お面


 それは二週間ほど前、隣町での出来事だった。


「よく来たにゃん! まぁそこに座るといいにゃん。おっと、未成年に酒は出せぇねからそこんとこよろしくにゃん」


 地下でひっそりと営業している小さなバーの扉を開けると、やけにデフォルトされた猫のお面をかぶったバーテンダーがそう喋り始めた。

 お面に合わせた語尾ではあるが、声は中年男性の裏声そのもの。可愛らしさの欠片も無い。


 といってもマスターがこの調子なのはいつものことだ。普段は書面でしかやりとりがないが、顔を合わせると必ずこんな調子である。なので奈緒なおは気にも留めず、空調に赤毛を揺らして椅子へ座った。


「んで? あたしに変な依頼ってなんです?」


 単刀直入に訊いた。フリーで働いている奈緒のような人間も、こういった怪しい仲介者と顔見知りにならねば、高額の仕事にはありつけない。特に客や区間の元締めと直接会わないようにしている奈緒はなおさらだった。


 お面の男はグラスを拭きながら言う。


「名指しでお前さんを指名してるんだにゃん」


「? そんなの珍しくもないじゃん。現役女子中学生とか、現役女子高生とかいう肩書好きなのはみんな一緒」


「そうじゃない」


 奈緒の言葉は、一段と低い声音に遮られた。ふさげたようにしか喋らないこの男が、珍しく地声で語り掛けてきた。


「“木蓮もくれん奈緒なお”に名指しで依頼だ」


「……はっ? どういうことそれ。まさかとは思うけど、たかが仲介者のクセにあたしの情報もらした、とか言いませんよね」


 奈緒が腰を上げそで下に隠していたナイフを構えると、お面男はまた調子を戻して、慌てたように首を横に振って否定する。


「へいへいどうどう、落ち着けにゃ阿呆。ニャーはプロだにゃ。こっちには何の不備もにゃいんだ。むこうさんが調べたんでしょうよう。アンタたしか、よく個人で余計なこと調べてたにゃん? たぶんそっちから辿られたんじゃにゃいかにゃ」


「それって……」


「そう、アンタがやろとしてる。その手がかりになるかもってことにゃ。まあニャーは興味ないけどにゃ?」


 仲介者に過ぎない彼が、奈緒たちフリーの者に深く踏み入ることはない。そう予防線を張りながら男は封筒を差し出した。猫のお面に隠れて男の表情は見えない。


 しかし奈緒は、そのお面の下が透けて見えるようだった。こういう仕事は人格破綻者か平穏を捨てた者の吹き溜まりだ。そんな奴らの考えることなど奈緒には手に取るように分かる。


「面倒な依頼だが、最後にやることは変わらにゃい。殺せばいいだけにゃ。――――さぁ、この依頼、受けるかにゃ?」


 男は笑っている。

 俯瞰ふかんから狂気パーティーの行き着く先を愉快げに眺めながら。






「んん~…………ぬ?」


 顔に生暖かい風とこそばゆさを感じて、木蓮もくれん奈緒なおは眠りから目覚めた。


 重たい瞼をゆっくりと開く。白熱電球の目映い光に眩んだ焦点が、予想よりも間近に像を結んだ。


 寝ぼけ眼に飛び込んできたのは、毛むくじゃらの物体だった。


「ちょっ、なに」


 頭を起こしてよく見てみれば、それは猫の顔だった。もちろんお面ではない。本物の猫だ。

 鼻をひくつかせた猫が熱心に奈緒なおの顔を嗅いでいた。


 くすぐったくて猫と距離を取ろうとして、奈緒は自分の手が後ろで縛られているのに気づく。それだけでない。畳の上に座布団を枕にした状態で寝転ばされている。そでに触れるとあれだけ雨に打たれたはずなのに服は乾いていた。


「ごめっ、猫ちゃん退いて」


 執拗に顔を嗅ごうとしてくる三毛猫を避けて、奈緒はわけも分からず上体を起こす。


 そうして自分のいる部屋の状態を見て、彼女はなんとなく事態を察した。


 そこはふすまと土壁に囲まれた広めの和室だった。奈緒はその壁際に転がされている。


 室内にいるのは彼女だけではない。五、六名ほどの人間がぼんやりと宙を見ていたり、小声で会話をしていたりする。年のころも性別もバラバラだ。共通点と言えば、誰も奈緒を見てはいないことくらいか。


