⑺道導

「良いことを教えてやるよ」




 ホテルのエントランスに向かう途中、航が言った。




「アンタが調べてる殺人事件の犯人は、単独犯じゃない。殺しの素人だ。ハヤブサじゃねぇ」




 ハヤブサとは、最速のヒットマンと呼ばれる裏社会の抑止力。そんな都市伝説みたいな話を、彼等は当然のことみたいに語る。




「ハヤブサは狙撃のスペシャリストだ。証拠を残すような真似はしねぇし、何より、復讐を請け負わない」




 まるで、その殺し屋を知っているみたいに。

 エントランスに到着すると、航は振り向き、さっと周囲を見回して声を潜めた。




「警察の動きが漏れてんぞ。内通者がいる」




 坂田は奥歯を噛み締めた。

 分かっている。捜査本部には公安の密偵が入り込んでいて、何処からか情報を抜き取られている。だから、マスコミに伏せていた筈の情報が新聞に載って、自分達は世論からバッシングを受けている。




「凶器や火傷の痕に囚われ過ぎるなよ。それはただの撒き餌で、釣り針じゃない」

「どういうことだ」




 坂田が低く問い掛けると、航は言った。




「俺から話せる情報は、今の所それだけだ。……分かってるだろうが」

「鵜呑みにするな、だろ?」




 言葉の先をさらって言えば、航は嬉しそうに口角を吊り上げた。一般人ではない。だが、悪人にも見えないのだ。この航という青年には、何か信じてみたくなる不思議な魅力がある。




「アンタはちゃんと真相に近付いてる。大丈夫。俺の勘は当たるんだ」




 何の確証も無いけれど、航の言葉は力強かった。

 航は右手首の時計を眺めた。時刻は午後九時半。彼が未成年ならば補導される時間帯だ。


 送るべきだろう。

 坂田が声を掛けようとした時、航が言った。




「俺はこの後、用がある。だから、此処からは別行動だ」

「……分かった」

「またな」




 航はそう言うと、颯爽と歩き出した。

 人の波をすいすいと掻き分け、あっという間にホテルの出口に消えて行く。取り残された坂田は、まるで夢でも見ていたかのような心地で、溜息を吐いた。














 1.水底のマグマ

 ⑺道導みちしるべ













 東北の山奥、ダムの底に沈んだ豊栄村。

 豊栄村は、ダム建設の際に村全体が水没することから激しい反対運動をしていた。けれど、国家権力に逆らうことは出来ず、或る者は金銭を得て村を離れ、或い者は抵抗を続け自殺に追い込まれた。


 散り散りになった住民は故郷を離れ、殆どの者が静かに慎ましく暮らしている。けれど、元住民はダム建設を振り返り、あれは失策ではなかったと語る。


 日本列島が深刻な渇水に見舞われた時、大型台風が直撃した時、豊栄村の沈んだ浦賀ダムは人々の生活を守った。当時、反対していた村人も今では好意的に過去を受け止めている。


 つまり、あのダム建設を恨む者はもういなかったのだ。それどころか、豊栄村の排他的で閉鎖的な空気に嫌悪感を抱いていたという声まで聞かれた。


 では、何故、連続銃殺事件の被害者が同郷であったのか。無関係と考えるには、余りにも不自然な符号の一致である。


 何か見落としているのか。それとも、誤りが?

 坂田は、捜査会議で報告しながら、会議室に立ち込める不穏な空気に目眩がした。本部長は坂田の話を黙って聞き終え、特に追及もしなかった。


 警視庁から桜田門までの街路樹に囲まれた石畳の道を歩きながら、坂田は考えを巡らせた。豊栄村に愛着を持ち、復讐心に駆られるような住民はいない。ならば何故、被害者達は銃殺されたのか。


