平和な町


 狗神とは通常『犬神』と書く。


 現代では精神疾患の一種として診断される「狐憑き」と同視されることもあるが、犬神は狐霊が自然と憑く狐憑きよりも呪術的要素が強い。


 犬神を作り出すには、空腹の犬の首を落とすとも、蟲毒こどくのように争わせて生き残った犬の首を跳ねるともいわれる。


 そうして怨みを抱える犬の霊から産み出された犬神は、多くの場合はそのまま主人にとり憑きあるじに富や不幸を与えた。


 式神の代用として用いられることもあるが、呪詛を多く含み使役するには損利が釣り合わない。一歩間違えれば主人が先に、犬神に憑き殺されるからだ。


 昔から、犬神憑きの家系が富み栄るのは、代わりの誰かに不幸を与えるためだと信じられてきた。


 それゆえ、憑き物筋──動物霊に取り憑かれた家系──は村人たちからうとまれる。


 ないがしろにすれば呪われ、関わりすぎればあだを受ける。


 百害あって一利無し。


 それが、呪術社会及び村社会における犬神憑きの立ち位置であった。


 では、現代社会ではどうだろうか?


 犬神伝説は日本全国に類似した伝承が伝わるが、異形も多い。特に九州と四国では、つい最近まで犬神を使役する犬神憑きの家系の存在が確認されていたとされる。


 あらゆる神秘が科学的説明によって根絶されつつある近世。


 それでも、異端に対する人間の目は、簡単に変わるものではなかった。





 隣を歩く少女に合わせ、真信はいつもよりゆっくりと歩を進める。


 校舎を出て数分で、すでに深月みつきは頼りなさげな歩調になっている。朝は気が回らなかったがよほど体力がないのか、もしくは身体に不調があるのかもしれない。


「大丈夫? やっぱりおぶろうか?」


 白い肌がさらに青白くなっているのを見てとって、真信まさのぶは再度、深月へ呼びかけた。


 しかし少女は首を振って周囲を見渡す。


「この時間は人通り多いから。気力は回復したし。……それに、たまには歩かないとねー」


「健康のため?」


「生きるため。人間寝てるだけで体力使うから不便なんだよー。もちょっと楽な進化を遂げなかったかなー」


「なんの話だ?」


 唯一おんぶのことを知らない常彦つねひこが二人を振りかえる。


「人間は正しく進化できたのか、って話だよ」


 なんとなく友人に朝のことを話すのが気恥ずかしくて、真信はそう誤魔化した。


 一緒に教室へ入っただけであれほど注目を浴びたのだ。深月の言うとおり、悪目立ちしないよう心がけたほうがいいのかもしれない。


(深月が特に目立つっていうのもあるけど)


 目を見張るほど端正な顔立ちに心底疲れ果てたような色を乗せていたら、いやでも男の意識をかっさらう。声をかけたくなるのも無理はない。


 現に今もいくつか視線を感じる。

 中には真信に向けられたものもあるようだが、おそらくただの嫉妬だろう。


 そう結論づけ、真信は背中に刺さる観察するような視線を無視することにした。


「正しい進化で語るなら、そりゃ人間は失敗作だろ」


 前方から予想外の言葉が返ってきて二人は思わず顔を見合わせた。深月もようやく常彦に興味を持ったようで、初めて彼に目を向ける。


「どうして?」


 かわいい女の子に問われては無下むげにする男はいないだろう。しかし常彦は普段通りの態度で思案してみせる。イケメンはイケメンらしく、女慣れしているのかもしれない。


「合理的に強い遺伝子を残していくには、感情が豊かすぎるからな」


 特に愛ってやつは厄介だ、と常彦は巫山戯ふざけた調子で語る。けれど言葉にまやかしはないようで訂正しようとはしなかった。


 相づちを打つのは真信だ。


「愛は宗教と同じっていうからね」


「そりゃ初めて聞いたな」


「そう? だから気をつけろっていうのが家訓の一つなんだけど」


「お前ん家の事情なんて俺が知るか! お前ホント、なんかズレてるよなぁ」


「やだな、僕なんて常識人の範疇はんちゅうだよ」


「自覚なしかよおい」


 じゃれ合う男子二人組を尻目に、深月は興味なさげに八百屋の野菜をつついている。いつの間にか商店街に入っていた。


 野菜を物色しようと真信が深月の隣に立つと、少女はどこか遠い目をして呟く。


「愛とかどうでもいいけど。感情は大事だよ。これだけは捨てるわけにはいかないんだなー」


 少女の言い分の指し示すものが分からず真信は首を傾げた。常彦も立ち止まった二人に気づいて近づいてくる。


 八百屋の前に並んだ高校生三人に、目を止める者があった。


「おんや、常ちゃんお友達かい?」


 道行く老婆が声をかけてきた。常彦が老婆に気づいて走り寄る。


「あれ、婆ちゃん買い物か?」


「いやね、中谷さん宅にコレ、持っていこうと思ってね」


「俺が帰るまで待ってたらいいのに。そんくらい持ってくよ。重たいだろ?」


 腰の曲がった、にこやかな表情をした人の良さげな老婆だった。目を細めて老婆は常彦と親しげに会話している。


 真信達の視線に気がついた常彦が、二人に老婆を示した。


「俺の婆ちゃん」


「どうも常ちゃんの祖母です。常ちゃんがお世話になってます」


「いえ、こちらこそ」


 丁寧に挨拶され真信も慌てて頭を下げる。深月も、さっきまでの気だるさを感じさせない綺麗なお辞儀をしていた。


 老婆はにこにこと微笑んでいる。笑顔が常彦と似ていると真信は思った。


「かわいらしいお友達だねぇ」


「おう。こっちが転校生の平賀真信。んでこっちが、クラスメイトの樺冴かご深月さん」


 二人の名前を聞いて、老婆が突如青ざめた。いや正確には、深月の名字を聞いた瞬間だ。


「常彦! こっちに来なさい!」


 老婆が態度を豹変ひょうへんさせて怒鳴る。周りには驚いて足を止めるものもいた。

 変化についていけない常彦が困惑しながら老婆と友人を見比べる。


「どうしたんだ婆ちゃん、いきなり──」

「いいから!」


 急に激昂げっこうした大声だった。眉間にしわが寄り、歯を食い縛る様は仏どころか修羅のようだ。


 真信は一つおかしな所に気づく。老婆の目の端に浮かんでいるのは、怒りではなく恐怖の念だった。


 いつまでも立ち尽くす孫に痺れを切らせた老婆は、深月を露骨に避けながら常彦の腕を掴む。


 そのまま、どこからそんな力が出るのかという勢いで常彦を引きずっていった。


「二人とも悪い。今日はとりあえず帰るな。また明日!」


 常彦の叫びも遠ざかって消えていく。


 騒々しい商店街の中でも今のやり取りは目立ってしまったらしく、道行く人々の奇異の視線が突き刺さる。


「真信、さっさと帰ろう」


 そんな中、深月は何事もなかったように先にたって歩き始めた。


 真信は真っ直ぐ伸びた背を追いかけた。彼女の姿勢は美しく品があり、なのにどこか痛々しい。


 追いついて、深月の顔を覗き込む。


「いまのって……」

「別に。よくあることだよ」


 そう言い捨てた深月はどこまでも無色透明な視線を宙に固定したままで、そこからどんな感情も読みとれなかった。


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