自由人
いかにも優しそうな微笑みを浮かべた少年は、おもむろに深月の隣に腰を下ろす。すると深月も本を脇に退け、奈緒に向き直った。
これから何が始まるのか奈緒には分からない。しかし最悪に備えて心を強く保つべきなのは間違いないだろう。奈緒は緊張を隠して、平然を装う。
口火を切ったのは少年のほうだった。
「一応、はじめましてだよね。僕は平賀真信。この家に居候してる身だ。それと、こっちは家主の樺冴深月。僕らを
「こちらこそ初めまして。
奈緒は皮肉を込めて丁寧に頭を下げた。しかし真信の微笑みは崩れない。結果、口角をひきつらせたのは奈緒だけだった。彼らがどこまで奈緒のことを知っているのか、まだ測れない。
「ていうか、この状況を説明してほしいんですが。ここって深月先輩の家ですか」
「そうだよ。状況に関しては……キミのほうがよっぽど理解してるんじゃないかな」
「はっ。意味わかんないんですけど。真信先輩、人と意思疎通する気あります?」
「あるよ。けど、怪しい人間に話を合わせて煙に巻かれたくはないからね」
さりげなく主導権はこちらにあるのだと線引きをされた。心を見透かすような少年の眼光に思わず袖を握り締め居住まいを正した奈緒へ、真信は質問を始める。
「本題から聞こうか。キミはあいつらの仲間?」
「アイツらってどいつらですか?」
「……質問を変えよう。なんで僕と深月を監視してたのか、説明してほしい」
「監視なんて物騒なことしてませんよ。あたしはただ、お二人のご関係に興味があったというか……」
「興味?」
あいにく真信は、可愛い女の子に身辺探られて鼻の下を伸ばすタイプの少年ではなかったらしい。
今からでもどうにか純情な後輩的な認識にすり替えられないかと、奈緒が顔を赤らめさせながら誤魔化しに入った瞬間。スパーンッ! っといい音を立てながら
廊下に立っていたのは、両手両足を大きく開いた小柄な少女だった。
よほどの勢いで走ってきたのか、肩甲骨辺りまである美しい金髪が金糸のように舞い上がっている。少女は前髪をカチューシャで全部上げておでこを全開にし、ついでに分厚い丸眼鏡をかけていた。ダボダボの白衣の下にはちょっと色合いがサイケなボーダーの服を着ている。
変わった出で立ちの少女は場の視線を独り占めしながら、今度は静かに障子を閉めた。その顔にはなぜか満面の笑みが浮かんでいる。
呆気にとられる人々の中で唯一冷静なままの真信が、少女に訊いた。
「何やってるの、マッド」
「チょっと失礼無礼講しマすです!」
……ちょっと何言っているかわからないです。奈緒はそう言いたくなるのを必死に我慢した。
マッドと呼ばれた少女は場の困惑をものともせず、我が物顔で部屋の真ん中までやってくる。
「ちょっとそコ退いテくーだセリなずな!」
「七草?」
そしてそのまま畳を一枚引っぺがし、おもむろにその下へと潜り込んだ。どうやら隠し通路があったらしい。
「んデは、みなみなサンサン内緒でネ! しィー」
人差し指を唇にあて、少女はだんだん畳の下に消えて行った。畳も元通りで階段の存在など
部屋の中を何とも言えない空気が満たしている。数人は頭痛を堪えるような顔で沈黙していた。
変わらず眠たげな様子の深月が、隣の真信をつつく。
「ねー真信ー」
「なんだい深月」
「うちにあんな隠し通路あったっけ」
「この前、一斉捜索した時にはなかったはずだけど……。マッドめ、報告しなかったんだろうなぁ」
世の中不思議なことがいっぱいあるらしい。我に還った奈緒も、つい身震いする。
「なんですか今の言葉すら通じなさそう子。なんかコワッ」
「マッドだよ。いつものことだから気にしないで」
「余計気になる……」
「それより、話を戻そう」
「えぇ~もうそんな気分じゃないんですけど~」
「それは素直にごめんね。じゃあ――」
真信が質問を再開しようとした時だった。
またしても障子が開く。
そこには長身の女性が立っていた。女性は鋭い目つきで部屋を見渡している。
あ、またこれ置いてけぼりになるやつだ。奈緒は直感的にそう理解し、口を閉じた。
「静音、なにやってるの」
先ほどと同じように真信が訊く。しかして今度は、ちゃんとした返答があった。女性は折り目正しく頭を下げ障子を閉める。
「お話し中失礼します。マッドがこちらにやって来ませんでしたか? 追いかけているのですが、逃げ足が速く」
「マッドが何かやったの?」
「はい。花壇に植えていた薬草が、先ほど確認したところ全てトリカブト等の毒草に植え替えられていました。事情を聞こうと話しかけたら逃げ出したのであれは黒です」
「マッド……」
「彼女がどこに行ったかご存知ありませんか?」
女性の言葉で、部屋にいた面々が一枚の畳を一斉に指さした。誰一人内緒にする気はないらしい。