 眠ってしまう直前のことを思い出す。所々があやふやだが、自分が彼らに捕まってしまったことは確かなようだ。


 誘拐か、監禁か……という雰囲気でもない。部屋の隅に自分の通学カバンも見つけた。見張られているというよりは、目につく範囲に放置しているといった感じか。


(てか、マジ誰もあたしに関心なさそうなんですけど。誰でもいいから話通じそうな人いないかな~)


 などと考えていた奈緒は、唯一年の頃の近そうな少女を発見した。

 少女は着物をなんだか着崩れさせたまま、柱に寄りかかって和綴わとじの古い本をつまらなさそうにめくっている。その顔には見覚えがあった。


「あの、樺冴かご先輩ですよね」


 少女は間違いなく樺冴かご深月みつきだ。すこぶる美人なので学校に慣れてきた一年生たちの間でもよく噂になっている人物だ。


 しかし京葉中学からそのままエスカレーター式に進学してきた内部生からはなぜか遠巻きにされている。他の生徒とちょっと距離があるというか、浮世離れしているように見えるのは、彼女の持つ独特の空気感のせいだけではないだろう。


 この町で流れている彼女にまつわる怪奇で陰惨な噂が、樺冴深月を学内で孤立させているようだった。本人は気にしていないようで、むしろ自ら他人との関わりを避けているようにも見える。


 だが六月に入ったあたりから樺冴深月の態度は若干だが軟化し始めている。誰かに話しかけられると返事をし、クラスメイトである平賀ひらが真信まさのぶ針木はりき常彦つねひこなどと談笑する様子まで観測されているのだ。


 中学時代に幾度か見かけた彼女の様子からは考えられない変化。そして、その変化をもたらしたのは恐らく――――。


樺冴かご先輩?」


 いくら待っても返答がなかったので、奈緒はもう一度少女に呼びかけた。すると名を呼ばれていることにようやく気がついたのか、樺冴深月がちらとこちらへ視線を向ける。まるで始めてそこに人間がいると知ったかのような反応だ。


 なにはともあれ第一ミッションはクリアと見ていい。次はもちろん、現状の改善を要求せねばなるまい。


「あの~先輩、いろいろ聞きたいことはありますけど、とりあえず手のこれ外してくれませんか? この体勢めちゃくちゃ辛いです。関節とか悲鳴上げちゃってます」


 身体をひねって手首に巻かれているであろう何かを見せる。奈緒からは見えないがたぶん頑丈な縄だ。関節を外しても抜けられないのでよほど酷く固定されているに違いなかった。


 三毛猫の猛攻を避けつつ返答を待つ。すると樺冴深月は小首を傾げて眉をひそめた。


「……先輩って、私のこと? 私が先輩?」


 予想外の切り替えしだった。なぜそこに疑問を持つのか奈緒にはわからない。なので、簡単に返す。


「そりゃ、だってあたし一年なんで、後輩ですもん。先輩は先輩でしょ」


「………………ふーん」


(あれ? な~んかちょっぴり機嫌良くなった?)


 先輩呼びに慣れていないのか、樺冴深月は照れたような表情で唇を尖らせていた。そのまま彼女はしばし考え込み、結論が出たのか一度人差し指をクルリと回す。本に視線を戻しながら、少女は独り言のように呟いた。


「深月でいーよ」


「あっ、はい――あれっ?」


 気づくと、いつの間にか奈緒の手の拘束が外れていた。手首をさすりながら振り返ると荒縄が落ちていた。自然に切れたにしては断面が綺麗すぎる。まるで鋭利な何かに両断されたかのようだ。奈緒の後ろには壁しかないというのに。


 事態を把握できずにいると、ずっと小さく続いていた話し声が途絶えた。猫が奈緒から離れ、深月の隣で丸くなる。


 何事かと奈緒も息をひそめていると、部屋にいた者達が二手に分かれた。まるで一本の花道のようになったその先にあるふすまが、抵抗もなく開く。


「ああ、もう起きてたんだ。お待たせしちゃったみたいだね」


 足音も立てずに部屋へ入ってきたのは、タオルを首から下げた、ワイシャツ姿の少年だった。


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