 凶器と火傷の痕は撒き餌で、釣り針ではない。

 航の言葉を思い出し、坂田は頭を掻き毟った。そうして顔を上げると、駅前に見覚えのある少女がいることに気付いた。


 携帯電話を片手に辺りを見回す様は、彼氏と待ち合わせをする女子高生そのものだった。平日の昼下がり。思えば、坂田は彼女が制服を着ている所を見たことが無かった。




「早戸」




 坂田が呼ぶと、早戸は顔を上げた。

 黒いパーカーにダウンベスト。カジュアルでユニセックスな服装は、一見するとラフだが、早戸の外見が整っている為か街角スナップのように様になっていた。


 辺りにはコーヒーの匂いが漂っている。先日も此処にいたが、定番の待ち合わせ場所なのだろうか。

 坂田が歩み寄ると、早戸は携帯電話をポケットに押し込んで微笑んだ。




「今日も待ち合わせか?」

「そう。少し早く着いちゃったんだけど、お店に入る程でも無いかなって」




 早戸は控えめに笑った。




「最近、向こうも忙しいみたいなんだよね。でも、ちょっとでも顔が見たくて」




 そう言って、早戸は両手を擦り合わせた。

 鼻の頭が赤い。一月の寒風に晒され、冷えてしまったのだろう。自販機でホットココアでも買ってやろうかと思ったが、早戸はやんわりと断った。




「此処等辺ってあんまりゴミ箱無いでしょ。持ち物が増えるの嫌なんだ」

「まあ、その気持ちも分かるけどな。風邪引くなよ?」

「うん、ありがとう」




 早戸は灯火のように、微笑んだ。

 街の雑踏を眺める早戸の目は、満天の星みたいに輝いている。それは大好きなテレビ番組を見詰める息子に似ていた。




「坂田さんは、どうして警察官になったの?」




 世間話みたいな気軽さで、早戸が尋ねた。子供のような純粋な好奇心が、坂田には眩しく映った。




「そうだな……。俺は、正義の味方になりたかったんだよ。誰かの幸せを守れるような人間に」




 幼い頃にテレビで見た正義の味方。

 弱きを助け、悪を挫く。窮地にいる人に手を差し伸べて、もう大丈夫だよと笑ってやれるような、そんなヒーローに。


 けれど、そんなものはこの世の何処にもいなかった。

 弱者を助けるにも、悪人を裁くにも、手続きがいる。法は万能ではなく、救済は平等ではない。家族の平穏を守るだけで精一杯で、他者を気に掛ける余裕も無い。


 それでも、続けていればいつか報われるんじゃないかと。

 届くのではないかと願いながら、抗いながら、日常と立場にしがみ付くことしか出来ない。


 正義とは実行力が伴った場合にのみ運用されるシステム。

 天神の言葉が脳裏を掠める。きっと、そうなのだろう。俺達の信じる正義や常識なんてものは影も形も無い曖昧模糊なもので、絶対なんて無い。




「……坂田さん」




 細い声で、早戸が言った。




「息子さんが好きな戦隊ヒーロー、テレビで見たよ。主人公は警察官らしいね」

「そうなのか」

「坂田さんと同じだね」




 早戸は濃褐色の瞳に柔らかな光を灯していた。

 彼女の言いたいことが分かる。息子の憧れるヒーローは警察官。それだけで、胸が軋むように痛んで、両眼が熱くなる。




「負けないでね、正義の味方」




 早戸は穏やかに微笑んでいた。




「誰かの幸せを願うのなら、自分も幸せでなければいけないよ。自分の未来を踏み台にしていたら、酷いしっぺ返しを食らう」




 その声は笛のように澄んでいた。

 両手に息を吐き出して、早戸は柔らかく微笑んだ。




「幸福を独りで味わうことは出来ないよ。だから、どうか家族を大切にね」

「……分かったよ」




 坂田が苦笑すると、吐息を漏らすように早戸が笑った。


 不思議な少女だった。今時の女子高生らしかぬ達観した物言いに、何かを見透かすような眼差し。坂田が張った予防線をいつの間にか擦り抜けて、まるで当たり前みたいに側で笑っている。




