのような静寂に包まれ、まるで世界が死に絶えたかのようだった。


 その時、オークションの方から歓声が上がった。




「ロットNo.32! 五百二十万で落札!」




 拍手が巻き起こる。歓声の中心には、番号札を持った航がいた。どうやら、彼が落札したらしい。

 壇上にあるのは、木製の工芸品らしかった。素朴なフォルムの器に、雄大な自然が繊細に彫刻されている。たかが、木の器。けれど、其処には価値がある。


 エンジェル・リードはビジネスで此処に来ている。

 売れない若い芸術家を、正当に評価してくれる者を求めている。彼等が本当に売りたいのは、美術品ではなく、エンジェル・リードという名前なのではないか。


 この裏社会の重鎮共に、エンジェル・リードの資産と権力を認識させ、支持させる為に。それはエンジェル・リードが出品した絵画と同じなのだ。


 彼等は、善人ではない。

 だが、悪人と呼ぶには余りにも、彼等は純粋だった。


 オークションが終了すると同時に、フロアは再び明るく照らし出された。散って行く人混みの中から、不機嫌そうに航がやって来る。天神は苦笑した。


 航はポケットに手を突っ込んだまま、ぼんやりと言った。




「もう此処に用は無ぇ。――後は宜しく」




 天神はサムズアップした。

 何をするのだろう。航は兎に角、人目を惹く。移動すれば目立つだろう。


 天神はカウンターの上にタンブラーを並べた。通り掛かった女性が同伴する男の腕を引く。天神は気障にウインクをすると、鮮やかな手付きでシェーカーを回転させた。リキュールの瓶が宙を舞う。人々は自然と足を止めて、天神のショーに夢中になった。


 並べられたタンブラーにシェーカーからカクテルか注がれる。それはラピスラズリのような濃紺から、透き通るような淡いグリーンへグラデーションを作り出した。


 まるで手品を見ているみたいだった。天神がカクテルを差し出すと、若い女性が嬉しそうにそれを受け取った。その頃には航は出口の方にいて、坂田は慌てて追い掛けた。

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