「この畳がどうか……え? めくるんですか? ええっと、あっ、階段。この奥にマッドが……?」
みんな無言で頷く。女性は戸惑いながらも中に入っていった。途中、深いっとか長い暗いですっとか聞こえた気がするが、女性を手助けする者は誰もいなかった。
再び満ちる沈黙を、緊張の糸を完全に引き千切られた奈緒がやけくそ気味に破る。
「冷蔵庫のプリン消味期限今日までだったの思い出したんで、もう帰っていいですか」
「いや……うん……度々ごめんね?」
真信のせいではないが、少年は責任を感じているようである。彼は苦笑を申し訳なさそうに歪め、立ち上がろうとする奈緒を引き止めた。少年は咳払いして今度こそ話を戻す。
「あー……とりあえず、キミはあの二人の男の仲間じゃないんだね」
「そうなりますね」
「僕らを
「それはだから、興味があったんですよ。強いて言うなら、『恋する乙女心は常識に囚われない☆』とかですかね」
「ですかねって。本人がそれ言うの?」
「なんか面倒になっちゃって……。あ~あれですよ、先輩たちがあたしの質問に答えてくれたら、真面目に話しますよ」
にこやかに笑って提案してみると、予想外にも真信は頷いた。
「僕はいいよ。深月もそれでいい?」
「うん。先輩がなんでも答えちゃうよー」
深月はなぜかちょっと得意げである。その様子が可愛らしくて、奈緒の頬もちょっと緩む。
しかしいつまでも和やかな歓談をしている場合ではない。なので奈緒は、本当に訊いてしまいたいことを隠して、ちょっと遠いところから責めてみる。
「お二人の関係って、なんなんですか。なんか同棲してるし。真信先輩、あの深月先輩とやけに親しげだし。一年生の間でも噂になってるんですよ~?」
それは身構えていた彼にとって予想外の質問だったのだろう。真信は目を丸くして口ごもっている。
代わりというように深月が答えた。
「私と真信? 友達だよ。それとー、世話係で、飼い主」
「…………え~っと? 深月先輩が真信先輩を飼ってるってことですか?」
それもどうだろうと思いつつ、しかし常識的な倫理観を持つ奈緒としては、それ以外考えられない。けれど、深月はなぜか首を横に振る。
「ううん。真信が私の世話係兼飼い主」
「――――同級生の女の子をペット扱いとか、真信先輩マジ
「いや違うよ!?」
不本意な見解に顔を青ざめさせた真信が立ち上がって抗議する。
「確かに僕は深月の世話係で、なぜか飼い主ってことになってるけど、そうである前に深月は僕の主人なんだ! 僕は深月の下僕なんだよ!!」
物理的に空気を震わせる渾身の叫びだった。
反響音が屋敷にこだまして遠くなっていく。
さきほどよりも痛い沈黙が、部屋を圧迫していた。
「…………あの、先輩方。そういうプレイは二人きりの時にやってもらえます……?」
「あぁっ、墓穴っ!」
盛大に自爆した真信は顔を覆ってしまった。
「ま~関係性なんて人それぞれですしね。キモイ真信先輩のことはどうでもいいです」
「キ、キモっ……?」
奈緒にトドメを刺され、真信が胸を押さえてうずくまる。謎の攻防は奈緒の勝利と相成った。
さめざめと傷ついている真信の頭を、深月が慰めるように撫でている。奈緒はそれを見ながら満足げに笑った。
「はあ、最近のストレスが良い感じに発散されました、スッキリ。約束通り、答えますよ、質問」
奈緒は少しやり過ぎたかと反省しながら、どうぞと手を広げてみせた。しかし真信はショックから回復しきれていない様子だ。すると今度も深月が代わりという感じで手を上げる。
「じゃあ私が訊きたいことでいーかな。えっとーもく、もくもくさん……」
「あ、木蓮奈緒です。もくれんなお」
自分は間違ってもそんな、工事の邪魔をする妖怪みたいな名前ではない。奈緒の訂正を受けて深月が言い直す。
「奈緒ね、うん。ねぇ私は思うんだけどね。奈緒ちゃんってさー、少なくとも『善良な一般市民』ではないよねー」
深月の発言で場の空気が変わるのを感じた。緩んでいたいろんなものが一瞬にして張りつめる。彼らにとってここからが核心なのだろう。心臓の音が速くなっていくのが露見しないように、奈緒は冗談めかして微笑んだ。
「……やだなぁ先輩、こんな人生で一二を争うカワイイ後輩捕まえて。でも……もし深月先輩の言う通りだとして~、なんでそんなこと分かるっていうんですか?」
「わかるよー。だって、奈緒ちゃんさっきから、始めて会った時の真信と同じことしてるから」
深月が左手を持ち上げて、決定打を口にした。
「その袖の中、なに隠してるの?」
さっきからずっと位置を確認して準備していた袖口を指差され、奈緒はへらっと脱力するように笑う。
次の瞬間、奈緒の手の中で何かが
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