「そういえば、この前、家族で出掛けたんだ」




 早戸はそう言って、ポケットに手を伸ばした。

 取り出されたのは掌程の小さな饅頭だった。透明なパッケージには黒糖の文字がプリントされている。大凡、女子高生が選ばないような渋い品だった。




「お土産だよ。あげる」

「何処の土産なんだ?」

「何処だと思う?」




 早戸は白い歯を見せて挑戦的に笑った。

 黒糖饅頭なんて温泉街なら何処でも売っていそうだ。坂田はパッケージを開き、艶々とした丸い饅頭を眺めた。早戸は子供のように目を輝かせ、坂田の答えを待っている。


 坂田は口の中に饅頭を放り込んだ。

 黒糖の優しい甘さが口の中に広がり、何となく懐かしいような感覚がする。その時、早戸が顔を上げた。




「……あ、来た」




 早戸は駅前を見遣って、大きく手を振った。

 利用客も疎らな改札口から、背の高い青年がやって来る。

 航は早戸に気付くと少しだけ笑って、坂田を見て顔を歪めた。思春期の子供は扱い難いが、見ているだけなら微笑ましい。


 航は荷物を抱えていた。両手で抱える程に大きなそれは、一枚の板のようだった。厳重に包装されているが、早戸へのプレゼントだろうか。

 先日、航はオークションで美術品を何点か落札していた。その中に絵画もあったような気がする。




「もっと厚着して来いよな。寒くなるって言っただろ」

「歩けば暖かくなるよ。ねぇ、それより」




 早戸は、航の抱えた荷物を見ていた。

 航は「ああ」と声を漏らして、包装を丁寧に剥がした。


 それは、一枚の油絵だった。

 繊細なタッチで描かれた油絵は、まるで朝日を浴びた水面のように七色に輝き、不可思議に透き通って見えた。


 湖畔の水面を描いた写実的な絵画。細やかな筆遣いには卓越した技量を感じさせるのに、まるで鏡でも見ているみたいに印象に残らない。不思議な絵だった。




「新作だね」




 早戸が言った。

 油絵の隅にサインがある。Nagisa.K ――。

 絵画のタッチが違うので分かり難いが、坂田はそのサインに見覚えがあった。エンジェル・リードがオークションに出品したあの不気味な油絵にも、同様のサインがあった。


 これはもしかすると、エンジェル・リードが売り出そうとしている新人の油絵ではないだろうか。


 航は早戸をじっと見詰め、低く問い掛けた。




「どう思う」




 早戸は絵画を見遣り、背景の山脈を指差した。




「この山の稜線を見たことがある気がする。確か東北の……、ええと」




 早戸は顎に指を添え、俯いた。

 東北の山脈。不吉な符号だ。嫌な予感がする。

 早戸は絵画を睨んだまま、静止画のように動かない。


 顔立ちは柔和な印象を与えるのに、その視線は鋭く研ぎ澄まされ、まるで抜身の刃のようだった。吸い込まれそうな集中力だった。雪夜のように彼女の周囲から音が消えて行く。


 早戸は黙り込んでいたかと思うと顔を上げ、ぱっと微笑んだ。




「忘れちゃったな。ああ、でも。航は記憶力が良いから、覚えているかも知れないね」

「……」

「芸術のことはよく分からないな」




 早戸は肩を竦めて笑った。

 航は黙っていた。息の詰まるような沈黙だった。航は暫く絵画を睨み、静かに早戸を見詰めた。




「やることが出来た」

「分かった」




 早戸が返事をすると、航は踵を返した。

 寒空の下に彼女を待たせていた癖に、釣れない態度だ。坂田が呼び止めようとした時、航は振り向いた。




「坂田さん、一緒に来いよ」




 早戸ではなく、自分なのか。

 航が呼ぶということは、事件に関わることなのだろう。だが、早戸を置いて行って良いものなのだろうか。


 早戸はにこにこと笑いながら、手を振った。




「またね、航」




 そう言って、早戸はさっさと歩き出してしまった。

 顔を見れたらそれだけで十分。欲のないことだ。航は既に背中を向けて改札を越えていた。坂田はパスケースを取り出し、後を追い掛けた。


 プラットホームに辿り着いた時、航は緊張した面持ちで携帯電話を弄っていた。




「彼女は良いのか?」

「あいつを巻き込みたくねぇ」




 航は苦い顔をして言った。




「アンタをうちの芸術家に会わせてやる。それが一番手っ取り早い」

「どういうことだ?」




 航は答えなかった。

 プラットホームに東京メトロ有楽町線の急行電車が滑り込む。航は黙って電車に乗り込むと、また携帯電話を見詰めていた。


 吊革を掴みながら、坂田は流れ行く車窓を眺めていた。

 そして、先程の早戸の言葉を思い出し、問い掛けた。




「お前はどうしてエンジェル・リードにいるんだ?」




 航は携帯電話から顔を上げた。




「大切なものを守りたいからだよ」




 航の真意は分からない。

 だが、その濃褐色の瞳は冬の朝のように澄み渡り、大地に根を張る大木のように力強い。航という青年が、相応の覚悟と信念を持ち、裏社会の海千山千の曲者と渡り合う力を持っていることを実感させた。

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